第57話:毀釈された神格
寒さに震える賽の共に家へと帰ると、コートに包んでいた仏像を取り出すと居間の畳の上へと置いた。木彫りの仏像という形のせいか一切動いている様子は無いにも関わらず、解放されるや否や再び口うるさく騒ぎ始めた。居間へと上がってきた黒猫が威嚇する。
「何たる! 何たる外道共か! この我をかような布に包み縛り付けようとは! 汝ら何をしておるか分かっておるのか!」
「ねぇ、黙って」
「どうしよう縁ちゃん」
「……雌黄が連絡してくるまで待つしかないでしょ」
「ええい話を聞いておるのか! 汝ら大日本帝国の生まれであろう! 今の世に不満は無いのか!?」
仏像は穏やかな顔をしているにも関わらず、それとは真逆な強い言葉を使い続けていた。現在の社会や政治に何か強い不満を持っているのは伝わってきたが、一体何がそこまでこれを憤らせているのかは理解出来なかった。
賽は仏像の正面で正座をするとまっすぐに顔を向けた。
「えっと、私、三瀬川賽って言います。どうしてそんなに怒ってらっしゃるんですか?」
「相手しない方がいいと思うけど」
「何故怒っているかだと!? 分からぬのか!? 彼奴等は我の事を捨て去った! 我もそれで世が良くなるというのであればと納得した! だがどうだ! 今のこの世はまさに地獄であろう!」
賽に付き合って詳しく話を聞いてみると、この仏像が怒っている要因が見えてきた。話によると、どうやら1868年頃に行われた廃仏毀釈という活動が関係しているらしい。神仏分離によって神道を押し進めるという情勢になった際、仏教に恨みを持っていた神職者や市民などが仏教の関連施設を襲い、仏像などを捨てたりした。その際に捨てられた物の一つが、今目の前に居る仏像らしい。
「じゃあ仏像さんはその後の世界に怒ってるんですか?」
「如何にも! 汝らも不満があるのではないのか!? 我らが毀釈される事で大日本帝国が良くなると信じておったのだ! だが未だ争いは絶えぬ! あの『ねっと』なるものを見てみよ! 以前よりも酷くなっておるではないか!」
「……毀釈されて良くなるって、どういう理屈?」
「我とて一人の神だ! 衆生が救えるのであればこの身を投げ出すつもりであった! 事実そうした! だがいくら時を重ねようとも世は良くならぬ! 寧ろ悪くなるばかりではないか! どうなっておる!」
私はあまりネットというものを触った事が無いため、この仏像が言うほど酷いものなのだろうかと疑問を抱いた。確かに私の母親もクラスメイトも碌な人間ではなかった。しかしだからと言って全ての人間が酷い人だとは思っていない。少なくとも雅や翠、賽は表面上はいい人だと思っている。裏の顔は知らないが。
「ねぇ……そんなに酷いの?」
「えっ? え、えっと……あのね縁ちゃん、そ、そんなにじゃないと思うよ私は」
「ではその者にも見せてみるが良い! さすれば我の言う事が如何に正しいかという事が分かるであろう!」
「でも……」
「いいから。見せて」
賽はあまり気乗りしないといった様子でスマートフォンを取り出すと何やら指で操作して私にあるページを見せた。どうやらそれはSNSと呼ばれるサービスらしく、誰でもアカウントなるものを取って好きに投稿出来るというものらしかった。
自分で触って色々と見てみると、この仏像が言っている事が何となく理解出来てきた。誰でも発信出来るという利便性はあるものの、それ故に危険な思想を持っている人間や精神的に不安定な人間なども利用出来てしまい、簡単に同様の仲間と繋がれてしまうという危険性があった。
「あのね縁ちゃん、皆がこうっていう訳じゃないんだよ? 酷い事言う人も居るかもしれないけど、でも……」
「ん……分かってる。いいよ、別に気を遣わなくて」
「汝も理解出来たのであろう! これが今の世の醜さなのだ! 変えるべきだとは思わぬか!?」
