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私は変わった。

私は……変わらなかった。

――そして季節は巡り、今年もまた暑い夏がやってきた。




ぎらぎらと太陽が地面を照らす。アスファルトの地面は触るだけで火傷してしまいそうな程に熱をもち、その上を歩くだけで空と地面からとの暑さの挟み撃ちとなり制服の下を汗が滴り落ちる。額などの汗はハンドタオルで拭うことができるが流石に服の下に流れる汗を公衆の面前で拭うことなどできず、できるだけ早く日陰である校舎を目指して足を速めて歩いた。

玄関に辿り付くと、太陽の光が遮断される為に気分的にも涼しいような錯覚を覚える。実際は暑く、大して差はなかったりするのだが、別に私だけに限った事ではなく人としての習性か何かなのだろう。

鞄を手に持ち直し、私は大きく息を吐いた。

数回、手で自分自身を仰いでから自分の下駄箱に向かった。

ふと、自分以外の下駄箱を見ると夏休みだというのにも関わらずに靴の入っている下駄箱が多いのに気づく。寮から校舎に来る途中、かなりの生徒が部活に励んでいる姿を見かけたのでそういう人達同様に文科系の部活動も行われているのだろう。もしくは補習に来ている生徒達がいるのかもしれない。ほとんどの補習はお盆までにびっしりと予定を組み込まれていたからだ。

クラスメイトの靴箱を順に辿って見ていくと、これまた結構な人数が学校に来ている事が知れた。

(………そんなに皆、補習受けに来てるのかなぁ…)

補習は希望した者が受けることになっているのだが、一部の生徒は成績が良くない事を理由に強制的な参加が強いられていると聞く。私は自分のクラスメイトは学年的に見て成績がよくないのだろうか、と考えたもののそれをすぐに却下し、三年生という事で受験生だから皆自主的に参加しているのだろうと思うことにした。

靴を脱ぎ、上履きへと履き替える。

「あっれー、穂香じゃないの。何、あんた補習受けるの?」

上履きを履く為に、とんとんっとつま先で床を蹴っていた私の背中に聞きなれた声が掛けられた。

おや、と思って振り返ると動きやすそうな体操着の唯の姿がそこにあった。

Tシャツとジャージのロゴを見るに、どうやらそれはサッカー部の物であるのが分かる。きっと今日もまた部活動があるのだろう。時間から察するならば休憩時間といったところだろうか。朝一でもなければ昼休みの昼食タイムでもない半端な時間に彼女がこんな場所でサボるとは思えない。

私は持っていた鞄の中身をひらひらと唯に向かって見せる。

鞄の中には筆記用具と化粧ポーチ。

教科書類は一切入っていない。

「はずれ。今日は図書室に本を借りに来たの。早めに読書感想文を書いておこうって思って。……今年は八月いっぱい地元に帰るつもりだからね」

「あ、そっか。…まぁ、成績優秀の穂香が補習受けるわけないもんねぇ。おかしいとは思ったのよ」

「…優秀かどうかは関係ないと思うけど……。自主的に受ける人だっているんだし」

「まーそれはそれよ」

 あはははっ、と唯が笑って誤魔化す。

 私も便乗して軽く笑ってみせた。

 唯も上履きへと履き替えて、私と隣り合わせで一緒に廊下を歩き始める。

「……何か用事があるんじゃなかったの?」

 部活中、休憩中とはいえ校舎に来たという事は仕事でも任されたからではないのかと思い、私はそれを尋ねた。それに対し、唯は首を左右に振ると、

「別に何も。穂香の姿が見えたから走って来ただけ。……今日はさ、ちょっとメンバー欠けてるから練習も違ったものになってて。で、マネの私は雑用やってるわけ」

 と答えた。

「欠けてるって……誰か病気で寝込んでるの?」

 これから夏の大会もあるわけで、メンバーが欠けて練習を変えざるを得ないのであればそれは大問題なのではないのかと思い、私は眉を寄せて続けざまに尋ねる。しかし心配そうな顔をした私に対してけたけたと笑ってみせた。

