第29話:人生と変遷
一瞬体が宙に浮く様な感覚を覚えた瞬間、目の前が真っ白になった。どれだけ周囲を見渡しても完全な白であり、自分の体を見ようと思っても胴体も手も足も確認出来なかった。そのせいか前後左右の感覚を喪失してしまい、まるで海中に放り込まれたかの様な錯覚を覚えた。
これが魂だけの状態なのか……? 体の感覚も無いし動かそうって意思すら湧いてこない。賽は魂を自分の中に吸い込むって言ってたが、ここは賽の魂の中? あるいはそのものか? これじゃ前も後ろも分からないな。
突然真っ白な空間に一人称視点の映像が映った。一つだけではなく、複数の映像が重なり合う様に映っており、それにも関わらず一つ一つの内容をまるで体験したかの様にはっきりと見る事が出来た。
制服を着ている女性に告白をしている映像、病室のベッドで眠っている幼い子供を見守る映像、借金の借用書を見ている映像などの凄まじい量の映像だった。恐らく賽が今まで見てきた人々の記憶であり、彼女の占いを信じて訪れていた人々がどれだけ追い込まれている人々かというのが自分の事の様に感じられた。
そしてそれらの映像群の中には、賽のものも含まれていた。一人称な上に真っ暗な映像だったが、何故かそれが賽の記憶だと直感的に理解出来た。
「今動いた!」
若い女性の声がこもって聞こえてきた。僅かに水音もする事から恐らく賽が母親の中に居た時の記憶だと予測された。まだ胎内に居た時の記憶を保持している人間というのは珍しいとされており、自分もその時の記憶は持っていなかった。ただ忘れているだけなのか、あるいは覚えるだけの知能が無い事が多いのかは不明だが、いずれにしてもそれが珍しい事には変わりなかった。
少し経つと別の記憶が見え始め、周囲の僅かな音から察するに出産された時の記憶だった。本来、生まれたばかりの赤ん坊はまだ目が開いておらず、周りをしっかりと目で識別する事は出来ないとされている。しかしその記憶には真っ暗な空間で動く靄の様なものが複数映っていた。その動きから考えるに恐らく助産師であり、これが賽の言っていた『魂が見える』という感覚なのだと理解出来た。
「先生! 先生!」
助産師と思しき女性の声が響いた。賽は泣いていなかったのだ。赤ん坊は生まれてすぐ泣く子が多いというのはテレビなどで見た事があった。もちろん個人差などはあるが、大なり小なり泣くものであり、泣かない場合は気道が詰まっていたり羊水を飲んでしまっている事があるらしい。
しかしその記憶からは苦しいという感情は一切伝わってこなかった。それどころか、一切の感情が見受けられなかった。まだ物心がついていないにしても急に明るい場所に出されたという驚きや恐怖、初めて聞く音に対する興味などの一切の感情の揺れが存在していなかった。
「さっちゃんおいでー」
次の記憶は初めて歩いた時の記憶だった。賽の母親は優しい表情を浮かべて自分の所に歩いて来させようとしていた。賽は真っ直ぐに母親の元に向かい、抱き上げられた。しかし賽は母親の顔を見ずにその後ろを見ていた。そこには一人の男性が立っており、こちらに微笑んでいた。
「あー」
「どうしたのー?」
「あーあ」
賽は目の前に見えているその人物を示す様に指を指した。しかし母親はテーブルに置かれていた蜜柑を取ってこちらに渡そうとしていた。しかし賽は蜜柑には一切興味を示さず、ただただその男性の方を見ていた。
「サエちゃん何してるのー?」
いつの間にかどこかの幼稚園と思しき場所に記憶は変わっていた。視線の先にはプールがあり、その敷地内には一人の少年が立っていた。
「サエちゃん?」
「モモちゃん。あの子何でプールに居るの?」
「どの子?」
賽に話しかけていたのはどうやら以前出会った桃らしかった。どことなくではあるが面影があり、その様子を見るに賽が見ていた子は既に死亡している様だった。赤ん坊の記憶の時は魂は靄の様な形をしていたが、この時には既にはっきりと見えているらしかった。
「あの子。おーい! まだプールじゃないよー!」