「……別に」
「何?」
「あのさ……別にこれ関係無いでしょ。これが人間の本性ってだけ。貴方が生きてた時代と変わらないよ。どの時代も人間なんてこんなもの」
理解は出来ていた。だが、その思想まで理解しろというのは無理な話だった。人には必ずどこかに暗い部分がある。私もいじめられていた時に内心殺意を抱いた事もあったのだ。横で人畜無害な顔をしている賽にも必ずそういった部分がある筈なのだ。完全な善意を持った人間なんて存在しない。そのため、その事であれこれと騒ぐのは自らの愚かさを叫んでいる様にしか感じられなかった。
「縁ちゃん、そんな事無いよ。私、縁ちゃんの事……」
「私は別に貴方がどんな顔しててもどうこう言うつもりは無いよ。それが人間なんだし、責めるのはおかしいし」
「本性だと!? そのような事は有り得ぬ! 我は衆生を救うために存在しておったのだ! そのためなら身を焼く事すらも厭わぬ! 我は神であるぞ! 何故世は変わっておらぬのだ!」
「それが人間だから。人間なんて皆どこか醜いんだよ。私だってそう」
「さては汝ら我を貶めるつもりだな!? 賛同者も居ったのだ! 見ておれ! 汝らは卑劣な何者かに操られておるのだ! 今こそ我と同胞によって救済を与えん!」
そう言うと仏像は机上に置かれていた雅のパソコンを触れずして起動させると、何らかの動画サイトと思しきページへと接続した。すると配信が自動的に開始され、再び現在の世界を批判する様な発言を行い始めた。
「諸君! 今戻ったぞ! 卑劣なる敵の手によって洗脳された哀れな民によって捕縛されていたが、我は無事だ! 今こそ! 今こそ立ち上がるべきではないか! 愚かなる者共による卑劣極まりない政権は終わりを迎えるのだ! 今こそ! 今こそかつての大日本帝国を取り戻そうぞ!」
賽は慌てた様子でパソコンを閉じようと触れたが、バチッという音と共にノイズが走り、雌黄の姿が映し出された。それと同時に開いていたページは全て消され、代わりにSNSが開くと上げられ始めていた仏像の配信に関する情報が次々と削除されていった。どうやら彼女の力の前では何も対抗が出来ない様子だった。
「残念ですが配信中止です」
「雌黄ちゃん!」
「居たんだ」
「というよりも見張っていました。有能なボクからすれば別の活動をしながらネット上の監視を行うなど容易い事です」
「また汝か! 何故我の邪魔をするのだ!」
「貴方が単にバーチャルな投稿者になりたいというのであればボクが関与するべきでありませんが、貴方は怪異ですので然るべき対応をさせてもらいます。その木像を退かして頂けますか?」
賽は言われた通りに仏像を拾い上げるとパソコンから距離を取った。その間ずっとやれ陰謀だやれ策略だと叫んでいたが、相変わらず無茶苦茶な理論でありまともに聞くのも馬鹿馬鹿しかった。
何度かパソコンの画面上に再度動画サイトが開くという動作が発生していたがその度に削除され、雌黄は少しずつ賽に距離を取る様に伝えた。
「この国に生まれておきながらおかしいとは思わないのか! 成すべき事をせよ! 成すべき事をせよ!」
「ええ、今まさにやっていますよご心配なく」
「目を覚ませ! 今こそ革命の時なのだ! 良き国を! 良き国を!」
「ボクは睡眠を必要としませんのでいつでも起きていますよ、貴方こそいつまで目を瞑っているのです? おっと失礼仏像に目は開けられませんね。……そこで止まってください」
賽は廊下に出て玄関の方へと少し進んだ辺りでピタリと止まった。見てみると先程までしつこく表示されていたサイトが開かれなくなっており、仏像はますますうるさくなっていた。
「戻さぬか! 我が成さねばならぬのだ! 我は神であるぞ! 仏であるぞ! 我の名は! 我の名は!」
「どうやら貴方の力が届くのはそこまでの様ですね、違うのであればどうぞやってみてください」
