悪役令嬢の婚約者
「シルビア、愛してる。お嫁さんになって?」
「ゑ!?」
グレン・レグルス(推定年齢十七歳)といえば完璧無比な美青年である。
世界に名だたる名門『レグルス公爵家』の嫡男にして、急逝した父親に代わり当主の座に就いて既に久しい。
文武両道。八面六臂。博識多才。蓋世之材。知勇兼備。鶏群一鶴。眉目秀麗。才色兼備。秀外恵中。才貌両全。威風堂々。余裕綽々。彼を形容する言葉は枚挙にいとまがなく、本来は女性に用いる表現でも違和感が積極的にサボっている。
目に鮮やかな緋色の髪は赤薔薇よりも濃く、真紅と金の蠱惑的なオッドアイ。例え何もない荒野だろうと、枯れた花々しかなかろうと、どんな背景であっても一層彼を引き立て周囲を魅了してやまない。
一方で、歯向かう者には一片の容赦もなく叩き潰す苛烈さも併せ持つ。どこまでも見透かすような双眸に見つめられれば下手を打つ気概を半ば強制的に削がれるため、グレン・レグルスそのものが魔除けのようだった。
実際に彼の砂漠よりも広い視野の中で悪事を働いた者が、明日を真っ当に生きていられた試しはない。地獄の業火、終焉の夕焼けのようだとも畏怖を込めて密やかに評されてもいた。
それゆえ孤高。
あらゆる方面で突出したセンスを発揮し、絶対的な統制力を持つ超ド級のオールラウンダー。ただでさえそのようなのに、更にこの上、二重人格者であることがハイスペックを二倍どころか二乗にしているのだから「魔王」の渾名も間違いではない。
もはや人間の枠を超えたのではないかと思うほどの才能を、これでもかというほど貰い受けた神に愛された男。魔法学園に主席で入学したその瞬間から常勝生命体として君臨している。
ちなみに年齢が推定なのは、確かに誕生日から計算すれば順当に十七歳のはずなのだが、周囲が素直にそうは思えないからこその注釈である。
そんな青年も人並みに恋をしていた。
それは淡い初恋だった。
生まれながらのエリート、勝ち組、王者の烙印を押されたグレンの心臓を射止めたのは、月夜に映えるプラチナブロンドが凛々しいシルビア・ジュパンという少女である。両親が急逝したグレンの後見人となった『ジュパン公爵家』の一人娘で、数年共に暮らしていた。
グレンが彼女に恋したきっかけなど、数え上げればキリがない。どこが、なにが、そういったものを特定し、部分だけ切り離して考察するなど、そもそも愚かなことだとグレンは思っている。
正負問わず多くの感情があり、共に過ごした時間があった。
恋とはおそらく、季節の移り変わりのようなものなのだろう。
種が播かれたからといって、すぐに花が咲くわけではない。然るべき時が来なければ咲かない。あるいは、例え意識してどんなに大切に育てようとしても、咲かない花もあるだろう。簡単なことのようで、本当は奇跡だと理解している者はどれだけいるだろうか。
(会いたい)
(名を呼びたい)
(抱きしめたい)
超然とした佇まいや超人級のスペックから「何を考えているかわからない」とよく評されるグレンの頭脳がいつ如何なる時でも進行形で考えているのは「シルビアをどうやって愛でるか」という一点に尽きたし、脳髄のド真ん中にはいつ如何なる時でも「シルビア」の文字が刻印されている。
並の男ならいざ知らず、腑抜けたようにボンヤリとしていても麗しいと男女問わず惚れさせる横顔の時でも、もちろん考えているのは「シルビアを抱きしめながら昼寝したい」ことである。
もはや恒例でしかない表彰の壇上でもグレンの意識はまったく別方向で、今のところ挨拶と心の声「シルビア愛してる」がうっかり逆になる事故は免れているが未来の保障はない。
その敏腕を遺憾なく発揮し、事案や事件を解決すべく最高権力者ばりに周囲を動かしている時も、一瞬も忘れることなく考えているのは「シルビアとキスしたい」ことである。
(愛でたい)
(キスしたい)
(抱き潰したい)
雪のようにしんしんと、静かに降り積もった感情や思い出の下で知らぬ間に芽吹いていたモノが、陽の目を見るのをずっと待っていた
ーーなんて、実際の恋愛沙汰がそんな綺麗なハナシであるわけもなく。さながら獲物を捕らえようとする野生の獣のように、今は大人しくしていただけのことだ。
彼女は可愛い人だ。
まず毎朝おっかなびっくり鏡を見ては「ぴゃ…!」と小動物のように怯えるのが可愛い。嫌いというより、生きた心地がしないそうだ。自分の顔なのに。
なんだそれは、と最初は思ったものだが、真剣に思い悩んでいる姿を見れば言うのは憚られ…いや、正直に言おう、朝から滾るほど可愛かったのでそんな些細な疑問など吹っ飛んだ。
『優しい笑顔になるための十のレッスン』という本をわざわざ取り寄せて、ムニムニと頬をマッサージしたり口角を上げる練習をしたり。大変微笑ましい健気な努力だったが、曰くの生きた心地がしない顔面効果を逆に底上げしていたように思う。
そんなことをしなくても今のままで十分優しい笑顔だ、自分は好きだ、と気休めではなく本音を言っても「天使に言われたくない…!」と涙目でキッと睨まれる。だからそんな顔をしても可愛いだけだと思ったが、火に油だと黙っておいた。
「目に優しく生まれたかった…」とシュンと落ち込む姿も可愛い。目に優しい生まれってなんぞ?とはグレンだけではなく彼女に仕える家人全員の疑問だったが、俗に言う目の保養とは別の意味だろうことは理解した。要するに地味になりたかったのだろう。
残念ながら無理だろうな、と思いつつも可愛いのでこれまた黙っておいた。整形でもない限り生来の顔面偏差値は変えられないという意味でもそうだが、彼女を慕う家人達、特に侍女、メイド達がこぞって彼女の願望とは真逆のベクトルに丹精込めて着飾るので。ちなみに便乗した犯人はここにいる。
彼女は可愛い人だ。
そして、とても不遇な人だった。
『ジュパン公爵家』を“世間一般的に”改めて紹介しよう。
レグルス公爵家と同等、その名を貴族界で知らぬ者はいない。但し、その印象は真逆で、レグルス家が光であるならジュパン家は闇、正と悪、陽と陰、夏と冬ほどに雲泥の差があった。