「サエちゃん、本当に誰の事言ってるの?」
「だからあの子!」
賽がどれだけ呼び掛けても少年は反応を示さなかった。まだこの時は他人の魂に干渉出来る力が無かったのか、あるいは死んでもなお賽を認識出来ていた桃が特殊だったのかは分からなかった。
その後賽がどんな行動をとるのだろうかと思っていると、突然記憶が途絶えて何かに引っ張られるかの様な感覚に襲われた。逆らう事は出来ず、ふと気が付くと目の前には賽と翠が居た。どうやら自分の体に魂が戻って来たらしく、体に感じていた不調は無くなっていた。
「みやちゃん!」
翠はこちらに抱き付き、その身を震わせた。賽はホッと息を吐くとアタシの頭から手を離した。周囲には黒ずんだ折り紙が置かれていた。
「良かった……何とかなったみたいですね……」
「……終わった、のか?」
「はい。翠ちゃん、相当苦戦してたみたいですけど、何とか出来たらしいです」
「そうか……」
胸元に顔を埋めている翠の頭を撫で、置かれていた折り紙を手元に集めて全てに熱源を付けると、それを空中に放って一気に加熱して焼却した。塵も残らない様な温度で一気に加熱したため部屋が汚れる事は無かった。
「さて、これでアイツら全員封印出来たな。助かったよ三瀬川」
「い、いえいえ」
「そろそろ時間もあれだし、学校行くか」
「あ、そ、そうですね」
「ほら翠」
「うん……」
落ち着きを取り戻す様に翠を宥めていると賽は何かを口籠り、こちらの様子を伺っている様だった。
「……どうした?」
「えっ? い、いえ……」
「何かあるなら言ってくれ」
「えっと……雅さん。あんまり思い悩まないでくださいね」
「は?」
「……あ、あれは雅さん悪くないですよ。私はその、経験が無いから分かんないですけど、でも雅さんがやった事は……間違ってないと思います」
「三瀬川さん……?」
どうやら賽はアタシのかつての記憶を見てしまったらしかった。以前はその事に触れられなかった事から考えるに、完全に魂を取り込んでしまったからこそ奥底に仕舞おうとしていた記憶が見えてしまったのだろう。死という概念を受け入れる事が出来た彼女からすれば、その記憶が何を意味しているのかは分かる筈であり、これだけ気まずそうにしているのも納得だった。
「……見たんだな?」
「ご、ごめんなさい! 見るつもりは無かったんですけど、雅さんの魂が体に戻らない様に抑え続けてたら段々……」
「いや、別に謝らなくていい。怒ってる訳じゃねェしな」
「そう、ですか」
「え、え? みやちゃん、な、何の話なの?」
「……何でもねェよ。それより学校行け。遅刻するぞ」
「で、でも……」
「行こう、翠ちゃん……」
詳しく聞き出そうとする翠を連れて賽は部屋から出て行った。それを追う様に家から出ると、翠は昔の記憶について聞こうとしてきたが、それを制する様にして賽は翠を引っ張って行った。一人残され、まだ講義まで時間があったアタシは大学前にあるいつもの喫茶店へと入った。学生相手に商売しているからか、朝から開いているのはありがたかった。
「婆さん、来たぞ」
「あらあら、今日は早いのねぇ。いつものでいいの?」
「ああ、そうだな頼む」
適当な席につくと大きく息を吐いた。
まァあの子の力を考えれば、あれを見られるのも当然か。あれの細かい経緯を知ってるのは姉さんだけだった。警察にも話したが信じちゃもらえなかった。当たり前だよな、アタシでも相手の立場だったら信じる訳がない。だから姉さんに話せた時は安心出来た。言ってる事を信じてくれて、その力を正しい事に使う方法を教えてくれた。もし姉さんが居なかったら、今頃アタシはどっかで野垂れ死んでるかもな……。
「はい、お待たせ」
「ああ、悪い」
茶袋婆さんはほうじ茶を入れた湯飲みをテーブルに置くと、何故かその場から動こうとしなかった。いつもならすぐに入り口の椅子に座りに行くというのに今日は動かなかった。
「婆さん?」
「はいはい、どうしたの?」
「いや……しんどくないか? 座らないのか?」
