第44話:己が中 例え芯まで 腐れども 日を奉るれば 雅なるかな
チッーンという軽い音によってエレベーターが最上階に到着した。すすり泣く声は近付けば近付く程大きくなっており、それによってどこから発されているのかはすぐに分かった。恐らく廊下の奥にある他よりも豪華な部屋からなのだろう。
ノブに手を掛けて回してみると扉は簡単に開いた。鍵などは掛けられていなかった。中へと入ってみれば、そこに広がっていたのは私の想像していなかった光景だった。成人していると思しき一人の男性が幼い女の子の服を脱がせてベッドへと押し倒していたのだ。そういった経験のない私でもそれが何をしようとしている光景なのかは理解出来た。そしてここがどういう施設なのかもこの時初めて理解出来た。
「あっち……」
「あっ!」
縁ちゃんが指差した方を見てみるとそこには翠さんが居た。その体を囲う様に青い折り紙が配置されていた。それらは全て亀の形をしており、それが翠ちゃんの結界の力を使うのに必要な物だとは分かっていたがそのパターンまでは完全には把握しきれていなかった。
翠ちゃんは結界の中で力無く膝をついており、俯いている顔を覗き込んでみると瞳孔が開き、涙が流れ続けていた。鼻水や涎も垂れたままになっており、声を掛けても何も反応がない事から気を失っていると思われた。
「ど、どうしよ……まずはあっちを止めないと……」
「……何惑わされてるの。私を助けてくれたんだから分かるでしょ」
「え、えっ……?」
「あれは日奉翠の過去の幻影、トラウマ……消そうとしても消せない。過去からは絶対逃げられない」
「……そ、そうだね」
「……それにさっきからあの状態で膠着してる。つまりこの子のこの過去は、ここで止まってるって事でしょ」
そうだ、縁ちゃんは屋上から飛び降りて死ねない体になったって魂の記憶に残されてた。あの場所で見た景色と違いは無かった。という事は翠ちゃんは少なくともこれ以上の事はされなかったって事になる。それなら今私に出来る事は、まずは翠ちゃんを落ち着かせる事だ。
そう考え幼い翠ちゃんの泣く声を聞きながらそっと結界に手を触れる。しかしそれ以上先へと手を入れる事が出来ず、その魂に触れる事が出来なかった。結界そのものが彼女の持つ魂の力で作られているからかしっかりと結界が目視出来たが、それはまさに壁として私達の接触を阻んでいた。
「触れない……」
「何の結界?」
「わ、分からないけど……亀かな? 壁みたいになってて……」
「亀……」
縁ちゃんは私に続く様に結界に手を触れると足元の折り紙を蹴飛ばそうとした。しかし何かの力が働いているからか、その場から全く動かなかった。しかしそれで何かを理解したのか縁ちゃんは部屋に置かれているテレビのコードをコンセントから抜くとそれを持ってこちらへと戻って来た。
「どうしたの?」
「……この結界、前に日奉翠が使ってるのを見た事ある」
「えっ?」
「私は少なくともこういう種類の結界は二回見た。一つはこの子達に捕まった時。もう一つはまた別件の時。あの時、違う形の折り紙を使ってた」
縁ちゃんは曰く、翠ちゃんは結界を作る際に折り紙の形によって結界の作用を変化させているらしい。それは私も気付いていた事ではあったが、どうやら縁ちゃんが見た結界は両方とも阻む力であったにも関わらず、何故か違う折り紙を使っていたらしい。その二つの間にどんな違いがあるのかはまだ分からないそうだが、何か引っかかる部分があるらしい。
「最初にあの結界に触れた時、何か変な感じだった……あの時私の体は霊体になってた筈。なのに結界に弾かれた。……でも雅は私を抱いてた……何で私に触れて……」
「縁ちゃん?」
「ん……とにかく結界には種類がある。もし私の考えが正しいなら……その結界は実体のあるものしか防げない」
その後に縁ちゃんは自分の作戦を話した。話によると縁ちゃんは一度死亡してから三分経つと体が霊体になって復活するらしく、そしてそこから四分経てば完全に体が実体化するという力らしかった。もしこの結界が実体のあるものだけを阻む結界だった場合、霊体になった縁ちゃんなら侵入出来るという事だった。
