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ハッピーエンドにはまだ遠く

作者: 香月文香

『白野、必ず日本に帰ってくるから、そのときは──』

 

 幼い頃の夢を見た。

 空港の出発ロビー。今にも泣きそうな私の手を取って、りっちゃんは柔らかく微笑んだ。凛とした顔立ちの女の子。私の大親友。


 外国人の母親から受け継いだ金髪が窓からの光にきらめく。ずっとずっと、私の目を引きつけてきた色だ。けれどもう見ることはできない。なぜならりっちゃんは海外へ行ってしまうから。両親を失った不幸な事故の傷も癒えないうちに、叔父夫婦に引き取られることになったのだ。本当は、私もついていって、りっちゃんの隣でずっと友達をやっていたかった。もちろん、ただの友達で、幼い私にはそんなことはできない。とても無力だ。悔しい。だけど、できることはなんでもしたかった。


『りっちゃん……』


 りっちゃんの手を握り返す。泣きそうなのをぐっと堪えて、私はせめて笑ってみせた。


『私はずっとりっちゃんの友達だから! 手紙を書くね!』


 りっちゃんは目を見開いて、握った手に力を込めた。もう離さないというように。本当にずっと繋いだままでいられたら、どんなによかっただろう。


『必ず返事を出すよ。ねえ白野、ずっとそばにいてくれてありがとう。それから――』


 手をぐいと引っ張られ、りっちゃんの方へ引き寄せられる。特に抵抗なく、私の体はりっちゃんの腕の中に収まった。痛いほどの力で抱きしめられて、私も思わずりっちゃんの背中に腕を回す。本当はりっちゃんがどれだけ不安なのか分かっていた。平気そうな顔をして笑う彼女が、どれほど傷ついて、それでも前を向こうとしているのか。


 耳元で、震える声がする。



『白野、必ず日本に帰ってくるから、そのときは──』


 

 私の記憶は、いつもここで途切れる。

 今日もそうだ。けたたましいアラームの音がして、私は呻きながら起き上がった。


 目を覚ました私は高校一年生で、夢の中の十歳かそこらの幼い女の子ではない。少しだけどできることも増えた。けれどあの夢は、私が一番無力さを感じさせる寂しい夢だ。同じ場面に立ち会って、十五歳の今なら他に何かできるかと言われれば、特に何もないのだが。


 私はベッドから降り、傍らの勉強机の上に大切に置いてある手紙に目を落とす。それは全て英語で書かれていたが、暗記するくらい繰り返し読んだ私には、即座に内容が頭に浮かんだ。


『白野へ

 帰国する日が決まりました。今週の土曜日です。

 十時の飛行機だから、迎えにきてくれると嬉しいな。これからは白野と同じ学校に通えると思うと夢のようだよ。

 愛を込めて   律』


 帰国日までにこちらに届けなくてはいけないからか、いつもよりも字が荒く、短い文章だった。五年間途切れずやり取りし続けたいつもの手紙は、お互い話すことが尽きず、常に便箋一枚では足りないくらいだったのに。だがこれを見た私の返事も負けず劣らず『律へ 必ず迎えに行きます。会えるのが楽しみ! 白野』くらいのそっけないものだったのでお互い様だ。本当はもっと長く書きたかったのだが、英文を書くのは時間がかかるため泣く泣く諦めたのだ。


 朝ごはんを食べ、身支度を整える。いつも櫛で梳かすだけの髪も可愛くアレンジした。洋服も、白色のブラウスに薄桃色のカーディガン、ストライプのスカートと、いつになくきちんとしたものを揃える。大親友の女の子に会うのに、だらしないと思われるのは嫌なのだ。それに、きっとりっちゃんはとっても綺麗になっているはず。ならばその隣を歩く私は、それにふさわしいだけの格好をしていないと彼女に恥をかかせてしまう。


