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 からり、と小さな音を立てて教室へ入る。

 朝の予鈴まではまだ時間があり、私が足を踏み入れた教室には半数程のクラスメイトの姿しかなかった。寮ということもあり、急ぐ必要もないのでゆっくりとしている人もいるのかもしれないし、朝早くから部活動に励んでいる人々がいるのだろう。私が登校してくる時間は遅くもなければ早くもない、そんな間の時間だった。別に気にかける程の時間ではない。しかし、私が教室に足を踏み入れた瞬間、教室にいた生徒達の視線は私へと向けられ、そしてすぐに私から逸らされた。

(また今日もか……)

 既にそんな視線を向けられて数ヶ月となれば慣れるものである。居心地の悪さすら今は全くといっていいほど感じなくなっていた。

 私はクラスで注目されるような目立つ生徒ではない。寧ろクラスの中では目立たない部類に入り、容姿も普通でこれといった特徴はない。成績は上位だが大勢の人の前で話すことは得意ではないので委員長などの素晴らしい地位にはついていない。何をとっても裏方に回るような人間といえた。そんな私だから初めて教室中の視線を向けられた時には非常に居心地が悪く、皆の目から逃れるようにこそこそと縮まっていたのだが、今となってはそれも懐かしい話である。

 一通り教室を見回して仲の良い友達がまだ登校していない事を確かめると、私は静かに自分の席へと座り、席の近いクラスメイトにだけ挨拶をした。

 類は友を呼ぶという言葉通り、私の友達は裏方に回ったりクラスから浮いていたりする人達が多い。だがクラスのムードメーカーとして騒いだりする表の人達を嫌っているわけではないので挨拶もすれば必要があれば会話も交わす。私の人付き合いはそういったものだった。

 鞄を開けて時間割票を見ながら忘れ物がないかをチェックする。自分でもぼけっとしてぬけているところがあるのは承知の上だったので、毎朝こうして確認することは日課になっていた。授業が始まる寸前になって教科書を忘れたなどと騒ぐような馬鹿なことはしたくないからだ。もっとも、忘れ物をしなければそれが一番いいのだが忘れる時は忘れるものである。

(宿題は…ちゃんとやったし、予習もしたから当てられても大丈夫だし…。まあ、挙手は自分からしないから当てられる事もほとんどないと思うけど……)

 小学校ほどではないが、先生の中で自分が当てるのではなく生徒に挙手をしてもらい、その中の生徒を当てて問題を解いてもらうなどという事をする人もいる。人前で話すなどもってのほかである私にとって挙手など皆無に等しいのだが、挙手をしろしろと五月蝿い先生もいるからはっきりいって迷惑この上ない。発表したい人が発表すればいいと思うのだけど、世の中そううまくいかない。問題を当てられるに当たって一番都合がいいのは順番に当てられる事だと思う。そうすればどこが当たるかが分かるので前もって予習しておくことができて非常に安心できるからだ。しかしこれはずぼらな先生方しか行わないので、毎日予習をするにこしたことはない――自分の出席番号関係の日にちの時は特にする必要があると思われる。――。

 ぶつぶつ呟きながら確認し、私は今日も朝行われるであろう小テストの予習を始める。中学三年生にもなると受験を控えているという事――星ヶ丘中学はエスカレーター式なので受験の心配はないのだが、それでも受験生であることに変わりはないのだ。――で毎朝のように簡単なテストが行われるからだ。別に成績に関係するわけではないが、いい点をとった方が自分としても気分がいい。範囲であろう教科書のページを適当に見ながら私は時間を潰すことにした。

 適当に潰す時ほど時間が経つのが遅く感じるもので、私は早く予鈴がならないものかと思いながら教科書を見ては外を見遣り、教科書を見ては外を見遣るという所謂時間つぶしとしかいえないような行動をとっていた。――が、

「おはよ、穂香!」

 突然、がばっと音を立てて私の首に腕が回された。そのまま首を軽くしめられる。

 声でそれが誰であるかは分かっていたので、私は慌てずにゆっくりとその腕を首から外させながら後ろを振り向き、声を返した。

「……おはよ、唯ちゃん。今日も朝から元気だねー」

「そう? 穂香が暗いだけだって。相変わらず低血圧なんだから」

 正面から顔を合わせて笑い合って、もう一度挨拶をし合う。

 彼女――唯は私の親友であり、学校の中で一番中の良い子だ。一年生で友達になり、二年生ではクラスが分かれてしまったものの三年生で再び同じクラスになり、前以上の友情を築くに至ったわけだ。性格は私よりも明るく、クラスのムードメーカーになりそうな子でもあるのだが本人がキャーキャー騒ぐのが好きではないらしく、私のように裏方に回ってそちらの方で交友を深めているようである。もっとも、部活が我が中学きっての人気部であるサッカー部のマネージャーという事もあり、本人が裏方に回ろうとしても表にでてしまうというのがあるみたいだった。