「夏場に風邪ひいて寝込むような馬鹿はさすがにうちの部員にはいないはずだって。タフだけが取り柄だし?」

「……酷い言われよう…」

「いや、事実だし。……で、欠けてるってのは一部のメンバーが選ばれたのか自主的なのかわかんないけど、県の集中合宿とかに行っちゃっているのね。そのメンバーってのがレギュラー陣だからいつもみたいな練習ができないってわけ。分かった?」

「ふーん…。よく分からないけど、もし選ばれるって事はそれだけ優秀ってことなんだよね? やっぱりうちのサッカー部は強いんだねー…」

「何を今更」

「あはは、ホント、今更だったね」

笑い声にあわせるように、とんとんっとリズムよく階段を上る。ゆっくりいつも通りのペースで上がっていた私よりも先に、走り上った唯が踊り場へと上りきった。そのまま下方にいる私の方を振り返ったので、私は上方にいる唯を見上げた。

「………何、どうしたの?」

唯は何も言わずにじっと私を見つめていた。

そしてややあって、

「………選抜のこと、二村に聞かなかったの…?」

と心配そうに言った。

私は足を止めることなく、とんとんっとゆっくり階段を一段一段上がりながら「何も」と答える。唯と同じように踊り場へと辿りついた私は同じ視線の高さで唯を見て、微笑んでみせた。

「二村君も選ばれていたってことは澤田君達もってことだよね? 二年の鈴木君あたりも呼ばれてるのかな、やっぱり…?」

 鈴木君とは、二年にしてレギュラーを奪い取った素晴らしい逸材だと言う噂の後輩である。背が低めだが、運動神経が凄いのだとか何だとか前に話を聞いた気がしなくもない。

凄いよねぇ…と何気なく言葉を続けると、のほほんとしている私に向かって唯が声を低くして呟くようにして告げた。

「………穂香、ここのところずっとおかしいよ。あんた…」

「そうかな? だとしたら暑さにやられてるのかも。……最近蒸し暑くて夜眠れないし」

「違うっ! そうじゃなくって、二村とのことがおかしいって言ってんの、私は!!」

 バンッ、と近場の壁を唯が叩いた。

 荒くなった唯の声と、叩かれた音とが静まり返った廊下内に響き渡る。それは、そのまま遠方から聞こえる部活動中の生徒の掛け声と吹奏楽部の演奏の音と重なり静かに消えていった。

「何もおかしくなんかないと思うけど…。別に今まで通り話してたじゃない」

 彼に対しての態度を変えたつもりはない。私は今までと同じように二村君に接していたはずだ。クラスメイトとして勉強などを一緒にやった時もあれば、恋人として何か家庭科部で作った物を差し入れに行ったりもしていた。そして約束をすれば二人でデートにも出掛けていた。

 同時に二村君が私以外の人と付き合うことに対しても何も言わなかった。それもまた今まで通り、同じで。

 私からしてみれば唯のその言葉は心外といえた。

 ――しかし、彼女は流石に私の親友を務めているだけはあった。

「全然違うじゃない…! だって、穂香は全然笑わなくなったわ……ッ!!」

 そう言われた――瞬間、ここ数ヶ月の間感じることのなかった胸の痛みが一度だけ戻ってきた。……でも、それはたった一度だけで。

「……何言ってるの、唯? 私、ちゃんと笑ってるじゃない」

「違うわよ! 少なくとも数ヶ月前までの穂香はそんな渇いた笑い方しなかった!! 他の人は誤魔化せても私は誤魔化せないんだから…ッ! ……ねぇ、ホントに何かあったの? 私にも言ってはくれないの…?」

 何を唯が言っているのかが分からなかった。

 私は渇いた笑い方をしているつもりもなければ、何かを誤魔化しているつもりはない。唯に対して隠していることなどないのだ。

 だから何を言われているのか分からない。

 私に――分かるはずがなかった。

 私は微笑む。

「唯の気のせいでしょ? 私には何を言われてるのかさっぱり分からないから」

 かっとなった唯が、再び声を荒げようと口を開くものの、すんでのところで言葉が飲み込んで、そのまま悔しそうに唇を噛み、床を睨みつけるように俯く。

 そんな唯を、私は空虚な心で見つめていた。

 と、そんな私達の間にあった居心地の悪い空気を和らげるように耳に届く男子生徒の声。

 掠れたような、微妙に届く大きさのその声は何処か遠くからかけられたもので。

「………?」

 私はきょろきょろと周りを見回し、近くの窓から外を見てその声の主を発見した。

(……確かサッカー部の…城本君じゃなかったかな、二年のレギュラーの…)