『暴虐非道な魔族の末裔で、今も虎視眈々と国家転覆の機会を伺っている裏社会の支配者』―――これが社交界で囁かれている冠名である。
一族の歴史の長さもレグルス家に匹敵し、代々に渡り北の領地を掌握、着実に勢力を広げながら、王家の守護神として正義を守るレグルス家と常に敵対し続けてきた。いつの時代も巧妙な悪行によって名を馳せ、財を築き、裏社会を暗躍して度々王家を苦しめている。
王家やレグルス家をもってしても成敗することは難しく、ジュパン家によって搾取され絶望に陥った者は数知れず。弱き者、小さきものをかえりみることはなく、血も涙もない残虐な極悪非道っぷり。
中でも当代の一人娘の美しさは、さながら温かみのない幾何学的な雪の結晶の如く。清楚な乙女とは名ばかりで、その髪は猛毒の水銀、白い肌は陽なたを知らず、母親の精気を吸い取った『冥界生まれの氷の冷嬢』。人の心や感情に欠け、病的なまでの潔癖性で不格好なものや不細工なものを嫌悪する。その瞳は悪魔の鏡の如く、美しくないと彼女に認識されたモノの末路は死。一方でそんな彼女に魅入られた者は心変わりをしてしまう―――
笑い話である。
こんな根も葉もない噂話、道化以下のとんだ作り話の根拠が、顔、そのただ一点のみであることを信じたくはないが、ひとの第一印象とはおそろしい。その極悪顔の遺伝子は少なくとも先々代からのものだそうだ。とばっちりにもほどがある。
急逝した両親に代わり、予定より大幅に早くグレンはその双肩にレグルスの名を背負うことになった。その時に、人格が明確に二つに割れた。のしかかる重圧に耐えるための自己防衛本能だった。
安易な信用は命取りだ。ゆえに自分と家を守るため、同居一年目こそ完全に彼女を穿って見ていた。常に防御力極振り状態、後ろ手に刃を隠し持って、いつでも攻撃力にギアチェンジ出来るように構えていた。
ところが、思うところあって色眼鏡を外して観察した二年目。改めて冷静に探れば探るほど、思わず額に手を当て天を仰ぎたくなるような彼女の不遇さがフルスロットルで浮き彫りになったのである。
見た目の第一印象はともかく(想像するだけなら自由だ。想像するだけなら)そもそも魔族なんてモノはこの世界には存在しないし(厨二病も甚だしい)北の領地を治めているのはただの事実で(むしろ誰も領主やりたがらない難しい土地を国王から直々に任されている)勢力拡大も真っ当な功績による真っ当な領地拡大や財の底上げだし(つまり低能のやっかみだ)裏社会のことはむしろ虱潰しで叩き潰しているし(ある意味で支配)むしろそれだって誰もやりたがらないから王宮のSOSを快く引き受けているのだし(つまり低能の尻拭いだ)搾取とは言うが実際は横領賄賂その他諸々の不正を行った貴族の懐から正当に没収しているだけで(つまり国家転覆どころか低能の以下略)弱き者には砂糖水をマーライオンするほどゲロ甘い(詳細は後に語る)。
何故か引き合いに出されているレグルス家だが、本家の人間がジュパン家をこのように悪く言っているのを、グレンは生まれてことかた聞いたことがないわけで。そう、ジュパン公爵家が―――シルビアと彼女の父親のクロードが『極悪非道な(中略)裏社会の支配者』などというのは十割嘘っぱちなのである。
ところが、グレンが思っていた以上に世間の目は節穴だった。
『ジュパン公爵家』の父娘の笑い話()は枚挙にいとまがない。
ごくたまに社交パーティーに顔を出したかと思えば、会場に一歩足を踏み入れただけで悪名が尾ひれ背びれをつけて蔓延する。まだひと言も言葉を発していないにも関わらずだ。
『亡くなった公爵夫人を忘れて若い女を夜ごとベッドに連れ込み、用がなくなれば容赦なく捨てる冷血漢』
「とんでもないことです。旦那様は今でも奥様ただお一人をだけを愛されております。後妻など作る気はございませんし、そもそも妾の概念すらないお方です。あれほどの愛妻家をわたくしは見たことはありません」
『少女とは思えない毒花の微笑みで男を誑かして弄ぶ社交界随一の氷の悪女』
「お嬢様の本当のお姿を見抜ける殿方はいらっしゃらないのでしょうか…あれほど心優しく、純朴で、小さなものこそ大切にする澄んだ瞳をお持ちの方が、悪女などであろうはずがありませんのに」
ジュパン家に長年仕える家令の、海溝よりも深い嘆きである。
社交パーティーは、まだ良い。シルビアもクロードも特権階級にありがちなおべっかや権謀術数は好まないから、そこに執着などない。但し、被る悪評を「慣れてるから」「しょうがないよね」で済ませる本人達の代わりに家人達の胃がヤバイが。
きちんと招待状を持って出席したはずの結婚式場では花婿を寝盗られると勘違いした花嫁に泣かれ、花婿に花嫁を略奪されると威嚇される。猫や犬からじゃれついているのに飼い主が真っ青になりながら命乞いをしてくる。本をこよなく愛する二人が町の図書館に行けば緊急内線が即座に回り専属司書(※ジュパン父娘に限る)以外半径十メートル圏外に退避。目の前で落ちた財布や品物を拾って声をかければ全力で献上され、「喉渇いたねー」と何気なく会話しただけで「気づかなくて申し訳ありません…!!」とガクブルされ、飲み物ついでに高級菓子を貢がれ、横を行き違いに転んだのが子供なら心配したはずがガチ泣きされ、もう少し大人なら「愚図でごめんなさい!!」と逃げられ絆創膏を持った手は宙を彷徨う。
屋敷や領地を一歩出た瞬間から、それこそ摩訶不思議な魔法の鏡のように真実は面白いほど歪む。
猫や犬が好きで屋敷では服を毛まみれにするくらい遊んでいるし、アマガエルなんかもへっちゃらで、ヤモリや小さな蜘蛛は家の守りびと。世界で一番尊敬しているのはタダでたくさんの本をたくさんの人達が読める公立図書館を発明した人。献上されてしまったものは善良顔の友人宅に頼んで速かにクーリングオフ。粛々と高価なお茶やお菓子を嗜むより見習いメイドのちょっと失敗したお茶や領民が差し入れてくれる素朴な茶色いおやつが好きで、なんならパーティーの美食よりも寒い時期に皆んなで囲う芋煮が大好物。絆創膏をいつも持っているのは「治癒魔法は使えるけど、これはもう怪我をしないようにっておまじない」。結婚式場で一番賛辞された飾り付けの七色の千羽鶴を、誰が睡眠時間を削って作ったか誰も知らない。