 唯は私とは少し離れた自分の席に鞄を置くと、前の席の椅子に座り、私の机に頬杖をつくようにして話を始める。今日出ている宿題のことや昨日と今朝の部活のことなど話題は様々で、私は彼女の言葉に相槌をしながら楽しんで聞いていた。

 私達二人の関係はどちらかといえば唯が話し、私が聞くというかたちが多い。彼女が話すのが好きで私が聞き上手というのが理由になるが、偏りがあるとはいえ私達二人が満足しているのだからいい関係といえるだろう。

 予鈴まであと五分ほどとなり、教室にも生徒のほとんどが集まってきている。そして至って普通に、教室の扉が開かれた。

 瞬間、教室が大きくざわめく。

 我こそはと挨拶をしようと声を掛ける女生徒達、相変わらずの光景に大変だなぁと人事だと苦笑してみせる男子生徒達。そして私の耳に、少々困ったように苦笑しながらも挨拶を返す男子生徒の声と面倒そうに軽く挨拶を返すだけの男子生徒の二人の声が届いた。

(………ようやくご登場ですか)

 毎朝恒例となっている光景に、扉の方に一度も視線を向けることなく手元に開いている教科書へと視線を向ける。交わされる挨拶は私には関係ないとばかりに予習をしながら唯と会話をし続けた。

 唯は朝練で二人と既に挨拶を交わしているので今更改めて挨拶をする必要はなく、彼女も自分には関係ないとばかりに二人を一瞥しただけで声をかけることはしない。

 何ら変わりなく話し続けていた私達だったが、すぐに彼ら自身から声を掛けられていた。

「おはよう、南野さん」

「よォ」

 ガタンッ、と音を立てて席につく男子生徒二人。

 彼らの席は、初めに声を掛けた背が高い男子生徒――澤田君が私の右隣り。もう一人の男子生徒――二村君が澤田君の前で。つまりは席が近い為に挨拶するのは当然という状態なのである。もっとも私にはそれ以外にも理由があったりもするのだが。

 私は心の中で深呼吸を一度してから、彼らの方を振り向き「おはよう」と挨拶を返す。そして直に前にいる唯の方へと向き直った。

「天野、相変わらず教室に来るのが早いな。今日も宿題でも見せてもらってるのか?」

 優しげな笑みを浮かべながら澤田君が唯に声を掛ける。

「ふっ…。いくら私だってやるときはちゃんとやってくるのよ、澤田」

 ちっちっちっ、と人差し指を左右に動かしながら自慢げに唯が言葉をかえす。

 先程教室が賑わったのは他でもない。澤田君と二村君が学校で一番人気の部活であるサッカー部のメンバーであり、且つレギュラーという枠を我が物にしているからである。彼らの人気はとても素晴らしい。特に二村君に至っては、顔面偏差値が良い為に異性からの歓声は後を絶たない。

 さすがにサッカー部員とマネージャーなだけはあり、相変わらず仲が良いと思いながら――ちなみに別に二人が恋人同士というわけではない。――私はそんな二人のやりとりを見て小さく笑った。

「やる時は…ねぇ……。お前の場合はその時はほとんどないけどな。明日は雨なんじゃねぇの?」

 ほのぼのとした雰囲気に刺をさすのは唯の横に座っていた二村君。

 にやりと意地悪そうな笑みを浮かべながら椅子にふんぞり返るようにして座っている彼に、いつもの事だとわかっていながらも唯はくってかかっていた。……つまりは二村君がいじわるをいうのがいつもの事であるのならば、唯が食ってかかるのもいつもの姿で。そしてその二人のやり取りを笑いながら見守るのが私と澤田君のいつもの姿なのだろう。