 よくよく耳を澄ませば彼は唯の名前を呼んでいるようだった。

 長々と話をしている間に唯の休憩時間が終ってしまったのだろう。マネージャーも大切な一員で大切な仕事を担うポジションである。遅れる事は許されない。

「唯、後輩が呼んでるよ? 行ったほうがいいんじゃないかな…」 「…………」

「……唯…?」

「………ん…、じゃあ行くね、私。ごめん、邪魔しちゃったみたいで…」

唯は私と視線を合わせようとはしなかった。

今の私の顔を見ないでとばかりに俯きながらそう告げると、そのまま身を翻して今上がってきたばかりの階段を駆け下りて行った。思い切り駆け下りているのだろう。唯の騒がしい足音が暫くの間、ずっと廊下に響いていた。私はその音が聞こえなくなるまで聞き届けてから、静かに視線を窓の外へと向ける。

踊り場にある窓からは、ちょうどサッカー部のグランドが遠くに見えた。

グランドには指定のジャージを着た男子生徒らが一生懸命になって走り回っている。やたら人数が多かったり体育時のジャージを着ている人達もいることから考えると彼らはレギュラーではない人達なのだろう。見ればレギュラー特定の服を着ているメンバーの数が少し足りない。グランドを駆け回る彼らサッカー部を見て、その足りないメンバーの分だけぽっかりとした穴があいてしまっているように私には見えた。

暫く見ていると、監督のもとへと走っていく唯らしく人物の姿を視界に入った。

「…………」

遅れたことを詫びているのか、数回頭を下げた後に再び忙しく走り出す唯は、色んな部員と声を掛け合いながら部室の方へ向かっているようだった。

唯の姿が見えなくなってからもまだ、私はグランドを見つめていた。

そして、

「………あ」

レギュラーの一人と視線がばっちりと合ってしまう。

見覚えのあるその男子生徒は、先程唯を外から呼んでいた生徒。

彼は私と視線が合わさったのにも関わらず、視線を逸らすことなく私の方を見上げていた。かなりの距離と高さの違いがあるにも関わらず、彼は瞬きもせずに私を見つめる。

その視線が何かを私へと告げているようで。

私は逃げるようにして踊り場から走り去った。

その後、しばらくしてからこっそりと違う窓からグランドを見た時にはその男子生徒――城本君は他の部員と同じように一生懸命に部活動に励んでいるようだった。

どう考えても私は彼とは関わり合いがない。

だから、きっと彼は誰か他の人と間違えて私を見ていたのだ、と。

私はそう思うことにした。

その日は結局夕方頃まで図書室に居座り、日が暮れてから寮へと戻った。

寮への帰り道、少しばかり遠回りをしてサッカー部のグランドの横を通る道を選んだ私は、グランド内を勇ましい掛け声を上げて黒と白のそれを追いかけるようにして縦横無尽に走り回るサッカー部員の姿をそっと見つめた。

笛を吹きながら罵声をあげ続けている唯の姿がそこにある。

いつもならば唯が私に気づくまでそこにいて、手を振るものだが今日はそういった気分にならなくて気づかれる前にその場から立ち去る。

足早にその場から離れた私は気付かなかったが、この時数時間前に視線が合った城本君が去って行く私の後ろ姿を見つめていた。




数日後の夕方。

私は夕食を目前にして、自分の部屋で夏休みの課題に取り組む為に机に向かっていた。

夏休み中で寮のメンバー全員が揃わないという事もあり、普通ならばほぼ全員が揃って同じ時間に食事を取ることになっていたのだが、決められた時間内に食事を済ませればよいという事にされていた為、少々時間は遅くなるものの課題にきりがついてから夕食を取ろうと私は考えていた。

同室の子は吹奏楽部の発表会で遠方の地に赴いている為に、暫くの間は私がこの部屋を一人で使うことになっている。その為、酷く静かな空間に私は居続けている。カリカリというシャーペンを走らす音と、教科書のページがめくれる音が聞こえるだけで他の音は一切聞こえない。隣室の生徒も夕食を取っているのか、周りもまたとても静かだった。