「何たる卑劣! 何たる卑劣! 崇めよ! 称えよ! 我こそは! 我こそは!」
「諦めてはどうですか? 貴方にはもう名前などというものは存在しませんよ、貴方が祀られていたあの寺ももう既に廃屋となっていたでしょう」
「違う! 我には名があるのだ! 崇高なる名がある!」
「……じゃあ言ってみれば」
仏像はプツリと電源が切れたかの様に黙りこくった。先程まであれだけ騒がしかったというのに一言も発さず、うんともすんとも言わなくなった。賽は心配そうに声を掛けていたが、何故あんな存在にまで情を向けるのか理解が出来なかった。
「……さてお話は終わりの様なのでボクはこれで失礼しますよ用事がありますので。三瀬川賽さんでしたか?」
「えっ? うん」
「その仏像をパソコンやスマホに近づけない様にしてください、正確には五メートル以内には入れない様にお願いします」
「うん、でもいいの? 何か可哀想……」
「掛ける情けはありませんし騒ぐのであればまた封印するしかないでしょうね、ボクは担当ではないので知りませんが」
「ん……うるさかったし、別に可哀想でもないでしょ。自分で納得してたんでしょ。だったら後からどうこう言うのは我儘でしょ」
「ではボクはこれで。…………ええ分かっていますよ透、今行きます」
パソコン上から雌黄の姿が消えるとそれを合図にするかの様にパソコンの電源も切れた。私は賽から受け取っていたスマートフォンとパソコンを持つと部屋の端へと寄せて廊下へと出た。仏像は譫言の様に何かをぶつぶつと喋っていたが、私が近寄ると再び普通に喋り始めた。
「我は……我は何なのだ……?」
「自分で言ってたでしょ。廃仏毀釈で捨てられた仏像」
「それは知っておる! だが名まで捨てた覚えはない……我は一体……」
何故この仏像が名前を思い出せないのかは大体予想がついた。雅達が出掛けている間に何度か置かれている資料に目を通していた際に書いてあった。神格存在は強力な力を持っているが、それはあくまで人々からの畏怖や信仰の対象だかららしいのだ。神格はそういった人の感情を自らの力へと変換して強大な力を振るう。しかし一度人々から忘れられてしまうと急速に力は衰えていき、そういった神は自らの恐ろしさを示して力を取り戻すために荒魂へと変化する。だがそれでも信仰されなかったり、今回の様に自ら犠牲になる事を選んだ神はその神格を失い、名も無き怪異へと成り下がるそうなのだ。
「誰か覚えておらぬか! 我は! 我は……」
「……自分で決めた事だったんでしょ」
「認めぬ! 認められぬ! 我がこの身を捧げたというのに何も変わっておらぬのだぞ!? ならば再び力を取り戻し! 世を変えるべきであろう!」
「えっと、仏像さん。今の日本は平和になったんですよ? 私だってそんなに長生きな訳じゃないですけど、それでも今がいい時代なんだって事は分かります」
「汝らに何が分かるのだ! 知った風な口を利くでない! 真の平和とは何かを知らぬからその様な事が言えるのだ! 我を解放せよ! 見せてやろう!」
「分かりますよ」
賽は仏像の頭部へと手を触れると目を瞑った。十数秒程そうしていたが、やがて手を離して目も開けた。
「……こんなに恨んでるんですね」
「何をした!? 我が神と知っての所業か!?」
「……そいつの、見たの? まさか乗るつもりじゃないよね」
「うん……いくら思い通りにいかないからって、恨んじゃ駄目だもん」
「ん……。それでどうするの? 二人が帰ってくるまで待つ?」
「ううん。仏像さんは私がやるよ。見ちゃったんだから、私が責任を取らないと……」
理解出来ない。どうしてそこまで他人に情を持てるのか。こんなのどっか山の地面にでも埋めてしまえばいいのに。何でそこまでして背負おうとするの? 背負うだけの価値があるの? 貴方は……何になりたいの?