「何言ってんのよ! それに明日の天気は晴・れ・なのよ。ざまーみなさい、ほーほっほっほっ」

「へーへーそーですか。相変わらずの馬鹿笑いですことで。――で、そんな馬鹿笑いしてるから部室に忘れ物をしてくわけだな、お前は」

「えっ、うそ!?」

 どっちもどっちだという態度から一転して二村君が優勢の立場になる。

 唯は慌てながら自分の席へと戻り、鞄を漁り始める。

 そしてややあって、青褪めた顔をこちらの方へと向けてきた。

「………筆箱…部室に忘れてきた……」

 部活のメニューをメモした時に机の上に置いたままにしたんだわ、と言葉を続けて頭を抱える唯。

 はっきり言って、サッカー部の部室は校舎から離れた場所にあり遠い。それはサッカー部用にグランドがあり、その傍に部室が控えられているからで普通に考えればありがたいことこの上なかったりするのだが、こういう時は遠い事が、更にはサッカー部が優秀だと若干他の部活動よりも贔屓にされている事が悔やまれて仕方がないだろう。

 予鈴が鳴るまで後数分。

 今から部室まで取りに行こうものならば遅刻は免れなく、またホームルーム後の休み時間に取りに行くとしても一時間目の遅刻はやはり免れない。

 そんなこんなで困っていた唯だったが、天使の救いの手が差し伸べられた。……たとえその天使が天使の皮を被った悪魔だったとしても、今の唯にとって救いであるのには違いない。

「ほれ」

 と、唯に見えるようにして翳すようにして二村君の片手に捕まれているのは青色の見覚えのあるペンケース。布製のそれは二年と数か月の間使いこまれてきた事を証明するようにかなりよれよれになっている。

 私はちらりと隣りに座っている澤田君へと視線を移す。

 ちょうどこちらを振り向いた澤田君と私の視線が合わさり、彼は私に向かってにっこりと微笑んだ。

(……良かったね、唯。取りに行かなくてすんで)

 心の中でそう思いながらも、これから起こるであろう二人の会話を予想して私は全く関係ないと主張するようにして、手元の教科書へと再び視線を移して勉強を再開させた。隣りを盗み見てみれば、澤田君も巻き込まれるのは遠慮するとばかりに私と同じように教科書を取り出して適当に読み始めている。相変わらず付き合い方が上手だことで、と私が心の中である意味尊敬の意味を込めて拍手をおくった直後、それは始まった。――それ、つまりは二村君と唯の言い争い。

 はっきりいって今回の場合、二村君の方が優位にたっている。そのために唯が強く言い切れない立場にある。が、ここで大人しく下手にでる唯ではない。

 初めは二村君が唯をからかっていたのだが、いつのまにかただの口喧嘩と化していて。

(あ……)

 と私が思った時には既に遅く、

「お前ら、静かにせんか!!」

 いつの間にか教室に入ってきていて教壇に立っている先生の罵声が二人へと向けられていた。

 二人、立たされて先生に軽くお小言を言われた後に朝の小テストが配られる。二人のこうしたやり取りは三年になってから今日までの数ヶ月、かなりの数で繰り返されてきたので先生も怒りよりも呆れの方が、割合が多くなっているのだろう。ぐちぐちとお小言が続くことは今となってはほとんどない。成績に関係がない小テストだとはいえ、テストはテストなので教室は一気に静かになる。

 テスト用紙を見て、私は予習した所が間違っていなかったと胸を撫で下ろしながらシャーペンで空欄を順番に埋めていった。

 朝の小テストは先生が採点するのではなく、各自隣の人と交換して配られた解答を見合わせて採点する事になっている。

(相変わらず頭がいいなぁ…)

 私の隣りは澤田君であり、採点も彼と交換して行っている。澤田君は部活でも優秀な生徒だが、学問の方でも上位にランクインするほどの頭の良さで、毎回採点する度に私は彼の頭脳を羨ましく思っていた。しかしそれを一度口に出して言った事があるが、「南野さんの方が成績はいいだろう?」と返されてしまったのでそれ以来口に出した事はない。確かに成績でいけば私の方が上位にあるのだから反論ができないのだ。……たとえ私は部活と両立して勉強もできるから羨ましいという意味だと伝えたところで、彼には簡単に言いくるめられてしまいそうなのは目に見えているという事もあった。

「はい、南野さん。今回も満点だったよ」

 まるで自分のことのように嬉しそうに微笑みながら、澤田君は私に採点したテスト用紙を受け渡す。私は「ありがとう」と答えながら、同じように採点した彼のテスト用紙を渡した。

