第5話 蕎麦と冷酒と私
僕、麺類で一番好きなんですよ。
そんなわけで蕎麦好きに贈ります!
「暑いなぁ……」
連日の夏日に、若葉はぐったりしていた。
女性の一人暮らしだからなのだろう、かなり無防備な装備で警戒心の無い体勢だった。
少なくとも晒してはいない。晒す相手がここには居ない。
ピンポーン
と、呼び鈴が鳴らされた。
(え? 宅配? お客の予定は無かったよね?)
想定外の事態にパニックに陥る。なにせ、寝巻の方がマシなくらい無防備なのだ。
「は、はーい」
『彦野さん。お届けものです』
「あ、ちょっとお待ち下さい」
洗濯しようと籠に入れていたサマーカーディガンとゆったりとした寝巻用のズボンを押っ取り、さっと着る。
外出するわけじゃないし、酷い薄着では無ければ大丈夫と言わんばかりの格好だ。
少しバランスを崩しそうになりながらもサッと着て、酷い皺が無いか確認する。
「お待たせしました」
「冷蔵です」
「ん? あ!蕎麦!」
届いたのは一昨日の夜に注文した生蕎麦であった。
思わず破顔してしまう。
一昨日も暑い日だった。
健啖家である若葉であったが、本格的な夏を思わせる猛暑に、温かいご飯が喉を通らなかったのだ。
そんな時に思い浮かんだのがこの蕎麦であった。
へぎ蕎麦。
新潟の名産品の一つで、つなぎに布海苔と言われる海藻を使った蕎麦で、少し強めの歯ごたえと喉ごしを楽しめる逸品だ。
「やっぱり、冷たいそばを食べるならへぎ蕎麦が一番よね♪ 野菜室には冷えた〆張もあるし♪」
うだる暑さに引きこもりを決めていた若葉だが、すっかり忘れていた逸品の登場に予定を変更することにした。
へぎ蕎麦を美味しく頂くための食材集めの買い出しだった。
「今夜はちょっと豪華に楽しもっかな♪」
蕎麦で冷酒を頂くのがメインとして、そのパートナーは何にするかを推敲する
(最初はビールでも良いかも?そうしたらちょっとガツンと重めでも良いかも?そこからダラダラと日本酒を楽しみたいな……)
頭に浮かぶカードの数々。
今夜のコースを決めていく。
(天麩羅と刺身、そして後半でダラダラとお浸しなんか良いかも♪)
まず最初に目に入ったのは大葉である。
大葉の天麩羅だけのために油を温めるのは嫌だったので、最初は薬味に考えていた茗荷も天麩羅にすると決めた。
そして、魚屋では旬であるカワハギを見つけた。
お店の人に刺身用に捌いた上で肝醤油用に肝も付けて貰うように頼み、帰りに回収した。
お浸しは八百屋を梯子した上で、つるむらさきにした。
(この暑い午後に散歩となったけど、その汗もこの後の美味しい食事とお酒を思えば、素敵に爽やかなものに感じるな。営業の外回りで汗をかくとすぐにでもシャワーを浴びたくなるのに、不思議ね♪)
帰宅したら、食事後にそのまま寝てしまっても良いようにシャワーを浴びてから、料理に移った。
(刺身はお皿に移しかえればより美味しく感じるんだろうけれど……そのままで良いか♪ 料理順は、下拵えをしたら、おひたしと蕎麦、そして最後に天麩羅かな)
料理手順を頭の中で一度整理する。より効率的に、そして美味しい物を食べるための儀式のようなものである。
(大葉はそのままとして、茗荷は縦に半分で良いか。かき揚げは失敗したくないし……)
キッチンに並んだ食材達。ここからはスピード勝負だ。
まずはコンロの両口に、大小それぞれの鍋を置き、水を張る。小さい方はつるむらさきを、大きい方はへぎ蕎麦を茹でるためだ。小さい鍋には少し塩を利かせてある。
水の量が少ない小さい鍋が先に沸く。つるむらさきを石突の方から入れて、折れずに曲がるようになったらちょっと強引に鍋に納める。
どちらかと言うと火が入ってクタっとするくらいの方が若葉の好みであった。
大きい鍋の方が沸く頃に、つるむらさきが茹であがる。まずはそのままお湯をシンクに捨てたら、鍋に水を流し入れて冷やしておく。
と空いたコンロに今度は天麩羅用にフライパンを置き、油を充分に入れる。
今回は葉物の天麩羅であり深さが不要であることから、温度管理のしやすいフライパンで揚げることにする。
準備中に加熱し過ぎないよう、中火にすると天麩羅の下準備をする。
小麦粉に水を加えかき混ぜる。そこにキンキンに冷えたビールを入れて軽くかき混ぜたら衣の準備が完了だ。
天麩羅の衣と言えば卵を入れるところなのだが、今回は葉物であり、粘りが出過ぎると上手く出来ないので抜きにした。
(ここで、天麩羅を作ると思わせて、蕎麦を茹でる!)