私達生徒が宛がわれた部屋は、一つ一つに冷暖房を装備するわけにもいかずに酷く蒸し暑いものとなっている。気休めに少し開けている窓から入ってくる、夜独特の涼しい風だけが唯一の冷房となっていた。

(……暑い…。やっぱり広間に行って勉強するべきかも…)

ノートを抑える手に汗が滲み、手を動かせば紙であるノートがくっついてくる。少し苛立ちを覚えながらも手をノートからぺりぺりと剥がした後には、妙によれよれになったページが出来上がっていて、酷い時には腕にまでくっついていて更に面倒なことになっていたりもする。

もう少し涼しくなるであろう夜、もしくは朝方にする勉強が一番はかどるなぁと考えながらも、少しでも早く今日の予定していた分を終らせようと必死で手と頭をフル回転させた。

「………ふうっ」

と、一息ついてシャーペンを手から離して、数回腕を真上に伸ばして思い切り背筋を伸ばすようにしてひっぱる。今日はほぼ一日中机に向かっていた為に体が固まってしまったのか、それが酷く気持ち良く思えた。

「あと三頁分終ったらご飯食べに行こう…と」

自分で自分に言い聞かせてもう一度ペンを手に持とうとしたその時、私の耳に、コンコンッという小さな音が聞こえた。

「………?」

何の音だろう、と思い私は首を傾げる。

何か机に置いている物でも落としてしまったかと思って足元を確かめるものの、下には何も落ちてはいなかった。

気のせいかと思ったものの、もう一度同じ音が聞こえてきて気のせいではないという事が分かった。

ドア、を叩く音にしては音が高すぎる、……という事は。

「窓…?」

ガラスを叩く音に似ていなくもないと思った私は、椅子から立ち上がり窓の傍へと歩み寄る。そのまま少しだけ開けていたその窓をがらりと全部開ききった。

 窓を開けた瞬間、むあっとした蒸し暑い空気に混じってひんやりとした冷たい空気が顔に直撃する。勉強に集中してほてった私にとって、それはとても気持ち良く思えた。

 きょろきょろと窓から外を見る。

 夏は日が沈むのが遅いこともあり、午後の七時を過ぎているというのに外は少しだけまだ明るい。ぼんやりと覗える外の世界を私は目を凝らすようにして見回した。私の部屋は二階であり、窓から覗く視線には近場の木くらいしか入ってこない。あとはせいぜい遠方に見える他の寮の建物が見えるくらいで、他に何かを見ようとするならば下を覗かなければならなかった。

「……んー…?」

 そして、きょとんとしながら下方を見た私の瞳に、見覚えのある男子の姿が映った。

 徐々に迫ってきている夜の暗い闇がその男子の表情を隠しているものの、背の高さや特徴くらいは上からでも見て分かることができ、その男子が二村君であると私は気づいた。

 二村君は、窓から乗り出している私を静かに見ている。

 私はそんな二村君を静かに見つめて一度だけ、こくりと彼に向かって頷いてみせた。そして窓から離れて部屋の扉を開けて、廊下に誰もいないかを見回してから扉の鍵を閉めた。

 がちゃり、と金属音が静かな空間に響く。

 木の葉や枝が小さな呻き声を上げたその後で、二村君は鮮やかな動きで私のいる部屋の中へとその身を忍ばせた。

 私は彼が部屋の中に入ったのを確認すると、窓の外を見回してから鍵はかけないものの窓を閉めきる。

「………よォ…」

「……こんばんは」

 まずは挨拶。

 その後で二村君は静かに私のベッドへと腰を降ろした。私は彼に向かい合うようなかたちで机の椅子に座る。

「どうしたの、こんな時間に? 一応門限とかあるからヤバイんじゃない…?」

「……大丈夫だろ」

 ぽつり、と短く返事が返される。

 門限云々の問題がないということは、こっそりと内緒で出てきたという事なのだろう。二村君はよく寮から抜け出しているようなので、きっと今日もまた同室の澤田君にフォローを頼んでいるに違いない。抜け出した時の大半の理由が、付き合っている女のもとに行くというものだというのも一部の人間にはしっかりと知れ渡っている。

