第27話:保護者の皆様へ連絡です
追儺桃が残した魔除け歌の捜査は一族の人間によって進められ、彼女に教えたとされる母親の身柄が拘束された。しかし、どうやら彼女自身もあの歌が持っている歌の危険性は知らない様だった。
話によると魔除け歌は自らの体を依り代にして怪異を封じ、その追儺の血筋によって少しずつ浄化するというやり方で退治するのが目的らしかった。桃の様に一度に大量の怪異が入り込む事は本来有り得ない事であり、彼女が賽にあの歌を使った事は完全なイレギュラーだったらしい。
とはいえ、危険性がしっかりと分かった今はあの魔除け歌は封印され、桃の母親からも他の追儺の人間に伝えるとの事だった。
魔除け歌に関する問題が解決したと知って安心した自分は、いつもの様に大学で講義を受けていた。今日は夕方過ぎまで講義があり、翠よりも帰りが遅くなる予定だった。講義の内容は情報の変遷についてのものだった。伝言ゲームと同じで、人から人へと伝えられていく情報は必ずどこかで齟齬が生じる。そしてそれが一般的になれば、かつてあった本来の意味は存在しなくなってしまうというものだった。
本日最後の講義を終えてスマホを開いてみると翠からメールが入っていた。
『迎えに来て。校門に居ます』
普段なら先に帰っている筈の翠がわざわざ一緒に帰ろうとするのはどこか妙だった。何らかの怪異に遭遇したのであればそういった旨のメールを入れる筈であり、それをしないという事は何か別の用事があるという事だ。
『今終わった。すぐ行く』
返信を終えるとすぐに学校を出て、翠が通っている高校へと足を運んだ。丁度部活などが終了した時間らしく、校庭では運動部が片づけをしており、文科系の部員達は帰路についていた。そんな中、校門の内側に翠と賽が立っていた。どうやら仲良くなっているらしく、親し気に話していた。
「来たぞー」
「あっ、みやちゃん!」
「雅さんこんにちは。あの時はどうも」
「ああ別に構わねェよ。それよりどうした? 何かあったのか?」
「えっとね……」
翠曰く、この近辺で不審者が目撃されたとの事だった。昔から怪異などの良くないものが集まりやすい地域ではあるものの、こういった不審者情報は意外と今まで無かった。怪異が出たりしなければ、穏やかで過ごしやすい町なのだ。
「それでね、先生が帰る時は絶対二人以上で帰りなさいって……」
「……なるほどな。そういう意味か」
賽はあくまで一般人であるため、翠に付いて来てもらって帰る事は出来るが、逆に所在が知られてはいけない翠からすれば一人で帰る事になってしまう。だからわざわざこの時間まで待っていたのだ。
「私が一緒に行くって言ったのに翠ちゃん嫌がるんです」
「ああその、な……まァこっちにも色々あるンだわ」
「はぁ、そうですか」
「ごめんねみやちゃん……」
「気にすンな。ほら、行くぞ」
いくら結界術を持っているとはいえ、まだ翠は子供だ。もし何かあったらと考えれば、一緒に帰るのが安全だろう。
まずは賽を自宅に送り届けるために住宅街の方へと歩き始めた。その間、今回報告されたという不審者の情報について翠が話してくれた。
まず一人は50代程の男性らしい。薄汚れた格好をしており、登校中や下校中の学生を見つけると男性女性問わずに「唾をくれないか」と言ってくるらしい。逃げると追いかけてくるが、あまり足は速くないらしく簡単に逃げ切れるとの事だった。その発言から『唾くれおじさん』と呼ばれているらしい。
そしてもう一人は40代程の女性であり、その人物は不特定な家の敷地内に入ると室内を覗き込むかの様に外から頭部をひょこひょこと動かすらしい。小学生や中学生からの被害報告も出ており、一部の間では『首ヒョコヒョコおばさん』と呼ばれているらしい。
「気持ち悪ィな……」
「何で唾が欲しいんですかね? 汚くないですか?」
「分からンし分かりたくもねェが……どうせ性癖だろうよ」
「んー……性癖ですかぁ」
しばらく歩いていると賽の家へと辿り着いた。どこにでもある様な一軒家であり、電気が点いている事から少なくとも家族の誰かが家に居る事が伺えた。賽は翠に「また明日」と告げると家の中へと入っていった。それを見送ると、二人で家へと向かう。
「仲良くなったンだな」
「う、うん。三瀬川さん、あれからちゃんと占いはしないって断れる様になったみたい」
「それがいいだろうな。読心能力の一種だからな。使いすぎると気持ち悪がられる」
「だね。私達も普通の人から見れば変わった存在だもんね」
「……だな」
その後他愛もない話をしながら山へと向かっていると、住宅街の道の端で蹲っている人物が目に入った。背を向けており何をしているのかは分からず、翠も不審者情報の事があって不安がっていたが、何やら具合が悪そうだったため声を掛けた。
「……大丈夫っすか?」
「うぅ……ぅ……」
「あの?」
肩に触れようとした瞬間、何か嫌な感じがして咄嗟に手を引っ込めた。その人物はからは悪臭が漂っており、体が震えていたのだ。一瞬ホームレスかとも思ったが、この辺りにそういった人々は見られないため、それとはまた違う存在だと気付いた。
その人物はゆっくりと立ち上がると、ぬらりとこちらに顔を向けた。その顔には皺がいくつか刻まれており、ギョロっとした目をしており、手には小さな壺の様な物を持っていた。