賽は大きく息を吸い込み、歌を歌い始めた。
「酔い給え 舞い給う 夜半の雪に埋もれ果て 宵に任せて 流しましょう~」
仏像は最後まで喚き続けていたが、やがてその姿は賽の胸の中に吸い込まれる様にして消えていった。急に静かになり、いざ聞こえなくなると奇妙な寂しさを覚えた。賽は深呼吸をして呼吸を整えると何故か私を抱き寄せた。
「……何」
「……ううん、何でもない」
「だったら放して」
「ごめんね……でももうちょっとだけ」
賽はそのまま私の頭を撫で続けた。記憶が見えるらしい彼女に触られるのは正直プライバシーを侵害されている様で嫌だったが、小さく震えている彼女を見て突き放すという気分にはなれなかった。理由を聞く気にもなれなかった。こうやってれば気が済むなら、勝手にすればいい。そう思った。
ひとしきり撫で終えた賽は多少気が楽になったのか笑顔を見せて台所へと向かっていった。恐らく途中でそのままになっていた調理へと戻ったのだろう。足元で猫が鳴く。
「……」
うるさいので抱き上げて黙らせるために喉元を撫でる。一体これの何がいいというのかゴロゴロと喉を鳴らし、心地良さそうに体を擦り付けてきた。
しばらく経つと食卓へと呼ばれ、行ってみると皿に盛られたカレーがテーブルの上に置かれていた。香辛料の匂いが鼻をくすぐる。足元を見てみると猫の食事も用意されており、容器に名前が書いてあった事から雅達に可愛がられている事が伺えた。
腕の中の毛玉がムズムズと蠢くと床へと降りる。
「ごめんね待たせて」
「待ってないけど。貴方が食べるなら付き合うって言っただけ」
「あはは、そうだったね。ささっどうぞ~」
賽は私の脇へと手を回すとひょいと持ち上げて椅子へと座らせた。自分で座れるのは分かっている筈であり、子供扱いされた様で少し複雑な気分だった。座らせ終えた賽は向かい合う様に反対の席へと座ると「いただきます」と告げ食事を始めた。わざわざ言うつもりも無かったが、じっと見つめてくるため仕方なく付き合う。
彼女が作ったそれを一口運んだ。別に空腹だった訳ではない。20年前のあの日から、空腹など感じなくなっていた。だから食べても食べなくてもどっちでもいい。それだというのに雅や翠はいつも私の分を用意してくれていた。それも仕方なく食べていた。だからこれも同じ。仕方ないから食べるだけ。
「美味しい?」
「……さぁ」
今まで食事に強い関心を持った事は無かった。お母さんは何かを作ってくれた事なんか無かった。お父さんは下手なりに作ってくれてはいたが、それでも別に特別美味しいと感じた事は無かった。お父さんの事は愛していたが、元々食事に興味を持てない私にとっては何を食べても変わらなかった。そんな事に時間を費やしたくなかった。その時間を絵を見たり描いたりする事に使いたかった。
「……?」
「どうしたの?」
「別に……」
腹部が少しだけ躍動したかの様に感じた。とっくの昔に空腹を感じなくなったというのに、まるで生き返ったかの様に動いた。そんな訳は無いというのに、くだらない考えを持ってしまった。先程まで外を歩いていたから急に物が入って来て胃が驚いただけに過ぎない。こんなものはただの生理反応に過ぎない。
結局私は最後まで賽に付き合い、カレーを完食した。本当はおかわりなどはする気が無かったが、食べなければ残ってしまいもったいないと感じたため、仕方なく食べた。
「いっぱい食べたね」
「……そうなの?」
「だって二杯も食べてくれたでしょ?」
「……そっちも食べてたじゃん」
賽は嬉しそうに笑顔を見せると皿を台所へと持っていき片づけを始めた。
「ねぇ」
「うん?」
「泊まるならお風呂あるけど」
「いいの? 雅さんもいいって?」
「泊まりに来るって言っといたから大丈夫だと思う。ていうかそのまま寝るの汚い」
「そ、そうだね! さっき結構奥の方行っちゃったもんね」
少しだけ罪悪感があった。暗闇から解放された私は行き場も無く何度も死に続けてきた。人目につかない場所で一人で寝た事もあった。そんな私が普通に暮らしている彼女にそういう言い方をしたのは失礼だったのではないかと考えてしまった。今私が綺麗な服を着れているのも雅と翠のおかげなのだ。
結局もやもやを言い出せないまま私は湯船を満たしに行った。そこまで大きな湯船ではないが、入ろうと思えば二人は入れるかといった感じの大きさである。
「ニャー」
「……邪魔」