こんな有様でよくぞ公爵家として存続し得ている、とは至極当然の疑問だろう。
だが、グレンは既に気づいていた。そんな『ジュパン公爵家』を必死に繋ぎとめようとしているのは、悪評を被る本人達よりも、むしろ王家を筆頭とした数少ない周囲の理解者の方であると。
国益の利害という意味でも勿論だが、同時に、本当の姿を知る者達にとっては、何が何でも二人を没落させるわけにはいかないのだ。同居生活の中で、彼らがこの父娘を非常に大切に思っていることは短い時間でも感じ取ることができた。彼らにとっては純粋に『良き友人』と呼べる貴重な存在なのだろうと。
しかし、繰り返すが現実は世知辛い。綺麗な御伽噺の中でならさぞ美談に聞こえるだろうが、世界は実に理不尽かつ不条理に満ちている。
理解者がいないこともないが、あまりに少な過ぎた。やっていることは至極真っ当にも関わらず、何かといえば明後日の方向へ解釈され、果ては裏社会を牛耳っているのではと大真面目に勘違いされるなど本当にシャレになっていない。
こいつらの目をくり抜いてやろうか…
いいよ、僕もやぶさかじゃない
同居二年目にしてだんだんと絆されている自覚はあった。
いや、絆されるとは語弊があるかもしれない。
『ジュパン公爵家』もその爵位の重さはわざわざ述べるまでもなく、ただでさえそのようなのに更にこの上、外見ひとつだけでこれだけの悪感情を向けられている。
それにも関わらず、卑屈になることなく真っ直ぐあることを選ぶ二人を見てるだけと言うのは、グレンにとって有り余る優秀な能力の生殺しにも等しかった。自分がその場にいない不憫な話を聞くたびに、自分がそこにいたならこうフォロー出来るのにと何度思ったことか。
自分以外は全て敵だと認識し、必要以上に踏み込まない踏み込ませないと己に課した。それなのに、どんどん手出し口出ししたくなってくる。ウズウズして、手持ち無沙汰に手を開いたり閉じたりが癖になっていた。こんな日常風景を延々と見せつけられるとは、とんだ精神的拷問もあったものである。
決定打は、同居生活もいよいよ三年目に突入しようかという、ある日のことだ。
ジュパン家の屋敷の中を一人で歩いていた時、一枚の絵画がなくなっていることに気づいた。単に装飾を交換したのかと思ったが、それにしては壁がそのまま空白になっている。
不審に思ったグレンは、ちょうどお八つの時間だと誘ってきた二人に報告した。
実は不審に思っていることはもうひとつあった。半年ほど前にクロードが雇った使用人の一人が見当たらないのだ。休みではなかったはずだ。もしや、と関連づけて考えたのはごく自然なことだった。
「はっはっは、グレンは間違い探しが得意そうだなぁ」
「は?」
「ね。そっか、あの絵にしたのね。そこそこ高く売れると思うから、暫くはお母さんと一緒に暮らせるのじゃないかしら。どれを持っていったのかなって私も探してたんだけど、全然わからなかったわ」
のほほん、とお茶を飲みお菓子をつまむ二人を見た瞬間、辛うじて脆い生命線を保っていた不審感や猜疑心という名の鉄壁に、とうとうピシリと亀裂が入る音を聞いた。
優秀なグレンの脳はひとつの可能性を弾き出した。二人にではなく家令に問い詰めたのは正しい判断だったと言えるだろう。
はたして予想は当たった。二人の救いようのないお人好しゆえの所業だった。もちろん全くこれっぽっちも褒めてはいない。
よくぞ気づいてくれました、と家令は本気で涙ぐみながら語った。いつの間にか集まっていた他の家人達までもがうんうんと凄い勢いで同意してきて語ることには。
曰く、かねてよりシルビアとクロードは福祉の分野に家業として力を入れたいと考えていると。その足がかりとして、まず自分達の領地で格差社会に苦しむ貧しい人々を雇い個々の能力を見定めた後、保証人となってどこでも働ける人材を育てようと試みたらしい。
ところが、ここでも悪役顔の弊害が猛威を振るった。何を企んでいるのかわからないと、正式な紹介状を持たせても勘違いされてどこにも良い顔をされないのである。これには二人とも、ほとほと困り果ててしまった。生まれつきの顔はどうにも出来ない。そのせいで、せっかく頑張ろうとしている者まで勘違いされるとは。
二人は何故だか、貴族の婦人の暇潰しのようなボランティア精神とは違い、真剣に本気で貧乏な人々を放っておけない理由があるらしかった。
しかし、どれもこれも裏目に出てしまう。永遠に領地で雇うわけにもいかない。受け入れられる余地には限界があるのだ。そもそも北の領地は一般的に住み難いという欠点もある。
苦肉の策が、屋敷に直接雇って働いて貰うことだった。当然給料を支払うのだが、中には今回のように屋敷にあるものを持ち出し夜逃げする者もいる。それをシルビアもクロードも黙認していると言うのだ。
『家族は一緒にいるのが一番だから』
たったそのひと言で。
「そう言って、旦那様もお嬢様もっ和やかに笑うんですうぅ……っ!!」
瞬間、グレンのどこかで何かがキレた。
「捨て身になるにも限度があるぞ!?」
「ですよね、ですよね…!!」
シルビアもクロードも決して考えなしのバカでも愚か者でもない。本人達の責任ではない極悪顔を勝手に誤解した周囲の悪評のせいで、そんなバカみたいな行動しか出来ないのだ。
家人達は両手で顔を覆いさめざめと泣いた。家令はと言えば理解してくれたのがよど嬉しかったのか、それまで一歩引いて見守っていた態度から一転、言葉すらなくグレンの両手を固く握りしめて涙した。
「そっそれに…!」
「まだ何かあるのか!?」
「顔は悪評ばかりだけど中身(臓器や魔力)はピンピン元気で良い評価(健康診断結果)だからイケるんじゃないかって、毎年いつも喜んでるんですうぅっ!!」
臓器や魔力売ったお金で福祉する気満々じゃないですかやだああぁぁっ!!