「よしっ」


 鏡を見て、さっとスカートの裾を払う。服にシワはよっていないし、髪がほつれているわけでもない。完璧。私の見た目はごくごく普通で、誰に聞いても可もなく不可もなくといったところだが、出来うる限り最大限の処置は施した。これ以上を求めるのなら生まれ直した方が早いだろう。

 バッグを持って、家族に行ってきますと声をかけてから家を出る。


 マンション住まいのため、エレベーターでロビーまで降りると、一人の男子がスマホをいじりながら壁にもたれているのが見えた。すらりとしたスタイルで、スマホに視線を注ぐ横顔は整っている。正面を向いても期待を裏切らないイケメンであることを私は知っている。


「樹、お待たせ」


「おう白野。……めっちゃ気合い入ってんな。そんなに律と会うのが楽しみなわけ?」


 出会い頭から的確な指摘をしてきたこの男は秋葉樹という。私の夢では全く出てこなかったが、幼い頃はりっちゃんと私と樹の三人で仲良くしていたのだ。三人とも同じマンションで育ったため、家族ぐるみで親しくしていた。


 並んで歩き出しながら私は大きく頷く。


「楽しみに決まってるよ。五年ぶりだよ? きっとりっちゃんは美人さんになってるんだろうな〜。可愛いカフェとかりっちゃんに似合いそうな服屋とかめちゃくちゃ探したし、遊ぶの楽しみだな〜」


「うわ……ていうかお前、律がどんな感じに成長してるか知ってるわけか?」


「いや、文通はしてたけど写真は送ってくれなかったんだよね。私の写真は送ってくれって言うくせに。でもまあ、今日会えるからいいでしょ!」


「引く……」


「何に引いてんの?」


 空港までは電車で一本だ。予定通りにホームに滑り込んできた電車は、休みの割に空いていたので樹と隣同士に座る。そこでも話すのはりっちゃんのことだ。


「樹はなんかテンション低いね。りっちゃんを第三だか第四だかの彼女にしようとか考えてるの?」


「マジでそれだけはない」


 樹は顔がいいので大層モテる。バスケをやっていて運動面でも目立ち、女の子が派手に騒ぐのだ。しかし最悪な男で、それを利用し試合先や遠征先の学校にそれぞれ彼女を作っている。船乗りかよ。


 本人曰く、「俺は愛の多い男だから」で、別に誰彼構わず告白してるわけではなく、女の子から告白してきたのを受け入れているだけのようだ。それがまた女の敵指数を高めており、中学の頃には、それがどれだけ不誠実で人を傷つける振る舞いなのか説いたが、全く効き目がなかった。私はすでに彼が刺される日を心待ちにしている。命くらいは助けてやろう。刺した女の子が可哀想だから。


「樹はりっちゃんとメールしてるんだっけ? 今どんなふうに成長してるのかも知ってるんでしょ?」


「まあな。でも白野ほどやり取りはしてねえよ。季節が変わるときに近況報告するくらいだからな」


 それでも単純に四ヶ月に一度くらいか。結構マメな方じゃないだろうか。小学生の頃に別れてから、高校生になる今まで縁が続いている時点で、樹とりっちゃんの間にも何か絆が芽生えているのだろう。


「樹の方には写真も送られてくるんでしょ? ちょっとでいいから見せてよ」


 両手を合わせて拝むと、樹は顔を青ざめさせて首をぶんぶんと振った。


「絶対に嫌だ。それだけはするなって律から厳命されてるんだよ! 白野に教えたらどんな酷い目に遭わされるか分からねえ」


 注射を嫌がる子供より悲痛な顔をしている。私は拝むのをやめてくすくす笑った。


「なにそんなに怯えているの? りっちゃんは優しい子だったでしょ」


「そりゃお前にはな……この話はナシだ。あと五分もしないうちに空港に着く。律に会うまで大人しくしていろ」


「ハイハイ。ま、五年も待ったんだからあと少しくらい待てるよ。……本当に楽しみだなあ」


 窓の外に視線をやると、空港が近づいて来ていた。飛行機が悠々と飛んできては、空港の建物の影に隠れていく。あの飛行機の一つに、りっちゃんも乗っているのだろうか。


 複雑そうな顔をした樹と、喜びに満ちた顔をした私を乗せた電車が、空港に到着した。

 

