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 夏休みが終わり、新学期が始まった。

 最後の部活という事で、夏休みのほとんどを部活に費やした者も多かったが受験生と言われるだけの立場であるだけあり、昨年よりも日焼けした生徒の数は少なかった。肌が白いままの者も少なくない。しかし始業式その日の賑わいは例年と同じといえた。帰省するなどして寮から皆離れる事があったから話題は話し足りないくらいに沢山あるからだろう。

 星ヶ丘中学はエスカレーター式なので受験をする心配がない。だが内定は必要な為、三年生の多くは他校の三年生同様に勉強漬けの日々となっていた。

 今日も勉強、明日も勉強。来る日も来る日も勉強の為に机にかじりつくような毎日である。

 しかし十月も半ば頃になると、内定のもらえた生徒の数もぽつぽつと見られるようになってきていて、引退した部活に顔を出す生徒が現れていた。




 私は授業を終えると、図書室で下校時刻ぎりぎりまで勉強をするのが習慣になっていた。寮の自分の部屋で勉強するものいいのだが、調べ物をするのに本が沢山ある図書室は便利であり、分からない事を先生に尋ねる為にも校舎内にいた方が都合が良かったからだ。

だが一番の理由は同室の子であった。その子は吹奏楽部の部活関係で既に内定をもらい、受験勉強とういものから解放された。お互いに、気分的に色々とあるもので。その子が私の邪魔をすることはなかったが、気を遣われるのがかえって負担になってきていたからである。

 今日も授業終了後、私は図書室で問題集を開いて勉強していた。

「……あ、また同じトコで間違えてる…」

 採点しながら、間違えた所に既にチェックされている色とは別の色のペンでチェックを入れる。問題集は今まで使い古してきただけあってへろへろになったページが多い。だが記入欄は今でも真っ白なままで、汚くなるのはいつも問題の番号の部分だった。同じ問題を何度も解き続ける為に、答えはいつもノートに記入して間違えた問題が分かるようにし続けているからだ。

 次の模試までに解けるようにしておかないと、と思いながら私がペンを机に置いた時、ちょうど下校時刻を告げる放送が鳴り響いた。

 勉強に集中している間に、いつの間にかそんな時間になってしまっていたようだ。いつも予定を経てて勉強を始めるものの、まだ途中だというところで放送が鳴る。しかし今日はちょうどきりがついたところで放送が聞こえたので心の中で「よし!」と満足げに声を上げる。

 机に広げている問題集を鞄に詰め込み、忘れ物がないかを確かめる。

 そして顔なじみとなってしまった図書室の司書の先生に挨拶をし、私は図書室を後にした。

 まだ暖房がいるほど寒くはない。

 しかし秋も深まり冬が近付いている為に、廊下は少し肌寒さを感じた。窓の外を見れば、つい少し前まではあったはずの葉が既に散り始めていて色相も落ちている。夏の青々しさを思い返し、少しの寂しさを感じながら私は玄関へと向かって歩いた。

 途中、部活の後輩と出会い言葉を交し合う。

 後輩に内定の事を聞かれたが、私は曖昧に笑って誤魔化して彼女達と別れた。彼女達からしてみれば、部活で内定をもらえることはないものの、私の成績から考えれば既に内定をもらっていてもおかしくないと思ったのだろう。

 素直に答えればいいのかもしれない。でも、彼女達にその理由を聞かれてしまう事を考えるとどうしても素直に答えることはできないでいた。……もしかしたら、まだ私の心の中に迷いがあるからなのかもしれない。本当に外部受験でいいのか――という迷いが。

「あれ? 澤田君……?」

 玄関で、思いもよらなかった人と私は出会った。

「南野さんじゃないか。こんな遅くまで勉強していたのか?」

 澤田君は私のぱんぱんに膨れ上がった鞄と、手に持っている数冊の本――図書室で参考に借りたのだが鞄に入らなかったのだ。――を見て苦笑する。

 澤田君は私とは違って制服ではなく、部活のジャージを着ていた。砂などで汚れていることから考えると、今の今まで部活に参加していたのだろう。

(確か澤田君は夏に既に内定もらったって言ってたっけ……)