わっと泣き崩れた彼ら彼女らの一方、グレンの表情筋は最早完全に死滅した。中身(臓器や魔力)は良い評価だからイケるってなんだ。
ちなみに魔力を売るとは、一昔前に画期的と持て囃された魔力献血のことだ。魔力を人から人へ分け与える科学技術が発表されたが、しかし採血によるリスクがまだ不明瞭と危険視されている。
放っておけば、やる。絶対に、やる。やりかねないとかじゃなくて、やる。こんな調子では例え殺されそうになっても笑いながら受け入れそうだ。想像余裕だった。想像だけで軽く死ねた。目が。
叩けば出る埃のように、聞けば聞いただけ悪の所業(主に二人を慕う者達にとっての精神的負荷という意味で)が発覚するのだろうことは想像に難くなかった。
―――あぁ、これはダメだ。やっぱりダメだ。本当にダメだ。
湿度が増したその場で、グレンはとうとう観念した。観念せざるを得なかった。
この時のグレンの表情は筆舌に尽くし難く恐ろしかった、と後に家令は語った。完全にハイライトが消えた死んだ目で真顔になったかと思えば、次の瞬間には謎の闘志の炎がオッドアイに揺らめいたと言うのだから察してあまりある。
あの人達、俺/僕がしっかりしないといつかマジでヤられる―――!!
既にグラグラと揺れていた不審感や猜疑心が、Max庇護欲に完敗した瞬間だった。
「お前たち、これまでよく、二人を見捨てることなく仕えてくれたね…もう安心して良い、これからは俺/僕がいる」
「グレンさま……!!」
これまでの笑い話()と悪業()を洗いざらい吐かせた直後の、グレンの心からの労りに彼らはいたく感動した。
彼らはクロードとシルビアの外見に騙されることなく、二人の無謀っぷりに挫けることなく、屋敷を支えてきた歴戦の猛者であった。彼らの半数が真実悪事を働いた貴族の被害者、あるいは社会的弱者で、父娘の真の姿や心根を知り、惚れ込んだ者達で構成されていた。
貴重な同志が増えたこともそうだが、あの噂に名高いレグルス本家の、それも将来有望なグレンが全面的に二人の味方に回ったのだ。これほど心強いことがあるだろうか。
一生ついていきます…!!涙ながらにそう誓う彼らに、レグルス公爵家当主(当時推定年齢九歳)は鷹揚に頷いた。まるでグレンが屋敷の主人のようだったが、そこにツッコミを入れる者は誰もいなかった。
そこからのグレンの猛攻は凄かった。
防御力に極振りしていたのを一気に攻撃力へギアチェンジ、測定不可能領域まで振り切った。但しそれは一年目に想定していたベクトルとは天地ほどに意味が異なり、言うなれば「周囲の心の安寧のためにお人好し根性を叩き直す」ための全面戦争、その布陣が瞬く間に敷かれたのである。
何はともあれ真っ先にやったことはと言えば、二人に正座をさせた上での仁王立ち説教である。
家令を筆頭に家人達を味方に得たグレンは二人の悪業(もはや悪グセ)を「次にやったら嫌いになるから」の一言で当面の間は大人しくさせることに成功した。泣き落としではない。正しく脅しである。なにせこの男、顔面で語らせたらその効果の右に出る者はいない(当社比)。黒く微笑みながら怒るというスキルを身につけたのもこの時だ。断じて望んだわけではない(本人談)。
グレンは自分が二人にどう思われているかを熟知していた。
そして、開き直ったと同時に、自分もまた二人に好意を抱いていることを自覚して認めていた。
あんなに感情を露わに怒ったのは初めての経験だった。どんな時でも感情をコントロールし理性的でいる訓練はされていたから冷静さを失ってはいなかったが、論理的に理屈を並び立てつつも言葉の裏には明らかに二人の身を案じる響きが潜んでいた。
それまでなら決して有り得ないことだった。他人は駒だ。有益か無益か。使えるか使えないか。グレンの世界は単純明快で、どれだけ複雑怪奇な事象であっても冷徹なまでに淡々と王手を制する。ある意味で単調な、退屈なゲームのようだ。
それがどうだ。
全力で意識改革をさせた。二人がやりたかったことを自分が介入する形で実現して見せることで、もう今後は危ない橋を渡る必要はないと物理的証拠を突きつけてやった。ちなみに必殺技はゴリ押し(顔面)である。
知略高い頭脳を持ちながら信じられないことだが、なにせ敵は手強かった。自分自身への防御力は紙のくせにハイリスクローリターンを地で邁進し、事あるごとに周囲の心の安寧をゴッソリ削ってゆくのだ。
ゆえに力技だろうがなんだろうが、使えるものは使った。天使天使と可愛がられる自分の存在全てをかけたイイ笑顔の効果は見事に功を奏し家人達を感動の渦に巻き込んだことをここに記す〈完〉―――などと簡単なハナシであるわけもなく、推定年齢十七歳になった現在ですらグレンと家人達の頭痛胃痛は予備軍から抜けられないほど敵は油断ならない。
レグルス本家の嫡男ならばそれくらい出来て当然だった。当時は名ばかりでもゆくゆくは実質的に正式な当主となるのだから、将来のための予行練習だとすら思った。
ただ、自分が動いて成果を出したことを、こんなに嬉しいと思ったのは初めてだった。二人に喜ばれて、自分を誇らしく感じた。これまでなら出来て当たり前だと機械的に思うだけだった。
両親を除いて、他人を駒としてではなく、対等な人間として意識したのは初めてのことで、まさか自分にそんな日が来るとは予想外も甚だしかった。
グレンの審美眼は本物である。
審美眼とは、言い方を変えれば真実を見抜く能力のことだ。だからこそ、まず多くの他人が誤解する二人の容姿に騙されることはなかった。
確かに見た目は大事だ。特に人の顔に関して、人相とは内面が滲み出て形成されるものである。だから外見は関係ないなど言うつもりはないし、そんなことは考えていない。
そう、グレンは正しく二人の容姿を理解していた。真の姿を理解した者からすれば、蔓延る噂話など片腹痛い以外の何物でもない。俗に悪者扱いされ易い二人は、実のところ世間一般的な評価からは酷くかけ離れた人間だった。