※ ※ ※


 空港では大きな荷物を持った人が行き交う。私たちはその間をすり抜けながら、国際線の到着ロビーに向かった。かつて、この空港の出発ロビーでりっちゃんと別れた。それが到着ロビーで出会える日が来るとは、あのときは思いもしなかった。


「ここか。時間までまだ少しあるな」


「十時に到着するんだよね。十五分くらいには来るかな」


 到着ロビーの滑走路側には大きな窓があって、そこから様子がうかがえる。そわそわと落ち着かない私に、樹が声をかけた。


「落ち着けよ。ずっと手紙でやり取りしてたんだろ? 中身はそんなに変わらねえよ」


「そうだよ。だけど、会うのは五年ぶりなんだから緊張してきたんだよ。ちょっとトイレ行ってくる」


「好きにしろ」


 樹がひらひらと手を振る。私は近くのお手洗いに向かいながら、りっちゃんと初めて出会ったときのことを思い出した。

 

※ ※ ※


  りっちゃんは同じマンションに住んでいても、通う学校が違っていた。だから、初めて出会ったのはマンションの敷地内に設置された小さな公園だった。公園と言っても、植え込みとベンチとブランコくらいしかない、本当にささやかなもの。しかもブランコは危険だからと去年撤去された。


  学校が終わった後、そのブランコに座って虚空を見つめるのが私の日課だった。何が何だか分からないが、クラスに全く馴染めず、放課後に遊ぶ友達もいない私は、それくらいしかすることがなかったのだ。よくよく考えれば、やることがないからといって虚空を見つめる人間とはお近づきになりたくないし、そういう少し人と変わったところを隠さず全面に押し出していたのが馴染めなかった原因だろう。


 その日もブランコに座ってぼんやりしていた。と、子供の騒ぐ声が聞こえてきて、私の意識はそちらへ向いた。どうやら、私のクラスの男の子三人と、見たことのない女の子が、喧嘩をしているようだった。初めはマンションの前の歩道で争っていたのが、ヒートアップして公園の方まで転がり込んできたようだった。


 知らない女の子は、金色の髪が印象的な、とても綺麗な子どもだった。私の目はその一瞬で、揺れるきらめきに引き込まれてしまった。今まで見たどんな色よりも美しいと思った。


 男の子たちは、その髪を掴み、何やら叫んでいるようだった。


「お前の髪の毛、変な色!」


「髪の毛は黒くしなきゃいけないんだぜ? 染めたらいいんじゃね?」


「黒くしてやるよ! ほらよ!」


 猿のような笑い声と共に、女の子の頭に泥をなすりつける。あれだけ輝いていた金色が、泥に汚れて黒くまだらに染まった。

 綺麗なものを汚すな、と怒りにかられ、とっさにブランコから立ち上がった。管理人さんを呼んでこようと管理人室に向かいかけた足が、ふと止まった。

 私がいない間に、女の子が泣き出してしまうかもしれない。


 女の子が泣き始めたら、きっと男の子たちは怯んでさっさと逃げ出してしまうだろう。クラスではそういう光景を何度も見た。そしたらこいつらを捕まえることができない。

 女の子に目をやる。もし泣き出しそうなら、慰めてあげよう、そう思って。


 けれど、彼女は笑っていた。口は引きつって、お世辞にも可憐な笑顔とは言えなかったけれど、悔しさを堪えて、悪意なんて気にしないと言わんばかりに笑っていた。


 そのとき、どうして彼女の髪があんなに輝いて見えたのか、分かった。きっと金色だろうと黒色だろうと、私はあの子に目を奪われた。それは私が初めて見る、誇り高い人間だった。