 そして今日三度目のチャイムが鳴り響く。

 一度目はホームルームが始まる予鈴、二度目は本鈴。そして今のはホームルーム終了のチャイムである。

 ホームルームの時間が小テストの時間とされている為、先生からの報告や委員会の報告は採点中に既に聞き終えている。

 「一時間目は移動教室だから遅れるなよ」という言葉を言い残し、先生が教室を後にする。一気に教室にざわめきが戻ってきていた。

 私は一時間目に使う教科書類をマイペースに容易しながら立ち上がり、椅子を机の中へとしまう。

 隣りに座っていた澤田君と二村君が教科書片手に教室を後に特別教室に向かうのを視線を向けずに音だけで確かめてから、唯の席のもとへと歩み寄った。

「唯ちゃん、私達も早く行こっか」

「そーね、早く行くにこした事はないしね」

 休み時間は十分程しかない。遅れないようにと私達もまた他のクラスメイトと同様に教室を後にした。

 朝の話の続きとばかりに二人で話しながら廊下を歩き、私はそっと視線を遠方へと向ける。

 見えたのは大きな二人の男子生徒の背中。言わずとしれた、二村君と澤田君である。彼らの存在感は他の人達と比べて大きく、何処にいても目立つように思えた。

 二人、部活の話に花を咲かせているのだろう。三年生は一応夏で引退という事もあり、今まで以上に部活に力を入れているのは誰の目にも明らかだった。

(頑張ってるんだな、みんな)

 何となく自分の事のように微笑ましくて、思わず口元に笑みが浮かぶ。

 ――が、不意に視界に入った一人の女生徒の背中に私の表情が一瞬だが凍りついた。

 同じクラスメイトの浜崎さん。

 クラスといわず、学年の中でも指折りの美少女で男子生徒の中での評判もよい。人受けもよく皆の人気者である彼女はいつも太陽のように明るいステージを舞台とするタイプの人であり、私のような裏方のタイプの人とは正反対である。私自身、彼女の事は嫌いではない。席もわりと近く、話も他の子に比べればする方で――とはいえ彼女から話し掛ける事がほとんどだ。――彼女のような存在は羨ましいともいえた。

 別に気にするほどの事ではなかったのかもしれない。

 でも一度気になるとその後もずりずりと気にしてしまうもので、私は唯と話しながらも彼女の方へと何度も視線を向けながら歩いていた。

 浜崎さんは一緒に歩いていた友人らに何かを告げて小走りに走ると、彼女の少し前を歩いていた二村君へと話し掛けた。離れているこの位置からでは彼女が何を話しているのかは聞こえない。しかし、表情は覗えた。

(ああ、そういう事なんだ…)