 確か唯がそう言っていたと思い出す。

 私は上履きから靴へと履きかえながら肯定の返事を返すと、こちらからも尋ねた。

「…今まで部活だったんだね、ご苦労様。……でも、どうして校舎に?」

「ああ…」

 自分の姿を見直し、澤田君はもう一度苦笑する。

 聞けば、時間ぎりぎりまで部活に参加していた為時間がなく、シャワーを寮で浴びる為にジャージのままでいるらしいが、教室に忘れ物をしていた事に気がついたらしい。忘れても害のない物であれば置いたままでのよいかと思ったらしいが、明日提出のプリントとなればそうはいかずにこうして戻って来たという事だった。几帳面な彼らしいといえば彼らしいが、澤田君でも忘れ物をするのだと思うと、何だか身近に感じるように思えた。

 時間が迫っている事もあり、そのまま私達は百八十度逆方向へと別れる。

 そして玄関を出たところで、私はそこに二村君の姿を見た。

 足が、止まる。

 視線が――重なった。

 突然の出来事に私は思わず息を飲み込む。

 彼はじっと私を見つめた。

 私は視線を逸らすことができずに、私もまた彼を見続けた。

 二村君が、私に向かっていつもとお馴染みのにやりとした笑みを浮かべる。

 だから私もいつもと同じように、彼に向かって笑いかける。

「部活? お疲れ様。それじゃまた明日」

 一歩足を踏み出すと自然に二歩目もついてきて、私は何事もなかったようにしてすれ違い様に彼に挨拶をする。

「おう、また明日な」

 と、彼はそんな私に対して短く答えた。

 その顔に微笑を浮かべて。

(……あれ…?)

 二村君の笑顔を見て、私は胸にひっかかりを覚える。

 そのまま普通にその場を別れて寮へと向かって歩き続ける中、私は先程の二村君の笑顔を思い返して首を傾げた。

(………何かいつもの笑みと違ったような気がしたんだけど…)

 いつもの二村君の笑い方は、少し人を小馬鹿にするようなにやりと表現するのが似合っているような笑い方だったのに対して、別れ際でみせた彼の笑い方はもっとこう、違った感じで。……そう、優しげな笑い方に見えた。あんな微笑み方は今まで一度として見た事がない。

「……………気のせい…?」

 その笑顔に対してのもやもやした感情がまだ残っていたものの、あの二村君がそんなふうに微笑むとは考えられないと思えない。

 そういえば、と思い返す。

 あの夏の日、二村君に対して冷たい言葉を吐いてからまともに話したことはなかった気がする。全く話さなかったというわけではないが、彼と面と向かって一対一で話した記憶がない。もしかしたらあの後、私以外の恋人に慰めてもらうなどして何か心境の変化があったのかもしれない、と。唯が大会で二村君が大活躍したのだと話していた事を思い出し、納得するに至った。

(……恋人っていえば、夏以降別れただの新しく付き合い始めただのって噂、全然聞かなくなったよね…)

 朝、私に突き刺さっていた視線が今はない。と、いうことは二村君が今も浜崎さんと付き合い続けているという事になる。

「らぶらぶってことかな…?」

 別れていないのならば理由はそれしか考えられず。

 色んな女の人と付き合っては別れてという行為を何度も何度も繰り返してきた二村君に、とうとう本命が現れたという事なのだろう。

「………そっかぁ……」

 ぽつりと、何処か空虚な気持ちで呟いて。

 いつの間にか自分の寮を通り越していた事に気づき、私は慌ててUターンして寮へと帰宅した。




 十一月も半ばに差し掛かった頃のある日、私は珍しく給食を早く食べ終わると職員室に訪れていた。最近は頻繁に訪れている為、職員室に入るなり擦れ違う先生方が私に気さくに声を掛けてくれるようになっていた。先生とはそんなに親しく話すような柄ではなかったが、一応成績も良く優等生と思われていたこともあり先生うけが良かったのかもしれない。

 教師の机が並ぶ場所から少し離れた場所に、寛ぐ為のテーブルや椅子が置かれている。

 私は担任の先生と向かいあうようにして椅子に座り、机に広げた資料に目を向けながらお馴染みになってきた会話をする。

 机に広げられている資料は、選抜された様々な高校のパンフレットや私の模試の結果が記されている紙などである。

「このままの成績なら大丈夫だと思うぞ」

 先日の模試の結果を指差しながら、先生が言う。

 模試は学校だけでなく全国的な規模で行われているだけはあり、学校順位だけでなく全国的な順位は勿論のこと、自分の希望する高校に対してどうかというランクやコメントなども結果には書かれている。

「南野は三年間通しての成績もいいし、委員会にも部活にもずっと入っていたからな。内申点も心配はないしなぁ……」

 流石に私に内申点に関して詳しく教えることは出来ないようで――どういう基準でどのようにつけられているのかが知りたいところではあるが。――、大まかにこれくらいだと聞いたくらいだ。その大まかにきいた点がどのくらいのものなのかまで分からないので、はっきり言って聞いてもあまり意味がない。私は先生が大丈夫と言うのならば大丈夫なのだと思うことにして内心点に関しては気にしないことにしていた。