理不尽だと思った。確かに同情もした。有り余る才能ゆえか、使命感や義務感のようなものを抱いたのも事実だ。不審感や猜疑心が消滅し、庇護欲に極振りしたことも間違いなく一因だ。
だが、それだけなら、自分の存在全てをかけてまで動こうとはしない。
「ねぇさん?ここにいるの?」
ある日、グレンはシルビアを探して目ぼしい場所を回っていた。ダンスのレッスンの時間なのだが、待てども一向に顔を出さないので自分が探してくると一旦席を外したのだ。数人の家庭教師においても覚えめでたきグレンなので、よろしくと快く送り出された。
シルビアは読書が好きだ。日向ぼっこが好きだ。本の世界に没頭し、あるいは転寝で遅刻することはままあった。以前はそういう時、大抵は家令が探し出してやんわりと叱りながら連れてきたらしいが、最近の探索者は専らグレンになっていた。
行き交う家人達に、どうしたのですかと尋ねられても、いや、と曖昧に誤魔化す。早く見つけ出すには聞いて回ったほうが良いだろう。だが、グレンは何故だかそれをしたくないと思っていた。自分だけで見つけたいと。
静かな書物部屋。中庭の隅っこ。風の心地良いテラス。そのまま寝落ち出来るフカフカのマットが敷かれた自室。グレンが最後に戸を開けたのは、今は亡き夫人、シルビアの母の部屋だった。
「…ねぇさん?」
シルビアは、よく絵本を読み聞かせしてもらっていたという、二人がけのソファで眠っていた。それも、腰掛けているのではなく、自身は床にぺたりと膝を折って、両手と頭をソファに預ける格好で目を閉じていた。
二度目、そっと呼び掛けても起きる気配はない。なんとなく―――そう、なんとなく、他に誰もいないとわかっている周りを意味もなく見回して、そうしてからグレンはそろそろと足を一歩踏み出した。
この部屋は、主人がいなくなった後も片付けられることなく、ほぼそのままにしてあるらしい。この部屋へ出入りし、掃除や手入れするのはクロードとシルビア、夫人の侍女であった家令の妻だけというのが長年の暗黙の了解であったという。
グレンが初めてこの部屋に足を踏み入れたのは割と早かった。というか、かなり早かった。なにせシルビア自ら手を引いて招き入れたからだ。引き取られて半年も経っていなかった。
当初はお涙頂戴で懐柔しようとでもしているのかと、そういうことばかり考えていた。実際は、自主的に遠慮しているのは周囲の個人的な図らいであって、シルビア自身は他の誰かが出入りすることを嫌がっているわけではなかった。本当にただ単純に、ここお母さんの部屋なんだよーと嬉々として案内していただけで。
まるで自分だけの小さな宝物を見つけたように、とくとくといじらしく鳴く心臓を抑えながら、グレンはゆっくりとソファに近づいた。
近頃、身体がおかしい。
あと一歩のところで立ち止まり、すぅ、と意識して息を深く吸い込む。その間も、真紅と金のオッドアイは眠り姫から視線を外さない。
ダンスのレッスンだ。早く起こさなければ、と思うのに、起こしたくないと思ってしまう。この光景も時間も全部、自分だけのものであって欲しい。
けれど、目を開けてくれないかと矛盾したことも思う。その綺麗な瞳を見たい。見えないのは物足りない。こっちを見て欲しい。
そもそも最近はこのダンスのレッスンが厄介なのだ。
社交界で男を誑かす悪女と囁かれているが、実物はまだまだ未熟な身体つきだ。そんな噂が蔓延する要素などどこにもないし、男全員がまさか幼女趣味だとは思いたくない。要するに、やはり勝手極まる思い込みの産物でしかなく。
ところがここにきて、グレンは強気でいられなくなってきた。なんなんだこの距離は、と理不尽にも家庭教師に八つ当たりをしたくなる。繋ぐ手はぎこちなく、動くたびにふんわりほの甘い匂いがしてくらくらする。果てはグレンがステップを踏み間違えて盛大に心配される始末だ。
身体がおかしい。これはなんだろうか。
シルビアが笑うと、胸の奥が温かくなる。甘い疼きは慣れこそしないものの、クセになりそうだとさえ思う。
だが、その笑顔が自分ではない他の誰かに向けられている時はモヤモヤと面白くない心地を抱く。近頃ではモヤモヤどころか酷くイライラとすることの方が多いし、それは相手が老いていようが若かろうが男だろうが女だろうが関係ない。
心臓がぎゅうと握られたようで、それを解消するために乱入して荒らしたい衝動に駆られる。自制するのが苦しいし、そんな自分自身を嫌悪することもある。いつかシルビアに酷いことをして悲しませるのではないかと鬱々とする。
この感情の、名は。
「…ぐれん……?」
ハッと我に返ると、蒼氷色の瞳がぼんやりとグレンを見ていた。グレンはいつの間にかすぐそばに膝をついていて、思ったより近い距離に息を飲む。
知ってか知らずか、シルビアは身体を起こして目を擦る。そうして改めてグレンを認めれば、凍てついた氷のようと評される瞳を甘く甘く蕩けさせて。
グ レ ン
そうして無防備に全てを晒して、蕾が綻ぶように笑うから。
「………………」
―――あぁ、ダメだ。
やめてくれないか
シャツの裾を摘むな
可愛い笑顔を全力で向けるな
甘い声で俺/僕の名を呼ぶな
俺/僕を喜ばせるようなことをするな
……こんなに心臓が早く鳴っては死んでしまう。
グレンはソファの肘掛に額をゴン、とぶつけた。
一応クッションで覆われてはいるのだが、肘掛の更に端っこで、年代物ゆえか少々薄くなっていることもあり、一切制御せず頭を落としたため結構痛そうな音がした。
「グレン?大丈夫?ど、どうしたの?」
「…あぁ」
全くもって意味を成していない返答であるが構っちゃいられなかった。
きっと今、自分の顔は真っ赤だ。おそらくは耳も首も、どこもかしこも絶望的に。グレンは自ら顔を上げることを早々に放棄した。
この時ようやく、自覚した。
グレン・レグルスはシルビア・ジュパンが好きだと。