「あのねぇ、何だか雅ちゃん、いつもより元気が無いなと思ってねぇ」
「あーそうか? そうでもないぞ、うん」
婆さんはゆっくりと向かいの席に座ると、開いているのか閉じているのか分からない細い目でこちらをじっと見てきた。
「何かあったんだねぇ。お婆ちゃんに言ってごらんなさい」
「いや、何でもないって」
「あらあら駄目よ、嘘ついても駄目」
「……」
どこまで話したらいいのか分からなかったが、こちらの心を見透かすかの様に視線が刺さって来た。そのためあまり詳しくは話さず、ちょっとした意見を求める事にした。
「……なァ婆さん」
「なぁに?」
「もし、もしもだぜ? 婆さんの子供が何か悪い事したとして、そン時婆さんだったらどうする?」
「そうねぇ……まずは話を聞こうかねぇ。何でそんな事をしたのか、聞かないと分からないもの」
「どう見ても悪い事でもか?」
「ええ、ええ。理由もなくそんな事するとは思えないもの」
唾を飲む。
「もしそれが、殺人でもか……?」
「……ええ。お婆ちゃん子供は居ないけどねぇ、でも雅ちゃんみたいな子がそんな事意味もなくするとは思えないもの」
「別にアタシがとは言ってねェだろ」
「あらあらごめんなさいねぇ……」
「あっいや……すまん」
婆さんは少し間を置いて話を続けた。
「あのね雅ちゃん。人っていうのはね、いつだって変われるのよ。もし何か悪い事をしても、ちゃんと反省して次に活かせばいいのよ」
「その意見だと、残された遺族の気持ちを無視してる事になンねェか」
「雅ちゃん。人はね、どれだけ血が繋がっていても心が完全に通じ合うって中々無いのよ? 例え親子でもね」
反論出来なかった。あの時、母さんの親、祖父ちゃんや祖母ちゃんは悲しんではいたが何もこっちには言ってこなかった。どれだけ自分のせいだと言ってもアタシは関係ないって言い続けてた。誰もアタシを責めてはくれなかった。過ちを認めてくれなかった。
「人って複雑なのよ。皆に見せてる顔だけじゃないじゃない? 相手によって変わるでしょう?」
「……ちょっと待てよ、何が言いたい?」
「どれだけ良くない親でもね、他の人の前だといい顔したりするのよ」
「……」
「だからね雅ちゃん。思い悩まなくてもいいのよ。貴方にとっては良くない人だった。それでいいじゃない。もう済んだ事は変えられないのよ?」
「アタシは何も……」
婆さんはホホホと小さく笑うと「よっこいしょ」と席を立った。
「年寄りの過ぎたお説教だったわねぇ。でもね雅ちゃん?」
「……何だよ?」
「もっと自分に嘘をついてもいいのよ。雅ちゃんは真面目過ぎるから、お婆ちゃん心配よ」
「……考えとくよ」
婆さんがいつもの席に戻るのを見送り、茶を口に運ぶ。
自分に嘘か……そんな事が出来れば苦労はねェがな。実際アタシがあの時やった事は許される事じゃない。今アタシがここに居られるのは姉さんが居たおかげでもあるが、それだけじゃない。ただ法律で裁けなかったからだ。いや正確には、科学で立証出来なかったからだ。だからどれだけ必死に訴えても信じてもらえなかった。だからアタシは何の前科も負わずにこうして生きてるんだ。
あまり長居する気分では無くなったアタシは、湯飲みの中身を一気に流し込むと金を払ってさっさと店を後にした。
「……」
しばらく歩いて大学の前に着いた。二限目からの講義がある学生達が敷地内に入っていく様子が目に映った。
アタシの罪は消せない。婆さんはああ言ってはいたが、これだけは自分が死ぬまで背負う必要がある。だが、拾ってもらった命だ。少しでも姉さんや一族のために働いて恩に報いなくちゃいけない。『垢嘗』や『屏風覗き』は時代に合わせて姿を変えた。もしアイツらの目的が達成されてたら、きっと妖怪世界じゃ英雄扱いだっただろう。敵対して封印した相手だが、学ぶべきところがある。自分の過去を全て払拭出来るくらいの実績を残せばいい。アタシも変わっていかなきゃならない。
足を引き摺り杖をつきながら校門を潜った。