 机に置いてある高校のパンフレットを一つ手にとり、それをめくりながら先生は暫くしてから残念そうに言った。

「………受験に関しては心配ないと思うが……先生は本当に残念で仕方がないよ。何しろ我が校の優等生をみすみす手放すことになるんだからなぁ…」

「…はぁ……」

 私は曖昧な返事を返し、苦笑するしかなかった。

 いつも先生と職員室で交わす会話の内容は、私が外部受験する事に関してである。主に今後の事についての指導をうけたり相談したりして、後は私の成績について語るくらいなものだ。とはいえ、外部受験をするにあたって先生以外に頼る人がいなかったこともあり、私は本当に助かっていた。ただ、毎回のように告げられる先生の「残念だ」という一言さえなければと思わなくもなかったのだが。

「来週にまた模試を受けに行くんだろ? また分からない事があったら先生方に相談するといい。うちの学校は三年の受験勉強の為に生徒に頼られるってことがほとんどないからどの先生も喜んで協力してくれるだろうし」

「あはははは……」

 確かに勉強の教えを請いに行けばどの先生も嬉しそうに目を輝かせて私の質問に応じてくれる。流石は名門校というだけあり、先生方も一流の人が揃っているという事なのだろう。先生として、真面目に勉強に臨む生徒ほど嬉しいものはない。

「…うむ、今日はもういいぞ。……まぁ、取りやめにするって思ったらいつでも言えよ。先生は大歓迎だからな」

「頑張ろうとしている生徒に向かってなんて事言うんですか」

「ははっ、それもそうだな」

 先生は私のつっこみに対して大きく笑う。

 近くにいた他の先生方も、私達のやり取りが聞こえていたのか、口元を抑えるようにして小さく笑っているようだった。

 その時、

「何を取りやめにするんですか?」

 私達に向かってそう声が掛けられた。

 はたっ、と私の動きが止まる。だが先生はそうではなかったようで、声の聞こえた方を振り返るとすぐに「おお、澤田か」と、気さくに話し掛け始めた。

 私達のいる寛ぎのスペースから少し離れた所に立っていたのは、人のいい笑みを浮かべている澤田君。その手にはスコアブックやら何やら色々な物が持たれている。隣りに視線を移せばサッカー部の顧問の姿があった。

 正直、こんな場所で澤田君に会うとは思ってもみなかった。……会いたくなかった。

 意味ありげな視線を担任の先生へと向けてみるものの、その私の視線に先生が気づくことはなく、先生は澤田君に向かって何も気にすることなくそれを口に出した。

「南野の外部受験のことだ」

 先生の言葉を聞いた瞬間、澤田君の目が大きく見開かれる。

 驚いている、のだろう。

 そのまま視線をずらして私の方を見たが、私は何となく躊躇われて澤田君から視線を逸らすようにして逃げた。

 澤田君はすぐに平常心を取り戻したようにして、再び先生へと質問をする。

「…南野さんは外部受験をするんですか?」

「ああ。……うちの学年でも指折りの優等生だからもったいないって話してたんだよ。既に夏の時点でお前たちと同様に内定だって出てるしな」

 ちなみにうちのクラスの内定一号だ、と言葉を続ける。

 その言葉は私も初耳で、てっきり部活関係で澤田君は二村君らが一号だと思っていたので少しだけ驚いた。

 澤田君は片手に荷物を持ち、何やら考えるような顔つきで口元を手で抑えるようにして私をじっと見つめる。

「……それで毎日勉強を」

「もう内定決まってる者が多くて勉強真面目にしている生徒も減ってきたしなぁ…。皆も南野を見習うように言わんとな」

「…そうですね」

 がはははっ、と豪快に笑ってみせる先生に合わせるように澤田君も少しだけ笑った。

 私は、一度だけ大きく唾を飲みこむ。

 冷や汗が、背中をゆっくりと流れ落ちるのが分かった。

 早くこの場所を立ち去らねば、と。

 澤田君は人の良さそうな雰囲気を持つ人だが、実はサッカー部のキャプテンを務めていただけあってなかなかに鋭く、侮れない人なのだ。このままこの場所に居座っていては何を聞かれるか分からない。それに何よりも彼は―――あの人の一番近くにいる人なのだ。