「ちょっと待ってよ……それだと縁ちゃんは……」
「今更何を気にしてるの。今まで何回も死のうとして失敗した。それが何回増えたところで意味なんて無いよ」
「だからって……」
反論しようとした私の手に縁ちゃんがテレビのコードを握らせる。
「……今はあなたしか出来ない。私を殺して。どうせ霊体になっても見えるんでしょ? だったら私は体を半分だけ結界に入れる。後は分かるでしょ」
「私が……外に出てる縁ちゃんに触って、そこから翠ちゃんの魂に触れろって事……?」
「ん……出来る?」
「分からないよ、そんな事やった事ないし……でも、上手くやれば出来るかも……」
「じゃあ頼むね」
そう言うと縁ちゃんは私が首を絞めやすい様にと顎をクイッと上げた。やらなければいけないのは分かっていた。それしか今のところ方法が無いのも分かっていた。だが私にはこんな物は使えなかった。
「ごめんね……痛くない様にするから……」
コードを手放すと縁ちゃんのその細い首へと自らの手をかけた。少しでも力加減を間違えれば折れてしまうのではないかと思える程細い首だった。そんな首に力を込める。
縁ちゃんは苦しいのを堪える様に目を閉じていたが、それでも微かに口から洩れる呼吸でかなり苦しいのは伝わってきた。そんな彼女の様子と部屋中に聞こえ続けている泣き声のせいで心が折れてしまいそうだった。今の私はあの男の人と同じ様な事をしようとしているのだと考えてしまった。
やがて小さなその体からは力が抜け、ストンと膝をついた。首から伝わって来ていた小さな脈の動きは完全に停止し、その体からは凄まじい速度で体温が失われていった。その様子は彼女が普通の存在ではない、生きながらにして死んでいる特殊な存在なのだという事をしっかりと見せつけてきた。せめてもの救いは穏やかな死に顔であるという事だけだった。
死亡した縁ちゃんの手を握って待っていると一瞬だけ手触りが変化した様な感覚がした。顔を見てみるとその目はゆっくりと開かれ、こちらと目が合った。
「縁ちゃん!」
「……何変な顔してるの。死なないって言ったでしょ」
「う、うん。信じてたよ」
「……どうだか」
縁ちゃんは私と右手を繋いだまま結界の中へと体を半分入れて左手で翠ちゃんへと触れた。それを見て試しに自分の力を使ってみると縁ちゃんの魂を少し吸い出して過去が見えた。しかしそんな縁ちゃんの記憶の中に何か他のものが混じり込んでいたのが見えてきた。
そうか……縁ちゃんはいわゆる幽霊の状態だから誰かの中へと入り込める。魂に触れるのは普通は魂だけなのかもしれない。私や縁ちゃんみたいな特殊な例を除けばそれが普通なんだ。
「見える……? 上手く言えないけど、何か変な感じがする」
「うん……少しずつだけど見えてきたよ」
翠ちゃんがこんな風に自分の力で閉じ込められているのは、彼女が自分に対して恐怖心を持っているからだ。断片的に見えた過去によると彼女はこの時、能力が覚醒してこのホテルを崩壊させた。大人に酷い事をされたという記憶よりも自分が誰かを殺してしまったという記憶の方が強く残っている。だから彼女は自分を罰する様に結界に封じ込めている。ここは過去の罪、その意識を再現しようとする場所だ。彼女にとっては最悪と言ってもいいくらい相性が悪かった。
「翠ちゃん、こんな……」
「どうしたの?」
「どうして……翠ちゃんは何も……何も悪くないのに……」
「……泣いてる場合じゃないよ。何が見えたのか知らないけど、あなたにしか出来ないの」
どうして、どうしてそこまで自罰的になるの……? 翠ちゃんはいい子だよ……こんな風に考える子が悪い子な訳がない。雅さんと一緒に私の事も助けてくれたんだから、いい子に決まってるのに……。
更に断片を見ていくと彼女が持つもう一つの恐怖が見えてきた。それは嫌われる事への恐怖だった。特に雅さんから嫌われてしまうのではないかという考えが彼女の中で最も大きい恐怖の様だった。自分が実は母親と他人、そして建物一つを崩壊させてしまったという事実を雅さんが知れば、嫌われてしまうと考えているのだ。もしかしたらではなく、確実に嫌われると確信しているのだ。
