第41話:黄泉川縁は罪の中
その場所は何とも寂しい場所だった。太陽の光は木々の葉の間から僅かに照らし込んでいる程度で、そのせいか心霊スポットにふさわしい冷気が全体に漂っていた。私は列の最後尾で三瀬川に手を引かれて歩みを進めながら周囲を見渡した。
こんな場所に好き好んで来る様な人が居るのはいつの時代でも同じなんだな……私がこんな事を言うのは何だけど、正気の沙汰じゃないかな。その噂が事実にせよ嘘にせよ、こういった場所に来る事がどれだけ危険かなんて考えないんだろうな。
三瀬川は時折こちらを振り返りながら進んでいる。一体何がしたいんだろうか。まさか私の身を案じているのか。もしそうだとしたなら徒労だ。私は不老不死なのだ。首を吊ろうが魂を引き摺り出されようが、絶対に死ぬ事は無い。私を心配する事そのものが無意味なのだ。そんな事を心配している暇があったら私をこの呪いから解放する方法の一つでも思いついてもらいたいものだ。
ふと目が合い、こちらに微笑みかける。
「……」
何が面白いのかまるで分からない。そういえば昔クラスメイトも私を見て笑っていた気がする。彼女もそうなのだろうか。いや、そんな事を考えても意味なんて無い。どうせ彼女とはこれっきりの関わりだ。仲良くする必要も無いし、どうせ彼女の笑顔も上っ面だろう。
三瀬川へ僅かな苛立ちを感じて視線を足元に落とす。青々とした植物達はまるで足元にまとわりつくかの様に鬱陶しく生い茂っていた。それが足に当たる度にこそばゆい感覚がし、自分の体温が低いからなのか特に冷たいとは思わなかった。
その時、ふと足にちくりと痛みが走った。恐らく葉の先端辺りが尖った植物が当たったのだろう。別に大した痛みなどではなかったが、それでも少し嫌な感じはした。足元の雑草を一瞥して前を向いた瞬間、私はいつの間にか孤独になっていた。
「……?」
私は教室に立っていた。知っている。ここは夜ノ見小学校の三年三組の教室だった。目の前では授業が開かれている。国語の授業だった。真ん中の方に居る私によく似た少女は教師に当てられて席を立ち、教科書を読み始めた。それは今は懐かしい『ごんぎつね』の物語だった。
読み終えた幼い私に教師は「黄泉川さんはどう思いましたか?」と尋ねた。あの時の私はあまりにも無垢にこう答えた。
『綺麗だと思いました』
教室が静まり返ったのをよく覚えている。あの時の私には何故なのか理解出来なかった。今なら理解は出来るが別に納得は出来ない。だがあの時どう答えるのが良かったのかは何となく分かる。きっとあの人が求めていた答えはこうだ「ごんがかわいそうだと思いました」。その答えが欲しかったのだろう。
後ろの席のクラスメイトがくすくすと笑う。何がそんなに面白いのか、たかが物語で。だが私が彼らを理解出来なかったのと同じ様に、彼らも私の事を理解出来ないのだろう。いや、理解する気が無いだけか。
『でも先生、ごんは悪い子でした。ごんがウナギを盗んだから、兵十のお母さんは死んじゃったんですよね?』
あの時の私はそう質問した。ごんは悪い事をした。だからそれが因果となって自分の身に帰って来たのだ。どんな存在も罪から逃れてはならない。逃れる事は出来ない。だからごんは死んだのだ。しかしその死は醜いものなどではなかった。ごんは自らの罪を悔い、その償いとして栗などの贈り物を届けていたし、最後には自分の真意を兵十に知ってもらえたのだ。ごんの死は無駄ではなかった。この世には何も成す事が出来ずに死んでいく人が五万と居るのだ。それと比べれば、ごんの死は何とも美しいではないか。そして地に落ちた火縄銃から上る青い煙の何と美しい事か。
教師はこう答えた。「なるほど。ですがごんは反省して栗をプレゼントしてましたね。黄泉川さんはそれについてどう思いますか?」。どうもこうも無いだろう。私の答えは一つだけだった。
『でもごんのせいで兵十のお母さんは死んじゃいました。命は命じゃないと償えないと思います』
教師は困った様な顔をすると私に座る様に言い、授業を進めた。
何も間違っていない筈だった。もちろんウナギを食べたからといって兵十の母親が死ななかったとは言えない。あれが彼女の寿命だった可能性もあった。しかしそれはたらればだ。ごんがウナギを盗んだという事実はどうあっても変えられない。そのせいで母親が死んだと兵十が感じたという認識は変えられない。そして怨みの因果は必ず果たされる。それが人生ではないのか。
授業と帰りの会が終わると幼い私は席に着いたままある写真を眺めていた。それは当時既に亡くなっていたお父さんが撮ってきてくれた写真だった。写っているのはベクシンスキーという画家が描いた作品の一つだった。死や絶望、混沌などをテーマとした作品を多く作る芸術家であり、当時はまだ生きていたらしい。確かバブルという時期に大阪で開かれていた個展で撮って来たものらしかった。
『あっ……』
その写真はクラスメイトから取り上げられてしまった。今なら分かるが、私はクラスでも浮いている変わった存在だったのだろう。彼らはその写真に写っている絵を「気持ち悪い」と評した。私は躍起になって取り戻そうとしたが、元々小柄だった私には手も足も出なかった。そんな私を見て彼らは笑っていた。
何がそんなにおかしいの。死なんて誰にでもやって来るんだから、そんな不思議な世界に惹かれるのは当たり前じゃないの?