「……先生、私…そろそろ教室に…戻ります…ね……」

 できるだけ平静を装って、私は先生へと告げる。

 先生は私が今どんな心境にあるのかという事には全く気がつかなかったようで、「長居をさせて悪かったな」とだけ言うと笑顔で私を送り出してくれた。

 私は澤田君と一度も視線を合わさないように、傍にいた先生方にぺこりと頭を下げ、ゆっくりと。しかしはやる心で職員室のドアに向かう。気が張っていた為か、音を立てないように静かにドアを開け――……閉める。

 ドアの閉まる音を何処か遠くで聞きながら、まるで今まで息を止めていてようやく呼吸ができるとばかりに、私はそっと息を吐き出して新しい空気を口にした。

 胸元を押さえ、ゆっくりと深呼吸をする。

(………誰にも話してなかったのに…)

 親友である唯にすら、私が外部受験をするという事は話してはいなかった。いや、少しだけ外部受験という単語を口に出したことはあるものの、まさか本気だとは思ってはいないだろう。澤田君は確実に、唯に、そして二村君に話すに違いない。私が外部受験をするという事が広まるのも時間の問題である。

(……でもいつまでも黙っておけるわけでもないし)

 来月に入ると、外部受験者は受験勉強という事で特別授業を受けることになる。それを考えればただ知られるのが早まっただけなのだ。別に私が気にすることは何もない。

「……唯に黙ってたのは…怒られるかもしれないけど………」

 彼女が私に向かって怒鳴る姿が想像できて、その時の事を想像して私は苦笑いをした。

 唯は私の大切な親友。夏頃から少しだけぎくしゃくしたものはあったものの、大切である親友であるということは今も変わらない。

 その親友に隠し事をしていたとなれば、それ相応の罰は仕方がないだろう。

 隠すつもりはなかった。……ただ、自分でもまだ悩んでいる部分があったからそれが確かになってから話そうとしていただけ。

 澤田君から外部受験の話がもちかけられるのは目に見えているので、それならば遅くなって今更だけれども自分の口からその前に告げた方がいいのかもしれない。やはり人から聞くのと本人に告げられるのとでは言葉の重みが違う。

(よしっ、今から唯に話そう…!)

 意気込んで、両手を握り締める。

 さあいざ教室へ、と足を踏み出したその時、私は呼び止められた。

「南野さん、ちょっといいかしら」

 考え込むように俯いていた顔を上げれば、そこには数人の女生徒の姿があった。

 はっきりいって誰が誰なのか、顔と名前が一致しない人もいれば全く見た事も聞いた事もない人もいて、彼女達を見た瞬間に「何事?」と首を傾げる。

 そして首を傾げた瞬間、その女生徒達の中に浜崎さんの姿もあることに気付いた。

(………?)

 一体何が始まるのか。

 いや、何が始まるのかという事は目に見えていた。これだけの女生徒が揃っているのだ。これはもう呼び出し以外の何物でもないだろう。

 分からない事は、何故私が彼女達に呼び出される必要があるのかという理由である。

 二村君と付き合いはじめた当初は頻繁に呼び出されて、酷い目にあっていたものだが二村君が色々な女子と付き合うようになってからは、呼び出しは全くされなくなっていた。

 職員室前ということもあり、彼女達は五月蝿く声を荒げない。ただ、その鋭い視線だけで私を威圧する。

 彼女達から逃げる術もなく――職員室に逃げるという手もあったのだが、職員室にはまだ澤田君がいるわけで戻るのも気が引けた。――私は促されるままに彼女達の後へと従った。




 連れてこられたのは、呼び出しには定番中の定番といえる裏庭だった。

 昼休みであっても生徒達の姿は全く見かけられない。芝生などの寛げる空間でもなければ、ゴミ捨て場が近くにあるという少々薄汚れた場所という事もあり、好んでこの場所に近付く生徒などいるはずがないのだ。そこに――私は壁を背に、彼女達と向き合った。

 日陰ということもあり、昼間とはいえ少しだけ肌寒い。

 私は壁から一歩前くらいの場所でしっかりと立つと、私を囲むようにして立っている彼女らに向かって言った。

「何の用?」

 昔、呼び出された時は自分が一年生だったこともあり、敬語を使っていたな、という事を思い出しながら私は彼女達を見据える。あの時は本当に呼び出しなど初めてで恐くて、しかも上級生ばかりだったので更に恐さが倍増だった覚えがある。しかし今は自分が最高学年である三年生。目の前の女生徒達は自分よりも年下か、それとも同級生であるので敬語を使う必要はない。加えるならば彼女らに呼び出される理由が私には考えもつかなかったので、私は怯むことなく平然と彼女達に囲まれていた。