「……どう? そろそろ四分経つよ」
「うん……危ないから結界から出て……」
縁ちゃんは微動だにしない翠ちゃんから手を離すと結界から出て、少しすると実体化した。もっとも綺麗な霊体であれば生者と区別がつかない私が正確に言える訳ではなかったが、時間と雰囲気の僅かな違いからそうなのだと感じた。
「それで?」
「私達じゃ翠ちゃんは救えない……」
「……見捨てるの?」
「ううん……私達だけじゃ無理っていう意味。翠ちゃんを救えるのは雅さんだけだよ」
「……じゃあどうするの」
「……可哀想だけど、先に雅さんを助けよう。雅さんの魂と翠ちゃんの魂を私が架け橋になって繋げば、雅さんに説得してもらえるかもしれない……」
「……言いたい事は何となく分かったけど、それでどうやってここに戻ってくるの」
「それは大丈夫だよ」
縁ちゃんと手を繋いで息を吸う。
「已み給え 夜見給う 夜宵の空に散り果てて 暁信じて 流しましょう~」
周囲の醜い景色はぐちゃぐちゃに変形し始め、やがてどこかのマンションの入り口と思しき場所へと変化した。私の認識に間違えが無ければ、ここが雅さんの過去に関係している場所だった。
「……ちょっと説明してよ」
「あの歌はね封魔の力があるんだ。それも歌い手の中へと封じる力。あの藪にどれだけの力があるのかは分からないけど、歌で私の中に一度入れてしまえば、そこはもう私のものでしょ?」
「……ちょっと待ってよ。じゃあ私のあれは……」
「うん……全部見たし、全部……記憶したよ。全部私のものとして」
「何……考えてるの……」
「桃ちゃんは私を歌の力で救ってくれた。だから今度は私が皆を助けるんだ。私が背負えば縁ちゃんが楽になれるなら、それで皆が幸せになれるなら」
でもそんな私でも救えない人は居る。私じゃ説得出来ない人が居る。私も一人じゃ生きられない。だから助けてもらわないといけない。助けるために助けるんだ。それに三番まで歌って分かった。この歌は全部歌って完成する歌じゃない。一番にも二番にも三番にもそれぞれ封魔の力があるんだ。ここまで歌った私になら分かる。歌詞に力を込める方法が。
エレベーターへと乗り込み、少しずつ聞こえ始めてきた泣き声を基に場所を割り出す。それは何の変哲も無いマンションの一室だった。やはり施錠もされず開きっぱなしになっている部屋だった。そしてそこには母親と思しき女性から馬乗りで首を絞められている雅さんの姿があった。
「雅さんっ!」
とにかく考えなしに縁ちゃんの手を離して駆け寄り、その人を突き飛ばした。丁度突き飛ばした方向が悪かったのか女性は置かれていた椅子へと頭をぶつけ動かなくなった。それを見てか部屋の隅に居た幼い雅さんは女性の事を揺すり始めた。「おかあさんおかあさん」と泣きながら。
「雅さん! 雅さん!」
虚ろな目をしている雅さんの頬を軽く撫でてみたが何も反応は無かった。幸いにも息はしている様子だったがその目は私の事を見ていない様だった。
少し遅れて部屋へと入って来た縁ちゃんは雅さんを挟んで私の反対側に座り込むとどこか悲し気な声色で語りかけた。
「……皮肉だね。あれだけ私を助けようとしたあなたが、そんな選択をするなんて」
「どういう事……?」
「考えてみてよ。雅は足は悪かったけど能力を使えば大人一人くらいは簡単に倒せる筈でしょ。少なくとも普通の大人以上に危険なものを相手にしてきた筈」
確かにそうだ。知り合って一年も経ってないけど、何となく雅さんは能力が無くても強いっていう認識がある。それこそもしもの時用にちょっとした護身術くらいは使えてもおかしくない印象だ。それこそ何かにもたれながら杖で殴ったりとかも出来た筈なのに……。
近くに落ちていた杖を見ても血液などは付着しておらず、彼女が特にこれといった抵抗も出来ずにやられてしまったというのが感じとれた。
「……とにかく雅を助けるしかないんでしょ」