 私も付き合い始めた当初にはよく二村君が私の部屋へと遊びに来て、慌てて彼の存在を隠したものだった。初めての時は本当に驚きどころの騒ぎではなく、私が大騒ぎした為に見つかりそうになったのも今となっては笑い話である。しかし緊張したものの彼が遊びに来てくれたことが凄く嬉しくて、少しでも一緒にいられる事が幸せだと思っていた。

 ここ数ヶ月もの間は他の女の子のところに行っていたようで、二村君が私の部屋に遊びに来ることは久しぶりともいえて、私は昔の事を思い出して懐かしさを覚えていた。

 あの時と同じだ、と思いながらも何かが違うような気に包まれる。

(………何かが…違う…ような気がするけど……)

 一体何なのだろうかと心の中で自分自身に問い掛ける。

 そして――私の心は、既にその答えを用意していた。

 あの頃は酷く胸をときめかせていたというこの状態で、今の私は胸をときめかせていない。

 何も……感じなくなっている。

 心が―――反応しないのだ、と。

 頭の中でそれを理解した。

 理解し、私は彼に分からないように自嘲気味に微笑む。

(………まるで人形みたい…)

 この時になって、初めて私は唯が数日前に言っていた言葉の意味が少しだけ分かったような気がした。でも―――もう遅いのだと、頭の片隅で警告音が響いていた。

 手遅れならば、気がつかなかった振りをすればいい――と私の中の何処かで声が聞こえる。

 その声は私の脳裏と心を虜にし、

(………そうしようか…)

 声に対して私は肯定の言葉を返していた。

 静かな部屋の中、私も二村君も何も話そうとはしなかった。

 いつもなら自信過剰なくらいに人を小馬鹿にする態度をとってくるというのに、俺様的な素振りを一度として見せないことに、私は二村君の様子がいつもと違うという事に気付く。

 何か、あったのかもしれないと考えて、唯の言葉が頭の中を過ぎった。

 県の集中合宿に数日の間参加すると彼女は言っていた。参加しているはずの二村君がこうしてこの場所にいるという事は、その合宿が終了して戻って来たということになるだろう。集中合宿というからには何かを――サッカーであるというのは前提であるが――する為のメンバーを選び出す為の合宿だったのかもしれない。そして今の二村君の様子から察し、私は一つの結論を出した。

「………」

「………」

 私は静かに彼を見つめる。

 二村君は私の視線に気づいていないのか、俯き加減に視線を逸らしたままで何も言わない。

「………夕食、もう取った?」

 何となくだが、彼も私と同じようにまだ夕食を取っていないような気がしてそう尋ねた。

 二村君は短く一言、「まだだ」と答える。

 私は彼に少しだけ待っていてと告げると、鍵を開けて自分の部屋を後にした。向かう場所は食堂。まだ夕食の時間なので食事は残っているはずで、そして食事を担う寮母さんもいるはずだ。

 食堂に着くなり、私は勉強をやりたいという事を理由にして、お夜食をかねて少し多めにおにぎりなどの持ち運びが大丈夫な物を作ってもらった。お礼を告げて、こっそりと見つからないようにコップを一つ拝借する。