 私の告げ口で走ってきた管理人さんが、男の子たちを叱って管理人室へ連れて行ったあとで、私はやっと彼女と話す機会を得た。俯き加減の彼女に、なんと声をかければいいのか分からなかった。大丈夫? も、かわいそう、も間違っている気がした。だから私は、咄嗟に思い浮かんだままの言葉を口にした。


「その髪、とっても綺麗だと思う。私が知っている色で一番かっこいい。すごく好き」


 それを聞いた瞬間の、彼女の唖然とした顔は忘れられない。そんなことを言われたのは生まれて初めてだった、とは後で聞いた。


 彼女が黙っているので、私はまた何か言ってはいけないことを言ったのかと思い、慌てて沈黙を埋める会話を続けた。


「私、藤堂白野。――あなたは?」


 そこでやっと、彼女はまっすぐ私に顔を向けて、口を開いた。


「白峰律」


 柔らかく笑う。さっき見た、悔しさを押し殺した笑みではなく、温かいものだけで生み出された笑顔。

 こっちの笑顔も好きだなあ、と思ったのは秘密だ。


※ ※ ※

 

 トイレの鏡で入念に顔や服装をチェックした後に樹の元に戻ると、十時十分だった。樹が到着口の方を指さす。


「人が出てきたぞ」


「あああもうダメだ。覚悟を決める」


「大騒ぎだな……」


 呆れたようにため息をつかれる。私はぐっと唇を噛み締め、到着口から出てくる人の群れに目を凝らす。老若男女、国籍も様々な人たちが歩いてくるが、私はりっちゃんを見間違えることはないと固く信じていた。どれだけ成長していたって、私が好きだったあの髪の金色のきらめきに何度でも目を奪われる。


 人混みの中に、光を受けて輝く金色があった。私の目は自然と引きつけられる。他にも金髪の人はいるが違う。絶対にあの人だ。


「……ん?」


 その人は、肩につくかつかないかくらいの長さまで髪を伸ばした──男の人だった。


 かなりの長身で、私はおろか樹よりも背が高い。顔立ちは彫りが深く整っていて、当然のように人の目を惹きつける華やかさがある。手足も長く、ただ歩いているだけで絵になるようだった。


 その人と目が合った。無遠慮に見過ぎたか、と逸らしかけると、にっこり笑ってこちらへまっすぐ歩いてくる。隣では樹が、顔を押さえて呻き声をあげる。


 いや。いやいやいや。私はりっちゃんを探していて。確かに金髪に惑わされて一瞬りっちゃんかと思ったけれど、りっちゃんは私の大親友の女の子であって。


 りっちゃんと同じ金色の輝きを持つ男の人が、私の前に立つ。まるで私の親しい友のように。ずっと前から待ち合わせをしていたかのように。私はそれを呆然と見上げるしかない。


 久しぶりに友人に会えて嬉しくて仕方がないような笑みを浮かべて、その人が口を開いた。


「ただいま、白野」


 低い声。私の聞いたことない声。初めて聞く男の人の声だ。

 ちょっと首を傾げて、私を見つめてくる。恐る恐る返事をした。


「おかえりなさい、りっちゃん」


 途端にその人の顔がぱっと輝き、腕が伸ばされる。手を引かれ、そのまま勢いよく抱きしめられる。男の人にしては長い髪が私の頬をくすぐり、耳元で嬉しそうな声が弾む。


「ただいま白野! 俺は日本に帰ってきたよ」


 ふと、脳裏に思い出がひらめく。


『白野、必ず日本に帰ってくるから、そのときは──』


 そうだ、ここで私の記憶は途切れる。

 でも今、あのときにタイムスリップしたかのように、鮮やかに蘇った。

 りっちゃんは、最後にこう言ったのだ。


『──そのときは、大切な秘密を教えてあげる』


 秘密って、そういうことだったのか。

 