 その時、私の頭の中で一つの結論が弾き出された。

 朝、私に向かって投げられたクラスメイトの視線はつまりはこういう事だったのだろう。

 浜崎さんが二村君に何かを言う。それに対して二村君も笑いながら受け答えをし、彼女が幸せそうに微笑む。それは、誰がどう見ても仲睦まじい恋人同士のやり取り。

 気がつけば、私は足を止めてその場に立ち止まっていた。

 思考回路の全てが停止したような、目の前が暗くなるような錯覚を覚えるものの、話しかけられた唯の声で我に返り、私は再び足を動かし始める。

 さすが親友というべきか、唯は私のそんな様子に眉を顰めると無言で私を見つめてから前方へと視線を向け、そして声を荒げた。

「何あれ!? 何やってんのよ、あいつは…ッ!」

 そのまま放っておけばその『あいつ』に向かって食ってかかりそうな程怒り始めた唯に、私は抑揚のないままの普通と何ら変わりのない声をかける。

「…気にする事ないんじゃない。どうせいつもの事だし…」

 さらりと言ってのける私の言葉に唯は納得がいかないようだった。

 怒りを本人にぶつけられるのを私に止められて、その怒りを代わりに私へとぶつけるようにして肩を掴んで揺さぶる。

「いつもの事って…。穂香、あんたそれでいいの!? だって澤田の彼女は穂香じゃない!!」

「…そうだね。一応私は二村君の彼女だけど…」

「だったら他の女とべたべたしてるの怒らなきゃダメじゃない!! っていうか許しちゃだめよ、そんなの!」

「……私、二村君を束縛するつもりはないから…。気にしないよ? だってこれが初めてじゃないしね」

 私は、微笑む。

 唯は「でも…っ」とまだ言いたそうにしたもののその言葉を飲み込み、苦虫を噛み潰したような嫌そうな声で、ぽつりと言った。

「………でも、それでも私は許せないわ」

 私は怒らない。

 私は彼に対して文句を言うこともない。

 代わりに一言、

「…ありがとう、唯」

 と、私の分まで怒って、悔しがってくれる親友に対して心からの言葉を告げた。

 そして足を止めてしまった唯を促すようにして、目的地である教室へと足早に向かい出す。

 ふと、前方に視線を向けた私の瞳に。

 浜崎さんと二村君と共に歩いている澤田君が何か意味ありげに私の方を見たような気がした。

 しかし瞬きの後、再びそちらを見た時には澤田君は後ろを振り返ってはおらずに私の視界に映ったのは彼の大きな背中だけで。私はただの見間違いだと思うことにした。

 私の中の何処かで、何かがひび割れる音が聞こえる。

 それもまた気のせいだと、私は思うことにした。




 唯の言ったように、私は二村聡君と付き合っている。

 出会いはマネージャーである唯を通しての一年の夏。

 そして付き合い始めたのはそれから数ヵ月後の一年の秋。

 家庭科部である私が唯に差し入れをした時に、彼とは知り合った。人と話す事を苦手とする私は初め、二村君は勿論のこと澤田君達サッカー部の人達と話すという事には抵抗があった。しかし慣れるもので、何度か話すうちにそれなりに普通に話せるようになっていた。そんな中で一番唯とやり取りの多かった――大抵が口喧嘩――二村君と必然的に話す回数も多く、気がつけば彼を好きだと思う自分がいた。しかし内気な私はレギュラーになろうと陰で努力している彼のそんな姿を見ているだけで十分で、告白する気など全くといっていいほどなかった。

 だから――始まりは彼の一言から。

「俺の為にだけ差し入れするつもりねェ?」

 と。

 お馴染みとなったにやりという微笑を顔に浮かべて、彼はサッカー部のメンバーが大勢集まる中で私に言った。

 言われた瞬間は何を言われたのかが理解できず、私はぽかんと彼の顔を見つめた。

 ようやく頭で理解できた時にはまさかまさかと思いながらもの嬉しい気持ちと、公衆の面前でのその言葉に恥かしさを覚えてその場から走り去っていた。

 そういった経緯もあり、私と二村君が付き合い始めたというのは隠すこともできずに学校の皆に知れ渡ることになったわけだが、いちゃいちゃとかべたべたとかはほとんどする事はないもののそれなりにいい関係といえたと思う。

 彼は私が人付き合いが下手だという事をカバーしてくれ、私に何かを無理強いするような事はしなかった。

 私は彼が陰で努力し続けているのを見守り続け、彼の足手まといにならないようにしてきた。

 他の人から見れば、子供のような恋愛だったのかもしれない。影で女たらしだと言われている二村君に比べて私は男の子と付き合うなど一度としてしたことがないから、私に合わせてくれた付き合い方は、私達の関係は友達のようなものに近かったのかもしれない。でも――それはそれで幸せだった。

 気がつけば――何かが狂い始めていた。

 狂い始めているのだと初めて認識したのは、二年の夏。

 私の耳に届いたのは、二村君と見知らぬ女生徒が付き合っているのだという噂話。

 聞き間違いかと思った。

 聞くべきか、聞かないべきか迷った挙句私は彼に尋ねた。

 そして返ってきた答えは――付き合っているのだ、というもので。

 ピシッ…と、小さな音を立てて。

 私の中の何処かが小さなひび割れ始めた瞬間だった。

 しかしそれでも二村君は私とは別れなかった。所謂二股というものか、それとも私を都合のいい女だとしているのかもしれない。一度として別れの言葉を告げられる事はなかったからどうすればいいのか分からなかったのかもしれない。いや、それ以上に私は二村君を束縛したくないと思っていたというのが大きな理由だったのかもしれない。