見せるわけでは無いが、手際のスムーズさを自画自賛する。
揚げたての天麩羅にしっかり冷えて腰のある蕎麦。同時進行する為には蕎麦を先に茹でる必要があるのだ。
(生麺の場合はたった九十秒。片手間にする余裕も無い!)
解しながら蕎麦を入れたら、お湯に踊らせる。麺類を茹でる時はたっぷりのお湯が絶対だ。
お湯に泳ぐ蕎麦を見ながら、みょうがを天麩羅の衣のタネを入れたボールに入れる。流石にそのくらいは出来る。
もう九十秒が経とうかと言うところで、一度目を離してしまう天麩羅のフライパンの火を消して、一気にシンクへ持って行く準備をする。
つるむらさきを軽く絞ってまな板に。そしてざるを用意する。
ピピピピッ!ピピピピッ!
キッチンタイマーが九十秒を教えてくれた。本日のクライマックスだ。
シンクに持って行ったらザルに移し、流水で一気に冷やす。
へぎ蕎麦は多少力を入れてもちぎれないので、しっかり揉みながらしっかり冷えるのを確認する。
鍋に水を入れながら冷やしていたら、なかなか冷えずに茹で過ぎてしまうので、ざるに移して流水でしっかり冷やさなければいけないのである。
へぎ蕎麦が冷えてしまえば茹で過ぎる心配もなくなるので、安心して天麩羅取り掛かる。
茗荷は生でも食べることが出来るし、大葉は薄いので一瞬で揚がる。
焦がさなければ早い分には問題無いので手際よくさっさとつくってしまう。
「う~ん、へぎ蕎麦を一口ごとに丸めて置きたいけれど……今日は省略♪天麩羅で使ったビールの気が抜けないうちに飲み始めよう♪」
ダイニングテーブルに雑に支度をする。
キッチンペーパーの上に花を開かせる天麩羅に、竹ザルのまま鎮座するへぎ蕎麦。そして冷蔵庫から取り出したカワハギの刺身。そこに解栓済みの缶ビールに涼しげな冷酒用徳利になみなみと注がれた日本酒。ぱっと見は充分な豪華晩御飯である。
「あ♪」
蕎麦のつけ汁を用意している時に思い付いてしまった。
冷蔵庫から豆乳を取り出し、水の代わりに希釈の麺つゆの半分を薄める。
残りの半分は普通に水で薄めた。
「さてと、いただきます♪ ふふふ、この豆乳の蕎麦汁が……」
箸で数本摘み上げ、豆乳で割ったつけ汁にたっぷりと浸し、一気に手繰る。噛まずに飲み込んでしまう。
よく冷えた蕎麦が喉を一気に駆け下りる。
「んー♪」
若葉は歓喜のままにビールを流し込む。
「んっはー! 豆乳のこってり感に、へぎ蕎麦の喉ごし、そしてビール! 蕎麦で日本酒も良いけれど、暑い日の一口目はビールだよねぇ……」
若葉の夕涼み晩酌はスタートを切った。
へぎそばと言う事で、父の地元新潟のそばを題材にしました。
是非ご賞味あれ♪