―――そうしてふわふわと掴みきれなかった恋心を、決定的に認めてから更に月日が経ち、同居四年目にしてグレンは悩んでいた。窓から臨む清々しい青空に似つかわしくない重い溜息を朝っぱらから吐き出し、項垂れる羽目になっているその原因は。
それにしても、自覚したあの日は家人達を巻き込んで大騒ぎだった。グレンが何か騒いだわけではない。むしろ騒いだのはシルビアの方である。
額に小さなコブを作って微動しないグレンを心配するのはわかるし嬉しい限りだが、ぎゅぅと思いっきり胸元に抱き締めて「グレンが大変!!」と屋敷中を駆け回るのはいかがなものかと思う。本人はクロードや家令に知らせて具合の悪そうな弟を診てもらわないと!と必死だったのだろうけれど。
真っ赤になったまま、くらくらと窒息しそうになっているグレンを見て家人達は思ったものだ。お嬢様、あなたが原因ですよ、と。グレンの恋心はとうに筒抜けであった。背丈が同等なので駆け回ると言ってもずるずる引きずっているような感じだが、そこに救いの手を差し伸べるかどうか彼ら彼女らは盛大に悩んだ。
親愛か恋愛かはさておき、シルビアも大概グレンが好きである。事情を察した家令がやんわりと(身体的には)問題なしと太鼓判を押すまでの狼狽えっぷりは、不謹慎ながらこれまた事情を察している家人達から見れば大変微笑ましい。
その日はダンスのレッスンどころではなく、シルビアは一日中べったりとグレンのそばにいて世話を焼きたがった。
結論から言えば惨事だった。
食事の時などは椅子を移動させて隣に座った。つまり「あーん」をやった。椅子から転げ落ちた。誰が?もちろんグレンである。それでまた心配したシルビアが騒ぎぎゅぅと胸元に抱き締める。以下ループ。
だがそれはまだ可愛らしいほうだったと気づいたのは夜になってからだ。外出から帰ってきたクロードもなんとなくグレンの様子がおかしいことに気づき、無理やり聞き出さないまでも夕食後にお茶でもしようとまったりしていた時に部屋の扉が勢い良く開かれた。
「グレン、お風呂一緒にはいろうね!!」
やってしまいましたねお嬢様。
控えていた家人一同の心はひとつだった。衝撃でグレンは石のように固まっている。何を想像したのだろう。もう夜でこの後は何も予定がなくて良かったと思う。いや、そもそも夜だからこの爆弾発言が出るのだろうけれど。
とりあえず、何か予定があってもこの小さな赤き王様はロクに機能しないであろう。お嬢様、替えの下着や寝着を持ったままゼロ距離で心配するのをやめて差し上げてください、我々がお持ちしますから。
ちなみに、それから数日間は同じようなことが続いた。
その数日間を経て、グレンはなんとか平静を取り戻した。キャラ崩壊も甚だしい醜態を晒したが、元々優秀なので順応性も高い。自分の気持ちを自覚し、心が誰に向いているか認めてしまえば腹が据わるのも早かった。
不可解であった難問が解けたことの安心感以上に、誰かを好きになる、そんな清純たる感情を手にした例えようのない歓喜がグレンの心身を満たした。
かけがえのない、尊いものを手に入れた気分だ。それは両親が急逝してからずっと、どこかに空いていた虚無の穴を優しく癒した。
腹が据われば怖いものなどない。相変わらず高鳴る心臓の鼓動も、数週間も経てばそれを楽しめるほどには逞しくなった。きちんと目を合わせて話すのもお手の物で、いつも通りを装いながら密かに愛でる日々。
グレンにとって恋とは御伽噺の産物でしかなかった。架空の夢物語。くだらない、とさえ思ったこともある。所詮は自分も、愚かにも偉そうに机上の空論を述べていただけだと思い知った。
恋心が降り積もっていくたびに、自分自身が豊かな人間として形になってゆくような感覚がした。グレンはそうしてほの甘い淡い恋に身をやつしていた。
これが、恋。
なんて綺麗で、甘美なことか。
―――と、思っていた時期も確かにあった。
酷く苦々しい気持ちでグレンは両目を押さえ、もう何度目かわからない溜息をベッドの上で重苦しく吐き出した。
しかしずっとこうしているわけにもいかない。なにせここには心配性がいるのだ。いつまで経っても起きてこないことを心配して突撃でもされたら、それこそ惨事だ。出来る男は同じ轍は踏まない。まぁつまり、惨事は一度起こったわけであるが詳細は割愛する。
そんなわけで、グレンは今日も今日とても手早くトイレへ向かった。勿論、朝っぱらから元気な下半身を処理するためだ。情けない理由に足取りは必然的に重くなる。一度目の惨事だが、決定的にこの有り様を見られたわけではないことは救いだった。また具合が悪いのかと泣き縋られた時は後ろを向くのに必死だったが。
そもそもの始まりは夢を見たことからだった。グレンはそれを悪夢と称した。
最初はなんてことはない、夢にシルビアが出てきただけだった。まぁ、それだけなら悪夢とは絶対に言わなかっただろう。むしろ幸せで良い夢だし、夢に見ることはそれまでにもあった。だから初めは深刻に考えていなかったのだ。
だがしかし、である。その夢が、ほんの少し―――そう、少しだけ、桃色であったことがグレンに違和感を抱かせた。悪夢と称するに至る所以であった。
具体的に言ってしまうと、グレンが部屋の扉を開けると、中で着替えをしていたシルビアがキャミソール姿だったというシチュエーションだ。何故グレンの部屋で着替えているのかという疑問は置いておく。夢とはえてして謎の理論を堂々と正論に持ち込む世界だ。
弁明しておくと下はしっかりとスカートに覆われていて、露出していたのは肩や腕、頸くらいなものである。貞操観念は人それぞれ、関係性や立場によりけりだろうが、まぁ、許容範囲と言えなくもない。それくらいなら暑い真夏の薄いワンピース姿と大差はなかった。
だがその夢を見た朝、グレンは絶望することになる。下半身の違和感。湿った感触。―――いわゆる夢精だった。
グレンはとても落ち込んだ。沈んだ。シルビアに対する酷い罪悪感に、生まれて初めて本気で泣きたくなった。大切だと言ったのに、まるで自ら穢してしまったようで居た堪れなかった。