 彼女らからしてみれば、囲まれてもなお平然とその場に立っている私が更に気に入らなかったのだろう。私を見るその瞳が、更に憎しみの色が混じりだす。

 初めに動いたのは、私のちょうど目の前に立っていた少女だった。綺麗に化粧をし、色を抜いて茶色くなったシャギーの入った短めの髪を肩で揺らして一歩前へと出た。

「…あなた、何様のつもり?」

 低く、怒りのこめられた声で彼女は言う。

 そう言われて、私は頭の中でクエスチョンマークを浮かべながらこちらからも尋ねた。

「何のこと?」

 何が何様のつもりなのか、分からない。せめて主語述語動詞などをはっきりさせてほしいものだと思った。

「とぼけないでよ! あなたが二村君にさせてるんでしょ! 私達、分かってるんだから!!」

「だから、何をさせてるっていうの?」

 私は素直に分からないとう意思を伝えたが、それが彼女達には更に更に不評でしかなかったらしい。周りにいた他の女生徒達も声を揃えて私に向かって罵声を投げつけ始めた。

 はっきりいって、私は心が強いわけではない。だからこうやって呼び出されて大勢に罵声を投げつけられれば辛く、この場からすぐに走り去ってしまいたくなる。悪口を言われて、それを受け止めて跳ね返せるような強い人間ではない。

 痛い。

 心が…痛い。

 悲しくて、今にも涙が零れそうになる。

 言葉は凶器。刃物なんかよりも、鋭く人を傷つけることができるのだ。

 でも、辛いとはいえ今の私は彼女達に言い負かされるわけにも、言い負かすわけにもいかない。彼女らに、こんな事を言われる筋合いなどないのだ。

 ぐっ、と握りしめる拳に力を込める。

 立っている両足にも力を入れ、堪える。

 凛と、彼女達を見つめて私は告げる。

「あなた達にそう言われる理由が今の私にはないわ。何の事を言われているのかさっぱり分からないもの。あーだこーだって文句言う前に、その理由ってものを教えて。そうじゃなきゃ私、さっさと教室に戻らせてもらうから」

 息をつかないように一気に言い切る。

 はっきりと彼女達に言えたことに、やればできるじゃないか、と自分で自分を少しだけ褒めながら私は彼女達を静かに見つめ続けた。

 怯む様子も見せずに言い切った私に、彼女達の言葉がぐっと止まる。

 しかしそれも一瞬の事で、そのすぐ後に後ろの方にいた浜崎さんが口を開いていた。

「……私ね、夏休みに二村君に振られたのよ」

(―――え……?)

 何を言われたか分からずに私は浜崎さんへとぽかん、とした表情を向ける。

 彼女はそんな私の表情を面白くないとばかりに鼻で笑ってみせると、そのまま言葉を続けた。

「まあ、二村君が付き合う女の子をすぐに変えてるのはいつものことだったから、仕方がないかもって思ったんだけど……――理由がね、今までと違ってたのよね」

 浜崎さんの言葉が、左の耳から入って頭の中を一周してから右の耳から抜けていく。

 私は彼女の声を遠くで聞いているような錯覚に陥りながら、ぐるぐると頭の中で単語をめぐらせた。

(浜崎さんは二村君と別れてた…? じゃあ新しい恋人がいるってこと……?)

 夏休み、私が実家に帰省していた間に新しい恋人ができていたのだろうか、と考えるがすぐにその考えは却下される。付き合う、別れるという噂はここずっと聞いてなかったので誰か一人と付き合い続けているものだとばかり思っていたが、よくよく思い返せば二村君が女生徒といちゃいちゃしているのを見かけてもいなかった気がした。

 ――聞いてはいけない。

と。

 心の奥底で声がする。

 静かな、静かな声。

 声は――私に危険を告げる。

 浜崎さんを見つめる私の視界が揺れる。焦点がずれているのかもしれない。

 そして彼女は―――


「二村君ね、自分は南野さんと付き合っているから他の誰とも付き合うつもりはないんですって」


 ――私の心に、大きな波紋を広げた。

 心臓がばくばくと音を立てる。

 足が、がくがくとして力が抜けていくようだった。

 くらり、と眩暈を覚える。

(……誰と付き合っているから付き合わないって………?)