 私は誰かに束縛されるのを嫌う。だから相手も束縛したくないという思いがあった。

 ……でも実際は私のような平凡な人間が彼に見初められるはずがないという思いが心のどこかにあったからだろう。

 私は、二村君に何も言わなかった。

 二村君も、私に何も言わなかった。

 また気がつけば、二村君はその女生徒とは別れていて。またまた気がつけば他の女生徒と付き合い始めていた。

 その度に、周りから私は居心地の悪い視線を向けられた。

 その度に、私はその視線から耐え――気がつけばその視線に慣れてしまっていた。

 今朝、私が教室に入った時に向けられた視線は浜崎さんと付き合い始めたという噂が広がり始めたからなのだろう。

 そしてその噂は……真実。

 二村君と浜崎さんは、今付き合っている。

 私はそんな二人を、見て見ぬ振りをしている。

 何も気にしない。

 何も気にならない。

 ………何処かで、何かがひび割れる音が聞こえる。

 それも……幻。

 何も、何処もひび割れてなどいないのだから――。




 よく考えれば私が今まで見て見ぬ振りをし続けられたのは、二村君と他の女生徒が触れ合っている現場を目撃した事が一度もないからだったのかもしれない。たとえ仲睦まじげに寄り添っていたとしても、話しているだけならば何とでも我慢ができる。……あわよくば、私が見ていないのだからそれは嘘であると思い込みたかっただけなのかもしれない。

 午前の授業を終え、お昼ご飯の時間になっていた。

 別に何らいつもと変わりない日を過ごしていたと思う。ただ、唯が二村君を睨みつけているのを除けば。

 星ヶ丘中学は全寮制である為、自分や親がお弁当を用意するという事は無理という事になる。また、私立とはいえ中学校である。親の仕送りがあるとはいえ金額のレベルも高校に比べれば低く、毎日学食と購買で全生徒の昼食をすませるというわけにはいかない。よって必然的にたくさんの親から大切な子供を預かる学校として、お昼は給食という選択をとるしかない。

 給食ともなれば大抵の生徒は教室で食事をする。たとえ誰と食べようと自由だとしても持ち歩くのは面倒ということもあり、クラスメイトと適当に仲間を組んで食事をするという生徒が必然的に多くなるのである。

 私は唯と、他に数人のクラスの仲良しグループで昼食をとる。

 他愛もない話を交わしながら、サッカー部の二村君や澤田君達が昼食を早々に済ませて教室の外へと出て行く音を聞いていた。昼休みの練習に向かったのだろう。

 そこでふと、私はいつもと違ってゆっくりと給食を食べている唯に気づく。サッカー部の練習があるのならば唯もまた彼らと同じように早く食べ終わり、グランドへと向かっているはずである。

「……あれ? 今日は練習ないの?」

 尋ねたのは一緒に食事をとっている友達の一人。

 唯は口に含んでいたものを飲み込み、あっけらかんとした様子で答えた。

「今日はね、珍しく練習ないのよ。何でもグランドの整備するとかで放課後までは使えないらしくってね。朝も他の場所で基礎体力作りだけだったし…、放課後までには整備も終ってるとは思うんだけどさ」

「ふーん……」

 なるほど、と思いながらもそれならば何故二人が教室を後にしたのかが気になる。が、何か用事でもあるのだろうと勝手に理由をつけて納得して、私は食事を再開しようとし、

「あああっ!!」

 忘れていた用事を思い出し、私は珍しく大きな声を出していた。

 私の大声に驚く唯達。

 だが私はそれどころではなかった。

「私……今日の昼休み、図書当番だった…」

 昼食の時間も含めて昼休みである為、なるべく早く食事を済ませて図書室へと向かう必要がある。それなのにそれを忘れて私はゆっくりと食事をとっているというのはよろしくない。

 慌てて食べ物を口につめ、デザート類は口惜しいと思いながらも友達に差し上げて、私は教室から慌しく走り去った。

 私の辞書に、サボりなどという文字は言語道断許されるべき事ではない。そもそも図書委員というものも自分から好んで選んだ委員会である――全員が委員会、もしくは係りを振り分けられていて、私は担当の先生にこき使われる七面倒な係りではなく、委員会を選んだのである。――。よけいに当番をサボるなどという事はできない。

 その後少々遅れはしたものの、私は無事に昼休みの間、当番の仕事を終えて、午後の授業の予鈴とともに私は図書室を出て教室へと向かった。慌てる必要はないと思ってゆっくりと歩いていると、後ろから聞き覚えのある声が掛けられた。