「翠……」
「う、うん!」
「お嬢さん方、申し訳ないが唾をくれないかい?」
その言葉が発された瞬間、翠の折り紙が宙を舞い、男の周りを取り囲んだ。恐らく『威借りの陣』で弱体化させようと狙っていたらしいが、男は目の前で体を液体に変化させてマンホールまで素早く移動すると、隙間から入り込んで下水道へと逃走した。かなりの素早さであり、結界が発動する前に動いた事からかなりの手練れである事が伺えた。
「クソ! 逃げられたか!」
「ご、ごめんみやちゃん……」
「いや、いいンだ。だが今のではっきりしたな。『唾くれおじさん』ってのはただの変態じゃねェ。怪異の一種だ」
「でも何で唾を集めてるんだろう……怪異の一種なら性癖とかは関係ないと思うけど……」
「……性癖の方がよっぽどかマシだったな。怪異相手となりゃ先が読めねェ……」
逃がしてしまった上に熱源の付着も間に合わなかったので、これ以上の追跡は一旦控える事にした。明日もまた学校があるため、ここで追い回すよりも明日まで待ってそこで捕まえた方が速いと考えたのだ。そのため『唾くれおじさん』の追跡は諦めて山へと向かい、家へと帰った。
着いてすぐに資料を開いて類似した存在が居ないかと確認したが、唾を集める怪異の情報は載っていなかった。唾をかけてくる妖怪や唾をかけられるのを嫌う妖怪は居たが、唾を目的とする者は居なかった。
新種の怪異か? 『箱入り鏡』が無くなってから新旧様々な怪異が町に現れる様になった。縁や賽の様に力を持っているだけの無害な存在も居たが、全部が全部そうという訳じゃない。不審者という形で姿を現す怪異が出てきてもおかしくはない。
「みやちゃん、どうする……?」
「いずれにしてもアイツは明日だ。話が本当ならアイツは学生を狙う。それも通学帰宅中のだ。だから後回しにしよう」
「あか姉に電話する?」
「……念のためしとくか」
居間から出て姉さんに電話を掛けると今日目撃した怪異の事について報告した。姉さんにも覚えがない怪異らしく、『ぬっぺふほふ』の時に存在が確認された『多田』という電子生命体の様な新参の怪異である可能性が高いらしかった。しかし外部ではそういった怪異は確認されておらず、確認されている不審者情報もあくまで人間が起こしているものらしいので、日奉一族が介入する必要性は薄いらしい。
「分かった。じゃあまた何かあったら連絡するよ」
「ええ、無理はしないように」
電話を切ると再び居間へと戻り、資料を確認する作業に入った。翠は相手が怪異と分かっていても不快感からか、足元に寄って来た美海を抱きしめていた。美海は翠の異変を感じ取ったのか慰める様に手を舐め始めていた。
「唾か……何が目的だ? 何をしたい……」
「み、みやちゃん……」
「うん?」
「み、三瀬川さんが言ってたもう一人の不審者なんだけど……」
「あっちはまだ何とも言えねェな。まァ仮に怪異だとしても心配すンな。この家には順路を通らないと来れねェだろ。来れたとしても結界を突破出来ねェよ」
「そ、そうだよね。大丈夫だよね」
「ああ、考え過ぎンなよ」
その後しばらく様々な資料を読み漁り、アレが何故唾を欲していたのかを考えていたが、やはり何も分からなかった。恐らく唾という部分に何か重要なポイントがある様な気がしたのだが、それが性癖ではない上に集めているとなると理解不能だった。翠は隣で美海を抱きながら一緒に資料を見ていたが、やがて風呂へと向かって入浴を始めた。どうやら途中で湯を張っていたらしいが、集中していたからか気付けなかった。
「あー分からン」
ゴロンと倒れる様に寝転がると美海は腹の上へと飛び乗ってじっと顔を見つめてきた。それに手を伸ばして首元を撫でる。美海はゴロゴロ音を出し、心地良さそうな顔をしていた。
「なー、分かんないよなー美海ー」
答えが返ってくる訳でもない質問をしているとスマホに着信が入った。相手は賽であり、この間教えて以降そのまま登録しておいた。元々監視を行うつもりだったので向こうも消さないでいてくれたのは好都合だった。
「はい雅。どうした?」
「あっ雅さん大変なんです!」
「……何だ?」
「実は……」
その時、賽の声に重なるかの様に悲鳴が響いた。声がした場所は風呂場からであり、扉が開け放たれる音がしたかと思うとドタドタと廊下を走る音が聞こえ、タオルで体を隠してびしょ濡れになっている翠が居間へと駆け込んできた。
何事かとすぐに体を起こし、美海も騒ぎに驚いたらしく目を覚まして腹から飛び降りていた。翠は濡れているのもお構いなしに怯えた様子でこちらに引っ付いてきた。体温は高くなっているというのにその体は震えていた。
「お、オイ! 何だ!?」
「雅さん!? 聞いてます!?」
「ああちょっと待て! オイどうしたンだ翠!?」
「い、居たの……」
「は?」
「ま、窓の外に……頭が……こ、こっち見てた……」
まさか、『首ヒョコヒョコ女』って奴も同じ様な怪異なのか……? しかしそうだとして、どうやってここに侵入した? あの順路を知ってるのはアタシらだけだ、間違ったルートを通れば迷う様になってる。それにここには物の怪の類は入れない様に結界が張ってある。それをどうやって突破した……?