 聞き間違いかと思った。

 でも、それは聞き間違いではなかった。

 再び彼女らが口々に私に罵声を投げつけ始める。

 その罵声が、私の耳に届くことはなかった。

 私の耳は――彼女達の全ての音をシャットアウトしてしまっていた。

 ――どうして?

 そう疑問を投げるものの声にならない。いや、声になったところで彼女らが私の求めている答えはもっていないので意味をなさない。

 いつの間にそんな事になっていたのだろうかと思うものの、それならば二村君の周りの噂がなくなった事にも納得がいく。

 ――でも、本当にどうして…?

 何故今になって突然、そんな事を言っているのかが分からない。今までずっと、好き勝手に色々な女の子と付き合い続けていて、私はただの都合のいい女でしかなかったはずだ。

 もしかしたら誰とも付き合いたくないからそういう理由をつくっているのかもしれない、と自分に言い聞かせるもののどうしてかしっくりこない。

「……な…に……それ……?」

 震えながらも私は誰かに答えを求めて声を上げた。

「それはこっちの台詞よ! あんたが…あんたがいなかったら……ッ!!」

 耳聡く私の呟くようなその声を拾い、一人の少女が手を振り上げる。


 パァ…ン……ッ!


 高い音が、裏庭に響き渡った。

 何をされたのか分からず、私は頬に痛みを感じて静かに手で抑える。

(……私、叩かれたの……?)

 頬がじんじんと後になって痛み始める。

 だがその痛みを感じながらも少女に叩かれた自分が他人事のように思えて仕方がなかった。

「今更になって二村君を縛り付けないでよ! 二村君は皆のものなんだから…ッ!」

 怒りに声を震わせて、少女が再び手を振り上げた。

 彼女の影が、私に覆い被さる。

 スローモーションのように、少女の手が私へと下ろされるのが視界に映る。

(ああ、叩かれる…………)

 誰がどう見ても、少女が私を叩こうとしているようにしか見えないというのに。やはり私にとっては人事のようにフィルターの向こう側の出来事のようにしか思えなくて。

 二度目だというのに叩かれることに対して身構えもしなかった。

 ひゅんっ、と手が風を切る音が、小さい音ながらも私の耳がとらえる。

 そして彼女の手が私の頬を……―――叩く寸前で止まった。

 ぼうっとする揺れる視界に、彼女の手ではない手が映る。

 ごつごつした、男特有の、女の子とは違う……手。

 私を叩こうとしていた少女が、そして周りにいた少女達が驚愕に目を見開き、体を強張らせる。

 そんな彼女達に向かって、声が掛けられた。

「……あなた達は何をしているんですか」

 凛とした――声。

 感情を押し込めた低いその声は、少女達へと突き刺さった。

 少女達の誰かが、「だって…」などと小声で呟き言葉を濁すものの、その声の人に視線を向けられてぐっと言葉を飲み込んで顔を青褪めていた。

「一体これは、何のつもりなんですか」

 その人は再び彼女達に向かって問い掛ける。そして掴んでいる少女の手を静かに離すと、そのまま私と少女との間に割り込んで少女達から私を隠すように立ち塞がった。

 私は揺れる視界の中で、その人の広い背中を見つめる。

(この声は、聞いた事がある……)

 背中を向けられては顔を見る事ができない。さっきは顔を向けられていたが視界が揺れて焦点が定まらなかったのではっきりと顔を確認することはできなかった。

 でも、声に聞き覚えがある。

 この声は………サッカー部二年の城本君だ。

(……なんで…ここにいるの………?)

 素朴な疑問。

 私は再び「どうして?」という言葉を口にするものの声にならず、ひゅうっという音が口から漏れただけで終った。

 その人――城本君は一歩も動かない。

 こちらからは表情は覗えないが、きっと少女達から目を逸らすことなくじっと見据えているのだろう。じりじりと、少女達が後退する音が聞こえる。

「……だって…南野さんが二村君を縛りつけるから……、だから…」

 必死で言い訳を探すように、少女達の一人が声を出す。しかしやはり城本君の視線を受け、最後まで言い終える事ができずに口を噤んだ。

 静かだ。

 とても――静かだ。

 まるで時間が止まっているかのように、誰一人として口を開くこともしなければ動こうともしなかった。

 風が、吹く。

 地面に落ちる落ち葉を拾い上げ、少しだけ先に運ぶ。辛うじて木にくっついている葉の命を奪い取り、その葉もまた空を舞わせた後に下へと静かに落とした。

 その葉が、かさっと小さな音を立てる。

 そして、止まっていた時が再び動き出した。

「南野先輩は、別に二村先輩を縛り付けてなんかいないですよ」

 静かに、城本君がゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

「二村先輩に振られたからって彼女にあたるのはお門違いじゃないですか? 二村先輩が誰を選ぶかなんて、それは二村先輩の自由であって二村先輩はあなたたちのものじゃないですから。心で思うだけならまだしも、それを行動にうつして相手を傷つけるなんて…」