「う、うん。多分翠ちゃんよりは簡単に助けられる筈……」
「だったら早くして。……何かあったら私が守るから」
「……うん」
雅さんの頬に手を触れたまま魂を部分的に吸収する。すると見えてきたのはやはりという光景だった。まさにこの部屋を見れば一目瞭然という虐待の過去だった。そして、詳しく見えてきたのは彼女が実の母親をその手に掛けたという過去だった。翠ちゃんと同じ過去だった。
『何してるンだ?』
突然見えていた過去が全て真っ白になり、そこにポツンと雅さんが立っていた。彼女の魂が語り掛けてきているのか杖は持っていなかった。
『……君は知ってるンだったよな』
「はい……前にも言いましたけど、雅さんのせいじゃないですよ」
『誰が何を言ったって変えられねェよ。アタシはお母さんを殺した』
「でも……事故みたいなものじゃないですか。それに……正当防衛だって認められる筈です!」
『超能力は法じゃ裁けねェ。今の科学じゃ立証出来ないからだ。だったら自分で背負っていくしかない』
「雅さん、あなたの力が必要なんです」
『……百さんや紫苑、それに翠も碧唯さんも姉さんも居る。アタシじゃなくてもいい。他の誰かがやればいい』
「ダメなんです! 雅さんじゃないと! あの人を! 翠さんを救えるのは! 雅さんだけなんですっ!!」
『あの子はまあ引っ込み思案なところもあるが、別に友達が作れない程じゃねェ。それにアタシの事を嫌ってる紫苑だって、何やかんやあの子のあだ名呼びも許してるしな……』
駄目だ……完全に翠ちゃんと同じ状態だ。何も悪くないのにどこまでも自分を罰そうとしてる。雅さんと翠ちゃんは根深い部分ではまるで同一人物みたいにそっくり似通ってるんだ。だったら私が出来るのは一つしかない。少しだけ見る事が出来た翠ちゃんの記憶を使うしかない。
頭の中で強くあの記憶を呼び起こし、雅さんの魂へとそれを流入させる。
『……オイ今何して』
「それが翠ちゃんの隠したかった事です……私がバラしちゃいけなかったのかもしれないけど、でも……あの子を助けられるのは雅さんだけなんです!」
『そんな……じゃあ翠が裸を見せたがらなかったのは……』
「……お願いです雅さん。今の翠さんはあなたと同じ状態になってるんです。自分を罰して封じ込めてる。きっと私の力だけじゃ助けられない! 雅さんが居ないと翠ちゃんは!!」
突然私の手が握られた。驚いて吸い出していた魂を戻すと、そこにはしっかりと生気のある目をした雅さんが居た。まだ倒れたままだったが、しっかりと意識を保っている様だった。私の顔を見ると私の後ろで守る様にして立っている縁ちゃんにも目線を向け、むくりと上体を起こした。
「雅さん!」
「……やっと起きた」
「……悪い、寝惚けてた」
「あ、あの翠ちゃんが!」
「分かってる。あの子は……幸せになるべきだ」
そう言うと雅さんは転がっていた杖を手に取ると一人で立ち上がり、起きない母親を揺すり続けているかつての自分の側へと行き、そっとその頭に手を置いた。
「……悪い。アタシ、もう行かなきゃいけねェ」
「……逃げるの?」
「違う。やっちまった過去は変えられねェ。でも、そんなアタシにしか助けられねェ子が居るンだ」
「そっか……」
「ああ……ごめんな……」
雅さんがそう言うと幼い過去の雅さんは泣くのを止めてまるで液体の様に溶けていった。母親の死体はそのままだった。
「行こう……」
「はい。じゃあ手を繋いでください。ほら縁ちゃんも」
「……ん」
三人で手を繋ぐと私は再びあの歌の二番を口にする。
「浮き給え 揺られ給う 倦みの果てに疲れ果て 逢魔ヶ刻に 流しましょう~」
景色は再び変化し始めあのホテルへと形を変え始めた。雅さんは桃ちゃんから封じる様にと言われた歌を私が歌っている事に驚いた様子だったが、先に優先するべき事があると考えたのか何も追及はしてこなかった。
ホテルへと着いた私達はエレベーターに乗り上へと向かった。廊下へと出ると雅さんが先頭に立ち、つかつかと進んでいった。雅さんのその目は力強く、決意の様なものが満ちている様に感じた。