「白野が固まってる。離してやれ」


 樹が間に割って入り、私は彼から解放される。

 全く頭が整理されないまま、目の前で笑う男の人を──白峰律を見つめる。


 抱きしめられた感触を思い返す。私より高い身長、大きな手、力強い腕、低い響きの声。何もかも、私の見知らぬものだ。


 ずっと憧れていた、ずっと心に描いていた、私の大親友の女の子「りっちゃん」がいなくなったことを、私は思い知った。


※ ※  ※

 

 完全にショック状態の私は、気づけば空港内のカフェに連行されていた。注文した記憶のない抹茶ラテが目の前のテーブルに置かれている。一口啜ってみると、甘ったるい抹茶の香りが口の中いっぱいに広がって思わず咳きこんだ。


  私は抹茶味のお菓子や飲み物が苦手なのだ。砂糖の甘さと抹茶特有の苦みが混ざるのが好きではない。どうして苦手なはずの抹茶ラテを選んだのか、と店内を見回して気付いた。


  一足早い季節の新商品として、これが大々的にメニューに載せられているのだ。茫洋とした頭で注文を聞かれ、一番目立つもの選んだに違いない。


  心の中で頷いていると、私の前の抹茶ラテとレギュラーコーヒーが取り換えられた。斜め前に座ったりっちゃん――いや、もはやこんなふうには呼べない――白峰律さんが、自分の注文したものと交換したのだ。


「白野、抹茶系の食べ物は苦手なんでしょ? 俺のやつ飲みなよ」


「ど、どうもありがとうございます……」


 なぜそんなことを知っている、と疑問に思いかけたがすぐに答えにたどり着く。そうだ、この人はりっちゃんなのだから、手紙に書いたことは知っているに決まっているじゃないか。秋にはよく抹茶味のスイーツが発売されるが、私はさほど好きではないというようなことを、秋が来るたびに書いていたような気がする。


 白峰さんは私と交換した抹茶ラテを飲んで、


「うわ、甘。樹飲んでよ」「この甘さがいいんだろ。貸せ、代わりに俺のココアをやる」「甘いか苦いかはっきりして欲しいよね。白野の気持ち分かるな」「お前ら二人には、この奥深い味わいが分からねえのか」


  などと、樹としょうもない話をしている。結局私の抹茶ラテは甘党の樹のもとに渡った。ショートのココアとレギュラーサイズの抹茶ラテ、差額を勘案すると一番得したのは樹か。


「……って、和気藹々としている場合じゃない!」


 コーヒーを一気に飲み干し、カップをダン! と勢いよくテーブルに叩きつける。私の隣に座った樹とその目の前に座る白峰さんが、顔を見合わせて囁きあった。


「おい、白野のやつキレてんぞ。だから言っただろ。律がなんとかしろよ」


「そう言われてもな。誤解を解くヒマもなかったのは分かってるだろ? 友情に免じて樹も加勢してよ」


「そこの二人! いちゃいちゃするな!」


 カップでは飽き足らず、拳を直接テーブルに振り下ろす。痛みが冷静さを呼び覚ましてくれていい感じだ。


「白峰さん、結局のところ、ずっと男だったんですよね? 私が勝手に女の子と勘違いしていただけで」


 質問すると、思いのほか嫌そうに白峰さんが顔をしかめた。


「そういう喋り方はやめてよ。俺はずっと白野と文通してたりっちゃんだよ。ちょっと外見が変わっただけでしょ」


「こっちはちょっとどころの騒ぎじゃないんですが!?」


 落ち着け私。でも確かに、敬語で話したり、苗字で呼んだりするのはよそよそしすぎたかもしれない。一応五年間やり取りしていたのは事実だし、帰国の際に迎えを希望されるほどの仲だったのだし。