 言葉を、区切る。

 ごくんっ、と唾を飲み込んだのは少女達の誰だったのか。

 少女達の何人かは、顔に恐怖の色を浮かべていた。

「……醜くすぎます」

 と。

 城本君は言い切った。

 表情は、見えない。でも何故だか彼が冷たい微笑を浮かべているように思えた。

 淡々と、彼は言う。

「これ以上醜くなりたくなかったら、すぐに立ち去った方がいいと思いますよ? たとえ女だからってこれ以上、容赦するつもりはありませんから」

 ああ、それとも二村先輩に来てもらった方がいいですか、と。

 くつり、と笑いながら言葉を続けた。

 初め、あまりの事に動くこともできなかった彼女達だったが、暫く経って聞こえてきた予鈴のチャイムの音に我に返り、悔しそうに、そしてやるせなさそうに顔を歪めながら逃げるようにして目の前から走り去って行った。

 残されたのは、私と、目の前にいる城本君の二人だけ。

 彼女達が走り去る足音が全く聞こえなくなり、辺りが静まり返ってから城本君は私の方を振り返った。

 振り返った城本君の表情は別に冷たいものでもなく、先程までの淡々とした口調が嘘であったかのように思わせた。心配そうに、私の顔を上から覗きこむ。

 私は瞬きを二度ほどして、ぼんやりと目の前の彼を見ていた。

「…大丈夫ですか、南野先輩? ……ああ、ちょっと頬が腫れてますね…」

 言われて、そういえば自分は叩かれたのだという事を思い出す。確かに痛いといえば痛いが、今の私にはあまり気にならないでいた。しかし目の前の城本君は眉を顰めて私の頬を見つめている。もしかすると酷い状態になっているのかもしれない、と思うもののやはりどこか人事のように思えていた。

「濡れタオルとかで冷やした方がいいですね。水場まで行けますか…?」

「え…、あ………」

「……南野先輩…?」

 何の反応もみせず、ぼーっとしているだけの私を心配したのか、城本君が私の顔を覗き込む。

 視線は合わさっているのに焦点がまだ合っていない為か、どうも城本君という存在を確実なものとしてとらえることができなくて。

 とりあえず私は一つの疑問を口にした。

「……どうしてここにいるの?」

 突然現れた彼。女生徒達は細心の注意をはらって私を裏庭へと連れてきた。人気のない裏庭に誰かがいる様子はなかったし、ここに来るまでも誰にも出会わなかったはずだ。だとしたらどうやって彼女達が私を連れ出した事に気づいたのだろうか。

 私に尋ねられ、「ああ…」と小さく呟くと城本君は何でもないようにして答えた。

「音楽室からね、見えたんですよ」

「…音楽室……?」

「あそこ、音楽室の窓なんです」

 そう言って、城本君は上を見上げながら一つの窓を指差す。私は指差された方を見上げ、見覚えのある黒色のカーテンに、確かにそこが音楽室であると理解する。

「部活部活でサッカーの毎日なんですけど、ピアノも好きだから、暇があれば音楽室でピアノを弾かせてもらってるんですよ。それで、何気なく窓から外を見ていたら先輩達の姿が見えて、やばい雰囲気だったんで下に降りて来たってわけです」

 サッカーとピアノという組み合わせに、何となく不思議な感じを覚えながらも私は彼がピアノを弾けるということを素直に凄いと思うと、言われた事を口の中で反復させて納得した。

 まさかの彼女達も、そんな上の方から見ている人がいただなんて思わなかったのだろう。今度からは周りだけでなく上も確認しなければいけないよ、と既にいなくなった彼女達に向かって心の中で声を掛ける。

 そして私は彼にぺこりと頭を下げた。

「ありがとう、助けてくれて」

 人事のように思っていたものの、実際は自分が彼女達に責められていたわけで、助けてもらったことは事実でお礼を欠かすわけにはいかない。

「いや、別にいいですよ。それよりも早く冷やした方がいいと思います」

 少しだけ照れたような笑みを浮かべると、城本君はまだまだどこかぼーっとしたままの私を引きずるようにして水場へと向かった。裏庭の近くに、穴場の水場がある。他の場所に比べて水道の蛇口の数は少ないものの、日陰ということで夏は水が冷たいと密かに囁かれて静かな人気を誇るその水場は、さすがに今の時期だと冷たいからという事で近寄る生徒の数も減っている。使う人は裏庭のゴミ捨て場で手を汚した人達や掃除の人達くらいなものだろう。