『お願いっ返してっ……!』
何としてでも取り戻したかった。お父さんの形見と言える写真だった。お母さんなんかとは違って、いつでも私と仲良しで好みも合う大好きなお父さんだった。
足を払われて床に倒れ込む。彼らは写真を持ったまま教室から出て行ってしまった。幼い私は痛みも忘れて息を乱しながら後を追いかけた。教室に居る誰もが皆、私なんかには無関心だった。
辿り着いたのは屋上だった。そこに着いた時には既に涙や鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっており、小さくて体力の無い私からすれば今にも死にそうな程だった。彼らはこう言った「お前何でこんなキモイもん見てんの?」。私の答えは一つだけだった。
『い、いつかは……っ皆壊れちゃうの……! お、お父さんも言ってたもん! さ、桜だって散っちゃうからいいんだってっ……』
えずきながら答える幼い私を後ろから見る。
無駄だよ、どうせそいつらは理解なんてしない。お母さんだってそうだったじゃん。お父さんと家族な癖に、お父さんを信じてなかったじゃん。ましてそいつらは赤の他人なんだから、分かってくれる筈がない。そいつらはお母さんと同じだよ。お父さんを追い詰めたお母さんと同じ。絵の価値なんて何も分からない、分かろうともしない連中。話すだけ無駄。
『お願いっ……おとーさ……お父さんの、なの……っ』
「そんなに好きならやってみろよ」それが私が耳にした彼らの最後の言葉だった。幼い私の目の前で写真は破られた。お父さんとの思い出は壊された。私の生きる意味はそこで失われた。
幼い私は小さな悲鳴の様な嗚咽を漏らすと、よろよろと屋上の地面に散らばった写真を集め出した。手は震えていた。最早涙すらも流れなくなっていた。さっきまで伝っていた涙が、ただ顔面で踊っているだけだった。
『ん……あは……そ、そっか……おとーさん、そうだね……わ、私頑張ったよね……?』
ふらふらとした足取りで屋上の縁へと向かい、私もその後を追う。彼らは何か言っていたがもう聞くつもりもなかった。どうせあの時の私も聞かなかったのだ。今更聞いてどうにかなるものでもない。
『おとーさ……えへ、おとーさん……きれーだよね? おとーさんの絵もきれーだよ……?』
うわ言を喋る幼い私を後ろから抱きしめる。全く同じ顔と背丈の人間が抱き付いている光景は端から見ればかなり異常だろうが、この際どうでも良かった。上手く言えないが、きっとこれはチャンスなのだ。何か大事な役目を任されていた気もするが、そんなのもうどうでもいい。これで楽になれるのなら、悪くは無い。
「ん……そうだね。この絵もお父さんの絵も綺麗……」
『おとーさん、見ててね……あはは……私、今から絵をか、描くね……』
「そうだね……綺麗な綺麗な花なんていいんじゃないかな。ほら、彼岸花とか」
『綺麗だよお父さん……見ててね、私もおとーさんみたいな絵にするね』
重心が前方に傾いた。それに引っ張られる様にして私の体も宙に放り出される。全身に突風が吹いた。ドンと鈍い音が響く。目の前では真っ赤なかつての私が笑っていた。虚ろな目をしてこちらを見ていた。呼吸が出来なくなる。
『おと……さ……みて……おはなだよ……おはな、さいて……』
幼い私は自らの手を弱弱しく動かしながら校庭を彩り始めた。真っ赤な絵だった。これが自分の傑作だと言わんばかりの赤い赤い深紅の花だった。私は手伝えそうになかった。体はもう動かなかった。
いつもと違う感じがする……やっと……やっとなんだ。これで、これでもうやっと……終われるんだ……思ってたよりも痛くないんだなぁ……でもなんか、ちょっと暑いなぁ……。
真っ赤な太陽が祝福する様に私達を照らしていた。