 挙動不審だと言われない程度に周りの様子に気を配りながら、私は自分の部屋へと戻った。

 部屋の中には未だベッドの上に座り続けて沈黙を守り続けている二村君の姿があり、寮内の他の人達が気づいた様子は一切なかった。

 私達は部屋の中で二人、少なめの夕食を取る。

 そして食後にお茶を飲みながら、私は二村君に対して話を持ちかけた。

「…集中合宿に行ってたって聞いたの、唯から」

「………」

「お疲れ様、二村君」

「………」

「明日からはまた学校の部活の練習に臨むんだよね? 頑張ってね」

「………―――なんでだよ…」

「何が?」

「……何で穂香は何も言わねェんだよ…ッ!?」

 何事もなかったかのように普通に話し掛けた私に対して、二村君は苛立った口調で言葉を吐き捨てた。

 彼の顔が苦渋に歪められる。

「………」

「………」

 私は何も言わなかった。

 ただ、静かに二村君を見つめ続けた。瞬き一つせずに、微笑むこともせずに、一点を見つめるが如く彼を見つめ続ける。

 二村君も私を見ていたが、先に彼が私から視線を逸らした。

 小さく一度だけ舌打ちをする音が聞こえる。

 その後で、彼はゆっくりと口を開いていた。

「………だっせーんだよ、俺は…。澤田とかはコーチらに褒められてたのにな……。俺は………注意ばっかされて、あげく、練習のメインメンバーから外されたりして……」

 ぽつりぽつりと、言葉が紡がれる。

 言葉と一緒に、心の中に溜めていた気持ちを吐き出すようにして。

「………俺は……負けたんだ……ッ!!」

 ぎりっ、と唇を噛む。

 強く噛んだ唇からはうっすらと血が流れていた。

「な…っさけねェ……」

 彼自身を嘲笑うようにして、二村君は右手で顔を抑える。

 その手は私と比べものにならないくらいにごつごつとして大きくて、彼の表情を隠してしまっていた。私には今の彼がどんな表情をしているのかが分からない。……分からないけど、搾り出すようなその悲痛な声が彼の今の表情そのものを現していた。

「………」

「………ちくしょう……、ちくしょう…」

 絶望という名の闇が、彼を覆っている。その闇に苦しめられて、彼は私に―――救いの手を求めているように見えた。

 彼のその苦しむ姿は、正直のところ見ているだけでも私までが辛くなってくる。

 憐れみ、ではない。

 彼の心に私の心が共鳴しているような、そんな気持ちで。

 ――でも同時に、目の前で苦しんでいる彼の姿を見ても何も思わない、私には関係ないことだと思う心もまた存在していた。

 二つの反する心が互いを潰しあい、私の心が大きな悲鳴をあげる。

 私の中の何処かで、砕けた破片が今再びきらきらと闇の中を舞った。

 闇の中でもなお輝き続けようとし、しかしそれでも闇の中へと飲まれていく。

「………それで、二村君は諦めるんだ?」

 気がつけば勝手に、私の口がその言葉を紡いでいた。

 淡々とした口調で。

 顔色一つ変えずに静かに彼を見据えて私は言葉を続けた。

「そこで、二村君は終わらせるつもりなんだ? 二村君にとってサッカーってそれだけのものでしかなかったのね」

 私のその言葉に、二村君の体が大きくはねた。

 手を顔から外し、ゆっくりとした動作で私の方へと顔を向けて睨みつける。瞳に、一筋の光が映る。

「……なんだって…?」

 低くドスの効いた声で、二村君が言う。

 その視線だけで心臓が凍りそうな冷たさを相手に感じさせることができたに違いない。――でも、私は微動だにせずに彼を静かに見つめる。そして言葉を続けた。

「何が負けたのかよくわからないけど、サッカーができなくなったわけじゃないでしょ? それなら今回の経験をばねにして練習して、周りを驚かせてやるくらいに今まで以上に一生懸命にサッカーをやればいいじゃないの」

「―――ッ!!?」

「……私は泣きたいなら泣けばいいなんて甘い言葉は言わない。泣き言言いたいなら優しい言葉をくれる恋人のところに行けばいいじゃない。私に泣き言なんて言わないでほしい。言われても困るから」

 どんどんと私の口から言葉が零れる。

 冷たく、酷い言葉ばかりを続ける自分が心を凍りつかせた雪女のようだと思った。

 そして最後に一言。

「私、課題終らせたいから先生に見つからないうちに帰って」

 そう……告げた。

 二村君に背を向けるようにして、椅子の向きをかえてもう一度机に向かう。そしてしおりを挟んでいたページを開き、勉強を再開させた。

 カリカリとペンを走らせる音が部屋に響き渡る。

 暫くの間、二村君はそのまま動かなかった。そして私が勉強を再開してからかなり時間が経ってから、静かにベッドから立ち上がるとカタッと小さな音を立てて窓を開けたようだった。

「………悪ぃ…、ありがとな…」

 と、独り言のように二村君は言うと来た時と同じように近くの木を伝ってその身を外へと躍らせた音が私の耳へと届く。

 部屋の暑さが一気に冷え込んだような気がして、私はペンを持つ手の力を緩めて静かに窓の方を見つめる。

 窓の外にはいつの間にか真っ暗になっていた闇が広く広がっていた。

 心地よいはずの風が、今は冷たく思えて。

 それでも私はその風を浴びるようにしてずっと窓を開けたまま外を眺めていた。

 暗い、深き夜の闇。

 それはまるで私の心を映す鏡のように思えた。

「…………寒い…」

 体が?