 きゅっと音を立てて蛇口を捻る。冷たい水が、ちょろちょろと下に向かって流れ始めた。

 ハンカチは身だしなみの一つであり、自分も持っているからと告げられたのだが、城本君によってその言葉はやんわりと断られて私に待っていてという言葉を言うと、彼は私の代わりに自分のハンカチを濡らしてそれを適度に絞り、私に差し出した。

 ありがとうと告げながら私はそのハンカチを受け取る。そっと、腫れてきていると言われた頬へと当てると、その冷たさがちょうどいいくらい気持ち良く思えた。

 ハンカチの冷たさを感じながら、ほうっと一息をつく。

 気持ちいいと思うということは本当に腫れているのかもしれないと思い、後で鏡を見なければならないなと思いを巡らせた。

 と、視線を感じて私は城本君の方を見た。

「あ、ごめんね。ハンカチは今度洗って返すから、もう授業に行ってもいいよ。もうすぐ本鈴鳴っちゃうし…」

 このまま彼を引きとめ続ける必要はない。私のせいで授業に遅刻させてしまうのも気がひけて、私は彼にそう告げた。

 城本君は、私に対して何かを言いたそうだった。

 私は彼に向かって微笑むことで、その言葉を拒否する。

 頭が回るというか、気がきくというか、その場の空気をよむのがうまいというか、つまりはそんな感じで。城本君は「…それじゃ」と一言だけ言うと、その場から離れようとし――否応なく足を止めざるを得なかった。

「あ………」

 城本君の声が、小さく零れる。

 彼が振り向いたその先に。

 私が見ているその方向に。

 ―――二村君の姿があった。

 二村君の遥か後方に、見慣れた姿が二つ。確認しなくても分かる、それは唯と澤田君の姿で。

(………話したんだ…)

 言葉にするまでもなく、それは明らかなこと。

 二村君が、ずかずかと乱暴な足取りで私の傍へと歩み寄る。いつの間にか城本君は横にそっと動いていて、私達の間には妨げとなるものは何一つとして存在していなかった。

「…………た…」

「え…?」

「……なんで黙ってやがった…ッ!!」

 一度目は、口の中で呟くように小さな声で。

 そして二度目は怒鳴り散らすような大きな声で。

 二村君は、怒っていた。

 どちらかといえば垂れ目がちの瞳が、今は鋭くつり上がっている。同様に、眉も上にひっぱられるように上がっている。真剣な表情。唇は怒りを堪えるようにして噛み締められている。

 こんな風に、真剣にただただ怒りの感情を表す二村君の姿など、一度として見た事がない。

 ………いや、見た事はあった。

 これは――……サッカーをしている時の二村君と同じなのだ。

 おぼろげに、過去のビジョンを瞳の向こうに浮かべながら私はそう思った。

 普段はにたにたという表現が似合う表情を浮かべ、人を小馬鹿にするような態度しかとらない二村君は、あまり真剣な瞳をすることはない。でもサッカー中となれば別だ。誰よりも真剣な眼差しで、彼はサッカーに臨む。たとえ誰かに自慢げなその態度が頂けないと言われようと、その自慢げな態度の裏にはこれでもかというくらいの努力が基づいている。練習の時も、試合の時も一秒たりともお遊びで臨んだ姿などなかった。……そう、彼はサッカーに命を懸けるといっても過言ではないのだ。

 そんな、サッカーをする時の真剣な彼が、今――私の目の前に立っている。

(………どうして…?)

 本日何度目か分からないその疑問が、頭に浮かぶも声にはならなくて。

 私は怒りに震える彼の姿を静かに見つめた。

 もう一度、彼は怒りを含んだ声で言う。

「なんで俺に言わねェんだよ……ッ!?」

 私は………―――彼のその言葉をゆっくりと自分の頭の中へと伝える。

(……なんでも何も、別に言う必要なんてないじゃない…)

 そんな言葉を、頭の中で思い浮かべながら。

 目の前の彼を静かに―――見据えた。

「…………」

 私の心に暗い闇が広がる。

 私は、声を出した。

「…どうして二村君に言わなきゃいけないの?」

 知らず知らずの間に、にっこりと感情のない微笑を浮かべて。


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