「えーと。じゃあ、律くん」


「りっちゃんでいいよ」


「りっちゃんさん……」


「やっぱ律くんでいいや」


 無事に了解を得られたので、律くんと呼ぶことが決定した。

 私は律くんに向き直り、改めて問う。


「律くんは、小さい頃から私が女の子と勘違いしているのを知っていたの」


 じっ、と見つめると、彼は軽く笑って頷いた。


「もちろん知ってたよ。でも面白いからそのままでいいかなって」


「面白いからそのままでいいかな!?」


 一言一句違えず復唱してしまった。自分の性別間違えられて面白く感じられるか? 私は男と間違えられたら絶対訂正するぞ。


 今度は樹の方を向いて質問を放つ。


「樹は律くんが男だって知ってたんだよね? それを面白そうだから黙ってたわけ?」


「一つ目の質問にはイエス。二つ目の質問にはノーだ。俺は律が男だと知っていたし、その前提で付き合いをしていたが、それを白野に黙っていたのは律からの圧力があったからだ。黙ってねえと酷い目に遭わせるぞってな」


「律くん……」


 律くんを見ると、わざとらしく窓の外に顔を向け、いい天気だなあ、早く遊びに行こうよ、とか関係のないことを呟いている。あからさまにこちらの会話には加わりたくないという態度だ。


「ていうか私と律くんの手紙が英語だったのは、性別を悟らせないためじゃない? 一人称じゃ分からないし。英語だと細かいところまで文意を汲み取れないし」


「だろうな。俺とのやり取りは日本語だったし、メールアカウントの写真が律の自撮りだから男だとすぐバレるぞ」


「白野、英語だからって細かいところはスルーしてた? ちゃんと読んでよ、せっかく書いたんだから」


 窓の外を見ていた律くんが口を挟んでくる。明らかに会話に飽きてきている。私は深呼吸をして気持ちを鎮めた。


「私の写真は要求するくせに、お願いしても自分の写真は送ってくれなかったのも――」


「うん。白野にバレちゃうからね」


「確かに男友達の話ばかりで、女の子とは全然仲良くないなって少し不審に思っていたんだよ」


「俺は女の子なら誰でもいいって誰彼構わず遊ぶタイプじゃないから。どこかの樹と違って」


「おい、自分は一途だとアピールしたいのか? お前は拗らせすぎてて怖いぞ」


「樹、黙れ」


「おい白野聞いたか? こいつはこういう裏表のあるやつなんだよ」


「私は何を見せつけられているわけ?」


 一息入れようと手元のカップを見ると空だった。そうだ、飲み干したんだった。と、律くんが自分のココアを差し出してくる。なんとなく癪だが、喉が渇き始めたのでありがたく受け取った。こういう、周りをよく見ていて、私に優しくしてくれるところは、りっちゃんと変わらない。


「律くん。こんなに長い間、誤解を解かずにいたのはどうして?」


「うーん、面白かったから、かな。帰国するときに白野の驚いた顔が見られるかもって」


 結局面白さに帰結するわけか。別に隠された深い事情があるわけではないらしい。もしもあったとしても、私には話す気がないらしい。


「ていうかさ、俺が男だったのって白野にとってそんなに重要? 大した話じゃないだろ、中身は一緒なんだから。それより早く帰ろうよ。街とか案内して欲しい」


 律くんが肩をすくめる。あまり見ない仕草だが、彼がやると嫌味なくよく似合った。うんざりしている気持ちが過不足なく伝わってくる。


 私には社会経験が少ないから分からないが、ずっと憧れて親友と思っていた女の子が実は男の子だったなんて、大した騒ぎではないのかもしれない。普通の女の子なら、「もぅ、ビックリしちゃったぞ☆」くらいで済ませる話なのかもしれない。