「南野さんじゃないか」

 振り返れば、こちらに駆け寄ってくる澤田君の姿。

「あ、澤田君。………澤田君もお仕事だったの?」

「ちょっと顧問の先生に呼ばれててな。今日の放課後の部活の事について話していたんだ」

「そうなんだ、お疲れ様」

「南野さんこそ、図書委員だったんだろう? お疲れ様」

 何気ないやりとりを交わす事ができるのも、ひとえに予鈴の後の休み時間だからだろう。澤田君は星ヶ丘中学の人気者の一人なので、こうして普通に話しているだけでもファンの女の子から睨みつけられるだけではすまないのだ。予鈴の後の休み時間はほとんど廊下を歩く生徒がいない。だからこそ私一人でも彼と普通に話すことができた。はっきりいってファンの子達というものは恐ろしいことこの上ない。できるならば関わりたくないという事は嫌というほど身にしみていた。

 静かな廊下を、次の授業の事を話題にしながら私は澤田君と話しながら歩いた。中央の広い廊下を抜け、そして教室横の細長い廊下へと差し掛かる。

 ちょうどその時、私達の耳に何かの音が聞こえた。

「………?」

 私は聞き間違いかと思い、澤田君を見上げる。

 澤田君にもどうやらその音は聞こえていたようで、彼も分からないというように首を左右に振ってみせた。

 その場に足を止め、耳を澄ます。

 今度こそはっきりと、何かの音と誰かの声が聞こえてきた。

 ――この時、何となくだが嫌な予感を覚えた。

 しかしその音と声を無視する事はできなくて、私は澤田君とともに声の聞こえる中央廊下の窓の方へと身を乗り出し、校舎からは死角となりそうな木陰を見遣り――そのまま私の表情が――凍りついた。

 いや、表情だけではない。ありとあらゆる感覚が凍りついていた。視界がブラックアウトする。声にならない叫び声を、息とともに飲み込んでいた。

(な……に……?)

 見なければよかった、と後悔し始めても既に時は遅く、私の視界にははっきりと彼らの姿が映し出されていた。

 木に凭れるようにして座り込んでいるのはクラスメイトの浜崎さんで。

 その浜崎さんを抱き締めながら、片手を彼女に、もう片方の手を木についているのは二村君で。

 それはまるで映画の一シーンであるかのように。

 ………二人の唇が合わさっていた。

 私の隣りにいる澤田君が、息を飲み込んだのが聞こえた。私の視線は目の前の二人から逸らせずにいるので確認はできないが、彼が驚いているというのは見なくても明らかだった。

 私は静かに目の前の二人を見つめる。

 そして、瞳を開けて横に視線を逸らした二村君と私の視線が……合わさった。

 ――瞬間、私の中の何処かが砕け散った。

 きらきらと、細かく割れたガラスの破片のように、輝きながらそれは静かに何処か暗闇へと消えていく。

 一度だけ、大きな痛みを胸に感じた。でも――それだけ。

 私はいつも通りの表情を浮かべて、抑揚のない声で目の前の人達へと言葉を掛けた。

「授業、始まるから早く教室に戻った方がいいよ」

 と。

 私に声を掛けられて初めて見られていた事に気付いた浜崎さんが、慌てて私達の方を見遣る。

 隣りでは澤田君が私を信じられないという眼差しで見つめていた。

 二村君もそう告げた私の方を見ていたようだったが、彼の姿が私の視界に入る事はなかった。

 彼の姿は、私の瞳には映らない。

 私は何も見ていない。

 私は何も知らない。

 私は何も…………。

 その後、彼ら三人がどうしたかはわからない。

 私は一足先に教室へと戻り、授業を受ける用意をしたから。ただ、私が教室に戻ってからまもなくして彼ら三人も教室へと戻り、自分の席へと着いた。

 本鈴とともに先生が姿を現し、午後の授業が始まる。

 幾つかの視線が私へと向けられていたが、私がその視線を気にすることはなかった。何事もないようにして授業に臨み、先生の言う事をノートに大切な事だけ書き残す。

 そして授業を終えて、私の傍へと駆け寄ってきた唯は、私を見るなり心配そうに声を掛けてきた。

 いつも一緒にいる唯だからこそ、今の私がいつもの様子と違うという事に気づいたのだろう。

 彼女に向かって私は答える。

「大丈夫だよ、私。何でもないから」

 本当に何でもないのだと、唯が心配する必要性などどこにもないのだと伝えるように、微笑みながら。

私は、気付かなかった。

その自分の微笑が嘘くさい、作ったような笑みであるということに。

 私は、気づいては―――いけない……。


十年以上前に書いた作品のリメイク作品になります。

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