何より、清純で淡く綺麗なはずだった恋心を裏切ったような、逆に裏切られたような、とにかくどうしようもなく最悪な気分に陥った。
その日一日はまたしてもシルビアをまともに見られないことが続き、避けてしまった。だが視線はしっかりとシルビアの蒼氷色を探しているのでグレンも大概恋する男である。
様子がおかしいことを察した家令がやんわりとフォローしてくれたお陰で、なんとかシルビアに避けていることを悟らせずに済んだが。どうしたのですかと尋ねられても、こればかりは話すわけにはいかなかった。
事態はその日を乗り切れば落ち着くほど甘くはなかった。その日から悪夢に悩まされる日々が残酷にも幕を開けたのだ。
毎日毎晩、桃色だかなんだか知らないが、手を変え品を替え豊富なバリエーションで夢がグレンを苦しめだした。更に悪いことに、夢の内容はどんどんとレベルアップしてエスカレートしてゆくのである。
最初の頃はギリギリセーフのキャミソール姿だったが、そこからへそチラだったり、パンチラだったり、まずはいわゆるチラリズムがタップダンスを踏むようにグレンを蹂躙した。それが一通り終わると、何故か丈が異常に短いメイド服だったり濡れ髪でガウン姿だったり、何故か東洋の書物で見たことのある浴衣姿で上手く着られていないのか、はだけた隙間から見える艶かしい脚がグレンの視覚を攻撃した。
それも終わると今度は着ている布の枚数が減っていき、一枚脱げば次の日は二枚脱ぐ。下着の種類が簡素なものから可愛いものへと変わり、形も種類豊富になってゆく。そして扉を開けたところにいたはずのグレンは、日に日にシルビアに一歩二歩と近づいていった。
グレンは頭を抱えて悩んだ。悩み抜いた。この恋心は綺麗なものであったはずだ。それがどこで何を間違えてしまったのかと。本当に真剣に悩んだ。
あくまで一般論を述べれば、健康的な男子が恋する好きな相手で妄想することは常識の範疇だ。だがそこはグレンである。ありとあらゆる帝王学を我がモノにしていても、唯一、恋愛に関してはド素人であった。
両親が急逝しなければ教養の一環、戦略のひとつでもあると閨事についても叩き込まれたのだろうが、それは叶わなかった。身も蓋もないが、つまり恋愛に関してだけは超弩級にポンコツだった。初恋に浮かれ始めたばかりの恋愛初心者に、生々しい生理現象を受け入れるのはまだ早かったのだ。
そんなわけで、とにかくグレンはシルビアのエロい夢を見ては毎朝罪悪感を募らせていた。夢を見始めて半月も経てばシルビアを見ても動揺しなくなり避けるようなこともなくなったが、辛うじて取り繕っているだけで内心では土下座を続けていた。
それでも毎日毎晩飽くことなく夢を見るのだから、男子とは辛い生き物である。
『グレン、あのね……好き』
正直滾った。
『グレン…キス、して?』
抗えなかった。
『……優しくシてね、グレン』
うん、頑張る。
『っぁ、グレンっ好き…!』
あぁ俺/僕も好きだ!
泥沼だった。
二重人格でキャパが二倍どころか二乗なんじゃないのかと言われそうだが、恋愛においてそれは例外であるようだった。むしろひとつの身体で二人分の感情を受け止めなければならない分、事態は普通より重かったかもしれない。夢の中のグレン自身がノリノリで欲望に正直なのが余計に情けない。
とは言え、いいかげん半年も夢を見続けていれば耐性もつくし、ポンコツであってもやはり順応性は高かった。
そしてとうとう悟った。自分は綺麗事のままごとではなく、本当に、男として、女のシルビアを、劣情も含めて好きなのだと。
とっとと認めてしまえば楽だったのだろうが、ひとの感情というものはままならない。グレン自身、一種の矜恃というものもあってそれが邪魔をしたのもある。俗っぽい自分が許せなかったのだ。
気持ちの折り合いをつけて、グレンは恋心を自覚した時より更に逞しくなった。
そうして歯止めがなくなったお陰で、夢はアンストッパブルに進化し続けた。シチュエーションもバリエーションも千差万別でより豊富になった。際限などもはやないに等しい。
悩める日々が終わったグレンはそれはそれは強くなった。どう具体的に強くなったかと言えば、夢ではなく自ら妄想して抜けるようになった。輝かしい成長である。何より今回は誰に相談するでもなく自力で解決したことが自信を底上げした。
物理的な身体も日々成長しており、同居四年目も折り返し地点を過ぎる頃にはシルビアの身長を追い抜かし、鍛錬の賜物かしなやかで美しい筋肉が男らしい身体を形成し始めていた。なのでシルビアは自然と上目遣いになることが多くなったのだが、それだとてもう狼狽ない。現実の無垢な姿に夢のいやらしい姿が重なっても、もう罪悪感に苛まれることはない。許せシルビア、男に好かれたらどうしようもない運命なんだ。
開き直れば、自ら距離を詰める日々が幕開けた。またの名を煩悩との闘いである。
なにせ当初から、瞳が甘そうだとか手がマシュマロみたいだとか思っていたのだ。ただシルビアが隣でふわりと小さく欠伸をして、小さな赤い舌が覗くだけでかなり滾る。夏に汗で前髪が額に張り付いているのを甲斐甲斐しく拭ってやりながら、いつも以上に熱を孕んだ匂いに酔いそうだった。庭の木陰で一緒に寝そべりながら、茹だる暑さに少しぼんやりとするままにワンピースの下の裸体を想像した。
男の欲を消化するために利用しているだけではないかと悩んだこともある。けれど、他の誰にも同じような欲望は抱かなかった。
そしてシルビアから幸せを願われながら誕生日に懐中時計を贈られた時、鮮烈な想いが心身を駆け巡った。
この人とずっと一緒にいたい―――
他の誰にも譲りたくない―――
恋が愛に移り変わろうとしていた。
赤い石のついたロザリオを贈ったのは、それから数ヶ月後のシルビアの誕生日だった。
「義父さん、話があるんだ」