猫は何故か私の頭の上へと乗っかり、そこから湯船を覗き込んでいた。本来猫は水や湯を怖がる筈だったが、何故かこの猫は恐れている様子は見せずに興味深そうにしていた。いい加減頭が重くなってきたので胸元へと抱きかかえると、湯が張れるまで洗面所に座り込んで持つ事にした。あまり賽と顔を合わせる気にはなれなかった。
「縁ちゃん?」
「……」
洗い物を終えたのか賽が洗面所にやって来た。まるで初めから私がここに居るのが分かっていたかの様に探し回る素振りすら無く、一直線な足音と共にやって来たのだ。
「良かった。ここに居たんだ」
「ん」
「どうしたの? お腹痛い?」
「違う……痛いのは慣れてる」
「じゃあ何で……」
「別に……それより先に入ったら? そろそろ溜まるよ」
「うーん、縁ちゃんが一緒に入ってくれるなら入ろうかな?」
「…………は?」
意味が分からなかった。何をどうすればそういった答えに繋がるのかまるで理解出来なかった。賽は私がフリーズしている間に猫を抱くと一旦廊下の方へと降ろした。洗うにしても個別で洗わないと毛の問題があるからだろう。
「ね、縁ちゃん。そっちの方が手間にならないでしょ?」
「……意味分かんない」
「まーまーいいじゃない。親睦深めようじゃないかー!」
賽はヘタクソな演技をしながら準備を始めた。仕方がないので付き合う事にする。どうせ入らないにしてもあの猫の世話をする事になるのだ。どっちもを選んでも面倒くさいのは変わらない。
賽は浴室に入ると何故か私の頭や体を洗い始めた。別にそれくらいは一人でも出来るし、何ならベタベタと触らないで欲しかった。しかし、下手に暴れて怪我をさせると良くないと感じたため大人しく従う事にした。
「お痒い所はありませんか~」
「……ん」
奇妙だった。初めてこういった事をする筈だというのにまるで痒くもくすぐったくも無かったのだ。私の体を知り尽くしているかの様な繊細な動きであり、少し眠たくなる様な手使いだった。
別に変じゃないか……どうせ私の記憶を見た時に体の癖も見てたんだ。そうじゃないとこんなに完璧に出来ない。いつも私が自分で洗ってるのと同じ動きで出来る訳がない。
賽が自分自身を洗っている間、私は湯船に浸かっている事にした。手伝う理由も無い上に、あれこれと触られるのは嫌だろうと感じたからである。やがて洗い終わった賽は湯船に足を入れると、私の脇に手を入れて抱き上げるとそのまま私を背中から抱く様にして浸かった。
「どういうつもり」
「え?」
「……もしかしてそっちの人?」
「どうだろうねー?」
「下手な演技止めたら?」
「うん」
一瞬静寂が包んだ。
「……縁ちゃんもね」
「何が?」
「縁ちゃんは縁ちゃんだよ。そんなに悪い子みたいにしなくてもいいのに」
「別にそんな振舞いしてないけど」
「……小さい頃、お父さんにちゅっちゅしてたでしょ?」
「はっ……はっー……!?」
「あはは、図星でしょ。ぜ~んぶお見通しだよ?」
湯のせいで体温が上がる。今日は調整を間違えたかもしれない。
「……大丈夫だよ縁ちゃん。私は絶対に裏切らないから」
「好きな様に言ってれば……? 言うだけならタダだし」
「私そんなに信用されてないの?」
「少なくとも小さい子の体触る変態だって思ってる」
「いやいや違うよ~もう……」
私の体に掛かる力が強くなる。背中で心臓が脈打つ。
「……ねぇ」
「どうしたの……?」
「ごめん……」
「いいよ。大丈夫だからね……」
何の「ごめん」なのか、何の「大丈夫」なのか、どっちも分からなかった。でも分からなくてもいいのかもしれない。分からなくていい事も時にはある。どうせこの子には全て筒抜けなのだ。
ふと頭の中に言葉が流れ込んできた。彼女がやった事なのは自明の理だった。こんな事をされなければ黙ったままでいられたと言うのに、頭に流されては聞こえなかったというのは通用しなくなる。仕方なく答える。答えるしかないから答える。こんな軽薄な言葉使いたくないが仕方なく。
「やっと呼んでくれたね……私もだよ……」
何がそんなに嬉しいというのか、たかが名前如きで喜ぶなんてどうかしている。それにその後に続けた言葉も本心ではない。無視すれば絶対に変な空気になるから仕方なく答えただけなのだ。今になってうるさい仏像が恋しくなってきた。この空気をどうにかして欲しい。
「合わせてあげただけだから。貴方への評価はちょっとしか変わらないよ」
「もう……ふふっ、そういう事にしとこうかな?」
「何が面白いの……」
「……大好きだよ縁ちゃん」
「ん……大嫌い。変態の賽」
今日の湯はやっぱり熱い。明日からは少しぬるくしよう。