 ……それとも心が…?

 暑いはずの真夏の夜のその日、私は小さなくしゃみを一度だけ零した。

 やや小刻みに震える体を抱き締めながら、私は窓を静かに閉める。

「………こわれちゃったのかもね…」

 窓に映った自分自身の姿を見つめ、額を窓につけて俯く。額にあたる窓の冷たさが、私の頭の中へと浸透していく。熱が溶け合い――中和される。

 ずるり、と体が床へと沈んでそのまま座り込む。

 崩れ落ちた私の体は魂のないマリオネットのように自ら動くことを拒否し、人としての全ての感覚を闇の中へと手放した。

 瞳をゆっくりと閉じて視覚をも手放す。

(………ああ、私がいなくなる……)

 ―――そして世界は暗転した。



 八月を目前にして、私は予定よりも少し早く星ヶ丘中学を後にして実家へと帰省した。

 星ヶ丘中学があるのは都会である東京なのだが、実家は東京とはかなり離れた田舎で、周りの風景一つとっても全くの別世界のような場所だ。何から何までが違うその空間に、懐かしさを覚えて私は帰省してから暇を見つけては、昔遊んだ公園や川辺や山などへ足を運んだ。

 五月蝿い蝉の声が全ての他の音をシャットアウトしてしまうようなその場所は、今の私にとっては心安らげる場所に思えた。新鮮な緑溢れる空気もまた私を癒してくれているようだった。

 毎日毎日をそんな風に、何処か虚ろに過ごしていた私を両親は何も言わずに見守ってくれていた。私の様子がおかしいと感じていたのかもしれない。でもそれを感じていても口に出す事をしないでくれるのが嬉しかった。

 そんなある日、寮にいる唯から電話がかかってきた。

 久しぶり聞く唯の声は、電話越しで聞くといつもと少し違った声に聞こえて少しおかしく思えた。

「元気してる、唯?」

「もっちろん! 穂香も元気にしてる? いいなぁ、私も早く実家に帰って休みたいよー。…まあ実家っていっても東京なんだけどさ、やっぱり寮と違って落ち着くってのがあるじゃない?」

「あ、分かる分かる」

「一応お盆は部活がないから里帰りするつもりなんだけどね、私も。今から待遠しいって感じかも」

 穂香がいないから寂しいわ、とからかうように言う唯の言葉に私はくすくすと笑った。

 その後、何でもないような事を話題にして長々と話し始める。時間というものは楽しいときはすぐに過ぎていってしまうもので、気がつけば話し始めてから結構な時間が経ってしまっていた。

 私の後ろでこほんっとわざとらしく父が咳払いをするのが聞こえる。

(あ、ヤバイかも)