「雅さん! 雅さん!?」
「あ、ああ三瀬川聞こえてる。どうした?」
「じ、実は自分の部屋で漫画読んでたんですけど、そしたら窓の外に……」
「……顔があったのか?」
「そ、そうですそうです! ひょこっひょこって、こっちの様子を伺う感じで!」
嫌な気配を感じて縁側へと顔を向ける。すると縁側の壁の影から、一人の女の顔がこちらを見ていた。こちらの視線に気づくと一度姿を隠したが、すぐにまた頭部を見せてじっと見つめてきた。翠もそれに気付き、酷く怯えながらより強く引っ付いてきた。
女の顔はまさに40代といった風貌であり、目の下には隈の様なものがあり、髪は淀んだ黒色だった。頭部しか見えないため、どんな服装をしているのかは不明であり、あれだけヒョコヒョコと動いているというのに全く端すらも見えなかった。
「雅さん聞いてます!?」
「ああ……聞いてるよ」
「みやちゃ……やっ……やだ……」
「……三瀬川、今もそいつは居るか?」
「……居ますね。こっち見てます。多分人間じゃないですよ、魂が大きさに見合ってないですもん」
「分かった。取りあえず今日は家族の誰かと一緒に寝ろ。顔が見えても意識しない様にしろ。アタシらがどうにかしてみる」
「分かりました。一応携帯は持ったままにしときますね」
そう言うと賽は電話を切った。相手から目を逸らさない様にしながら、スマホを机の上にそっと置く。その際スマホから机へ、机から畳へと熱源を移動させて縁側向こうに居る頭部へと移動させようとした。しかし、あと少しで届くといったタイミングで顔は引っ込み、そのまま消失した。熱源は相手に触れる事は出来ず、家の外壁へと移動してしまった。
「……逃げやがった」
「……っ……っ……」
「……翠、もう大丈夫だ。どっか行ったよ」
「も、もう居ない……?」
「ああ、逃げたよ」
「あ、ありがと……」
畳や廊下は翠から滴り落ちた水でびっしょりと濡れており、引っ付かれたせいで服もぐしょぐしょになっていた。ようやく落ち着きを取り戻した翠はその事に気付き慌てていたが、自分の持つ加熱する力を使えばすぐに乾かせそうだったため、一旦脱衣所へ行かせてその間に熱源を付けて微弱な加熱を行う事で手早く乾かした。また自分も濡れてしまった上にまたアレが出てくる可能性もあるため、壁を支えにしながら脱衣所へと向かい、一緒に湯船に浸かる事にした。
翠は昔から裸を見られる事に慣れておらず、一緒に暮らしている自分にもなるべく見せない様に振舞っていた。かつて何かあったらしいが、姉さんの所に来た時から既にその調子だったため、何か触れてはいけない過去があるのだろうと感じて聞かない様にしていた。それは彼女も同じだった。
翠は自分の体を隠す様にしながら体を洗い、すぐに順番を変わってくれた。そして先に湯船に浸かった彼女はこちらを見て「あっ」と声を上げた。
「みやちゃん、それ……」
「ああ、これか」
翠が見付けたのは、脇腹に刻まれていた傷痕だった。今まで一緒に風呂入った事は無かったため、知らないのも当然だった。何より自分自身、話すつもりも無かったのだ。これを知っているのは一族の中でも姉さんだけだろう。
「まァ、昔の古傷だ。ちょっと見た目はアレかもしれねェが、痛みとかはねェよ」
「そ、そうなんだ……」
翠はそれ以上は何も聞かなかった。お互いの過去について詮索しないのは暗黙の了解の様になっていた。体を洗っている間、翠は浴槽に浸かっていたが、こちらが入ろうとすると慌てて出て椅子へと腰掛けた。本当なら気まずくて浴室から出たかったのだろうが、またアレに会うかもしれないと考えてそこで待っているのだろう。
アイツはここの窓から見てた訳か。だが何が目的だ? 賽の所にも表れたらしいが、どういった基準なんだろうか。自室を覗いて風呂場を覗いて、居間も覗いてた。これといった規則性が見られない。そこが分かれば上手くいけそうだが……。
少し腰を沈め、肩まで浸かって少しでも疲れを癒そうとした。明日は二つの怪異を相手にしなければならない。脅威性は少なそうだったが、あの逃げ足の速さを相手にするのは骨が折れそうだ。
ふぅっと息が漏れた。