 そこまで考えを巡らせて、思い至る。


 違う。私がこんなにも混乱しているのは、りっちゃんが男の子だったからではない。性別を間違えるという重大な誤解を、「面白かったから」の一言で放置されて、誤解を解く手間さえかけられなかったこと――白峰律にとって、藤堂白野はその程度の価値しかなかったこと、その事実があまりに深く胸を抉るのだ。


 りっちゃんのことを同じ性別の友達だと思っていたから、可愛いカフェや女物の服屋を探した。手紙でだって、髪形や洋服の話をした。そんなこと、全部無駄だった。無意味だった。


 きっと彼は、自分を女の子と勘違いして、思い通りに手のひらで踊る私を「面白」がっていたに違いない。さぞかし滑稽だっただろう。さぞかし「面白」い見せ物だっただろう。他人を思うがままに操るのは愉しいものだ。


「……よく分かった」


 思いのほか、静かな声が出た。何かふざけあっていた樹と律くんが、ハッとしたように私を見つめる。律くんが口を開いた。


「白野――」


「樹、律くんを案内してあげたら。私が連れていきたいと思っていた場所は意味がないから」


「待って白野、俺は――」


「女の子に人気のカフェや女物の服屋なんて、あなたには意味がないでしょう? さようなら、会えて嬉しかった」


 勢いよく立ち上がり、振り返らずに出口へ向かう。俯くことはしなかった。顔を上げていないと、涙がこぼれそうだった。


※ ※ ※


 残された俺と律は、呆然と白野の背中を見送った。いや、呆然としていたのは律一人で、俺は予想通りの結末に、あきれ返るしかなかった。


「だから言っただろ、白野は絶対に怒るって」


「分かってた。でも――白野は女友達のりっちゃんが好きみたいだったから、男だとバレたらもう縁を切られるって思って……。そしたら、海外にいる俺は仲直りすることもできない。あの手紙だけが拠り所だったんだから」


「で? 五年間騙し通して、直接顔を合わせて、仲は修復できそうか?」


「……もしかして、白野をめちゃくちゃ傷つけた?」


「もしかしなくてもそうだよこの馬鹿。俺は一体何を見せられたんだ?」


 ため息をついてみせると、律が唸って頭を抱えた。「ごめん白野……」とかなんとか呟いている。ここで言ったって何の意味もないだろうに。


 五年間、「りっちゃん」とやり取りしていた白野は、それは甲斐甲斐しかった。手紙のやり取りから察するに、「りっちゃん」はこういう味のものが好きだと思う、こういう雰囲気のものが好きだと思う、などとあれこれ言っては、街をめぐって喫茶店やらアイスクリーム屋やら洋服屋やらを探し出していた。


 俺たちが幼かった頃、周りに馴染めず浮いていた白野の手を取り、初めて外に連れ出したのは律だ。律もハーフで、周辺の子供のグループから浮いていた。それを気にせず、何を言われても屈せず自分を保つことを白野に教えた。たぶん、それを白野はずっと感謝していて、自分よりずっと強く見えた律に強い憧れを抱いたのだろう。


 実際のところ、律は白野に一目惚れしてなんだかんだ構っていただけなのだが、それは言わぬが華というものだ。


「おら、さっさと帰るぞ。いつまでもここにいたって仕方ねえだろ」


「樹、腕を引っ張るな。痛い」


「マジでぶん殴るぞ。……白野も馬鹿じゃない。今はショックで意地になってるだけだ。時間をかけて話せば解決することもあるだろ。これからは毎日会えるんだから」


「樹……それ、三股だか四股だかかけてきた経験からの言葉? ――いってえ!」


 馬鹿なことをのたまう律の脳天に拳をおろし、俺はテーブルの上を片付けにかかる。白野は自分のカップを捨てていかなかった。本当に、手間のかかるやつらだ。


 お前たち二人の行く末だけが、俺の唯一興味を持てることなんだ。ハッピーエンドになってもらわなきゃ困るんだよ。

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