魔法学園への入学を決め、宣言した日の夜。グレンは書斎でクロードと向き合っていた。
「必ず幸せにするから。全てをかけて守ってみせるから。だから、学園を卒業したら、シルビアの生涯の伴侶に認めて頂けませんか」
いつもの砕けた雰囲気ではなく、腰を深く折ったグレンは流石に硬い緊張感を漂わせていた。それを、ゆるりと撫でるように息を吐いたのはクロードで、ピクリとグレンが肩を揺らすと、ふっと苦笑するような空気を感じた。
「僕はね、ずっと昔から、ちょっと言ってみたい台詞があったんだ。お前なんかに娘はやらん、ってね」
「………」
「ただの、おじさんのしょうもない憧れだよ。過去形だ。それに、そんなしょうもない憧れなんかより、ずっと昔から、もっと夢見ていたことがある。あの子の、幸せな花嫁姿だ」
ずっと昔から、ね。その言葉を繰り返す声音は、ひどく穏やかだった。
「グレン。君はとても強いけれど、とても臆病だね。でもね、そんな一方通行ではダメだよ。それでは安心出来ない。誰かを頼って守られることもきちんと覚えて、君も幸せになるんじゃなきゃダメだ。認めて頂けませんかじゃなくて、僕なんか張り倒すくらいの気概じゃないと」
こんな世界一優しい挑発もあったものだ。グレンも思わず笑ってしまった。
「一緒に幸せになるから、シルビアをください」
だからそれまで、その先も、クロードも無事で元気でいて欲しい。続けてそう願えば、顔に似合わず(褒め言葉)キョトンとして、クロードはひどく嬉しそうに微笑んだ。
―――それから六年ほどが経った。
グレンは無事に魔法学園を主席で卒業し、魔法騎士団のトップを負かしたり、新しい魔法科学式などの論文を何本も書き上げたり、自力でビジネスを興したりと輝かしい成績や実力を兼ね備えてシルビアを迎えに行った。学園に封印され復活した悪魔を倒すのは少々骨が折れたが、愛しいシルビアをあの手この手で籠絡し攻略するための悪戦苦闘の日々を思えば大した労ではない。
そうして愛を告白し、愛を乞い、正式に婚約者となり生涯の伴侶の契りを交わしてから早くも数ヶ月が経っていた。
「おはよう、シルビア」
「………おはよう…」
常の澄んだシルビアの声はガラガラと酷いものだった。シーツの海に埋もれて恨めしそうに見上げてくる蒼氷色にクスリと笑い、額にキスを落とすとさらりと前髪を梳いた。真紅と金のオッドアイは裏腹に清々しい。
「本当にいつも凄い声になるね。かわいそうに」
「誰のせいだと……」
「少なくとも昨夜は僕のせいではないね」
「彼は……?」
「ん?奥にいるよ?熱が収まって流石に少しは悪いと思ってるんじゃない?」
お前が自分も会いたいと言ったから代わったんだろう、と脳内で響く声は無視する。いくら運命共同体で片割れの人格と言えど、愛しい者の前ではまごうことなき恋敵。むしろ最大の敵でしかない。
まぁ、そうは言っても我が身のことであるので、決定的に嫌われないようにフォローはしておくけれど。
「でも、昨日のはシルビアも悪いと思うよ?最近は忙しくてすれ違いばかりで、ロクに会えていなかったんだ。いいかげんシルビア不足で頭がおかしくなりそうなところに、ご本人自ら深夜の部屋に丸腰で突撃してきたんだよ?ご丁寧にリボンまでつけて」
「悪ノリしすぎたと思ってます……」
昨日はグレンの十九の誕生日であった。
ハッピーバースデー、グレン。私が誕生日プレゼントです―――たぶん誰かが入れ知恵したのだろうとは見当がついている。尋ねれば案の定、学園で仲を深めた友人達が誕生日をどう祝おうと悩んでいたシルビアに、絶対にそれが一番だからと背を押したらしかった。
「まぁ、シルビアが単独でそんなベタベタな計画を考えるとは思ってなかったけど、アイツも嬉しそうだったし良かったじゃないか」
「私がプレゼントとか、今更だと思ってたんですけど……」
「君は自分の、僕とアイツにとっての価値をわかっていなさすぎる。昨夜で少しは思い知っただろう?」
うぅ、と頬を染めてシーツに沈む様は、もう何度も夜を過ごしていると言うのにウブで可愛い。きめ細かい肌には、グレンを象徴する赤色の花が散っていた。
「彼が羽目を外すの、久しぶりに見ました」
「なんだかんだ嬉しそうだね?」
「そりゃ、まぁ…嬉しいですよ、私だけだとわかってるし」
「本当に、まったく厄介な男に好かれたよね君も」
「それをあなたが言います…か?」
不思議そうに首を傾げるシルビアにお構いなく、グレンはまとめてその手首にリボンをくるくると巻きつけ蝶結びにする。
「何してるの?」
「プレゼントの包装をし直してる」
僕はまだ受け取ってないよ、と爽やかに笑うと、嘘でしょ…?と聞かれるがもちろん嘘でも冗談でもないわけで。
「だって不公平だろう?僕がかわいそうだと思わない?大丈夫、アイツみたいにロクに包装を解かないままなんて無作法はしない。ちゃんと丁寧に、時間をかけてゆっくりほどいてあげるから」
勝手なことを言うな!とまたしても脳内がうるさい。耳を塞ぐことが出来ないのが難点だ。
「ねぇシルビア。僕とアイツのこと、いつから好きだったの?だってずっと、弟だと思っていただろう?」
自分ももう一人も気になっていたことを尋ねれば、「んー…」と曖昧に首を傾げられる。
「グレンが思ってる以上に、ずっと昔から、かな?」
「ふぅん?」
まぁいい。これから時間はたっぷりあるのだから、いつか必ず答えを聞かせてもらおうとグレンは決意した。今は容赦したのは、これから負担を強いるからだと一応自覚しているからだ。
「グレン」
「ん?」
「お誕生日、おめでとう。私がプレゼントです。受け取って下さい」
「うん、いただきます」
俺/僕の婚約者はとても可愛くて、そしてとても不遇な人だった。
けれど、世間の目が節穴で良かったと思う。
世界でこのグレン・レグルスだけが、彼女を愛し彼女から愛されることが出来るのだから―――
こちらを元にした中編「悪役令嬢の婚約者【完全版】も別途同時掲載中です。