 そろそろ切らないと怒られてしまうかもしれないと思い、私は口元を手で抑えて内緒話をするようにして唯にその旨を告げた。

「ごめん…、そろそろ切らないとうちの親が……」

「え、あー……もうこんな時間なんだ。ごめんね、長々と」

「ううん、楽しかったから気にしないで」

 それじゃあまた夏休み明けに会おう。

 とお互いに別れの挨拶を言い合い、電話を切るかと思った矢先に、唯が最後にこれだけはとばかりに待ったの声をかけてきた。

 慌てたようなその口ぶりに、何か大事な事を忘れていたのかと思い私は耳を澄まして唯の言葉を待つ「        」

 風が――吹き付けて周りの音を全て掻き消す。

 唯のその言葉だけが、静かな世界に響き渡った。

 私はその言葉を聞き、「……そう」と短く受け答えをするとゆっくりと電話を切ってもとにあった場所へと戻した。

 受話器を置きつつも、手では受話器を掴んだまま静止する。

 電話を終えたというのに動こうとしない私に向かって、父が心配そうに私の名前を呼んだような気がした。

 しかし名前を呼ばれても私が動くことはなかった。

 何度も、何度も名前を呼ばれて。

 ようやく自分が呼ばれているのだと気づいた私は、父に大丈夫だと微笑んでみせるとそのまま自分の部屋へと直行した。

 扉を閉め、そのまま布団の上へとダイブする。

 ぽすっと大きな音を立てて、私の体は柔らかな羽の海へと沈んだ。


 ――うちの学校ね、都大会で優勝して全国大会に行けることになったのよ。


 唯の言葉がリフレインする。

 …でも、違う。その言葉ではなくて。


 ――二村君、凄かったわよ。


 その…言葉が。

 頭の中をぐるぐると回り続けた。

 聞きたくない言葉。

 聞いてはいけない言葉。

(……心の中が空っぽになった感じだ………)

 何の感情ももてない。

 顔を枕へと埋める。

 息苦しいと思いながらも、私は枕から顔を離さなかった。……離せなかった。

 枕が濡れることはない。

 ただ、布団を握りしめる手に知らず知らずの間に力が篭っていた。




 残りの夏休み中の八月いっぱい、私は結局ずっと実家に居座った。

 そして最終日の三十一日の朝、私は寮へと戻る前に両親からある事を告げられた。

「高校は地元の高校に行かない?」

 と。

 言われた瞬間、いきなり何を言っているのかと思った。

 私が今通っている星ヶ丘中学はエスカレーター式で内定さえもらえれば高校も受験なくして進むことができる。中学受験の為に一生懸命に勉強して名門校である星ヶ丘中学に合格したというのに、それを無駄にしろと言われてしまったような気分だった。

 そんな感情が顔に表れていたのかもしれない。

 母は申し訳なさそうに私を見た後で、寂しそうに微笑んだ。

「さすがにこの辺りは田舎だから私立の中学はなかったから、東京の学校に行くのも認めたんだけどね。できれば私達は穂香と一緒に暮らしていたいのよ。やっぱり我が子と別々にいるのは寂しいものね」

 そんな母を見て、そして母の隣りに座る父の顔を見て。

 私は何故に両親がこんな事を言い出したのかを理解した。

(………私の様子がおかしいから、他の道もあるんだって言ってくれているんだ…)

 星ヶ丘中学に入りたいと言ったのは私。

 家を離れるにあたって全寮制の学校ならば安心できるから、と。勉強くらいしか取り柄のなかった私は名門と言われている学校の中から一番両親が安心できそうな場所として星ヶ丘中学を選び、合格する為に必死になった。そして――両親を認めさせた。

 その手前で自分から他の道を選ぶことができない私の為に、新しい道は幾つもあるのだと示してくれているのだ。

 胸が、じぃんと熱くなるのを感じた。

 私のことをいつでも、いつだって考えて。思ってくれている二人の事を思うと涙が零れそうだった。

 母の言うとおり、中学の名門と言われる進学校はないものの、高校の名門と言われる進学校は通える範囲で幾つかある。それに何かやりたい事があるのならば進学校に拘る必要もなく、そちらに進む道だってあるのだ。

「……ありが…とう、お父さん、お母さん…」

 ぽたり、と。

 私の目から溢れた涙が、服に落ちて小さな染みを形作った。

 久しぶりに流した――涙。

 それはたった一粒でしかなかったのだけれども、とても熱く、私の心にろうそくのような小さな灯火をもたらした。

(私……まだ…心がここに…ある………)

 壊れてしまった心や思いがたくさんあると思った。

 自分ではそれを認めたくなくて、ごまかして、ごまかして。

 気づかない振りをし続けていた。

 でも、まだ壊れていない思いや感情が、ここに残っている。

 その残った心を壊さない為に、私は壊れてしまった心にまたこれからも気づかない振りをし続けることになるのかもしれない。

 それは、酷く自分勝手で。

 そうと分かっていても、そうしなければ私はいつか―――本当に人形のように心なき人へとなってしまうだろうから。

 私は両親へと顔を向ける。

「……私、他の学校受験したい…」

 そう――告げた。

 泣き笑いになってしまったけど、両親に向かって笑顔を浮かべて。


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