第四章 〜暗転〜
<二十一>
三人はとうとう陸路の最終地点である港まで到着しました。ここから海を渡れば乙姫の国に到着します。客観的に見れば浦島の家を出てから数ヶ月の道のりでしたが、体感的には何年もの時間がかかったように浦島には感じられました。何度時間を巻き戻したか浦島や乙姫も正確な回数は覚えていません。
「ここを渡れば私の国に着くのですね。」
乙姫は感慨深げにまっすぐと海の向こうを見つめます。
「浦島様、今までお守り頂き本当にありがとうございました。」
乙姫とあやは深々と頭を下げようとしましたが、浦島がこれを制します。
「お礼は全てが終わった後にしてください。まだこの海を渡り、敵国の将を討ち取るという大仕事が残っています。」
目の前の海を見る限り、浦島はどうしても楽観的には振る舞えませんでした。漁師の経験から、この時期にこの海を渡るのは非常に難しいことが浦島には分かりました。乙姫たちの国に行くには潮の流れの交わる海域を通るため、ただでさえ難しい航海になるのに加えて、この季節は天候が変わりやすく出航のタイミングを見誤りやすいためです。
せめて天候の落ち着く季節になってから出航したいと浦島は考えましたが、追っ手が追いつくまでにあまり時間はありません。ここで追っ手に追いつかれてまた旅を最初からやり直すよりは、多少の不安があってもできる限り早く出航する方が賢明な選択のように思われました。
「乙姫様、あや。明日の天候を見て問題なければすぐにでも出航しましょう。国に着くまでに海上で四日ほど過ごすことになると思いますので、しっかりと準備をしておいてください。」
「はい、追っ手のことを考えるとここで長居はできませんものね。」
翌日、多少の雲はありましたが風は落ち着いていたため、浦島たちは出航しました。一日目と二日目は比較的安定した天候が続き、船も予定通りに進みました。しかし、二日目の晩に少し風が強くなってきたかと思うと、三日目は朝から激しい雷雨が降り注ぎ、風も時間が経つごとに激しくなってきました。
「あや!、私は帆の調整で手一杯なので、船内に入った水を掻き出してください!乙姫様は揺れると危ないので柱に捕まってください!」
一際高い波が浦島たちの乗った船を襲います。
——このままでは船が沈む・・!
浦島は出航の指示を出した自分の決断を悔いました。その瞬間気持ちのゆるみからか、船の柱を掴んでいた手が滑り、浦島は体勢を崩してしまいます。しまった!と思い衝撃に備えましたが、船板に体を打ち付けた感触はありません。不思議に思い、咄嗟につぶってしまった目を開けると乙姫が浦島を抱えていました。
「私とどれだけ一緒に旅をしてきたんですか?私は柱に捕まるだけの女ではありませんよ。」
乙姫の言葉で弱っていた浦島の心に火がつきました。
——そうだ、今まで何度と危機を乗り越えてきたではないか。天候は最悪だが船は何とか持ちこたえている。諦めるにはまだ早い!
そのとき、あやの叫び声が浦島の耳をつんざきました。同時に大きな衝撃を受けて船が大きく揺れました。あやのいた方を見るとすでにあやの姿はありません。海の方に目を向けるとあやの着物の切れ端が赤く染まった海面に浮いています。しかも、その周りにはどこから流れてきたのか別の船の一部と思われる木材が散乱していました。
——先ほどの衝撃は別の船と衝突したせいかもしれない、最悪の場合この船に亀裂が入ったかもしれない・・・!
せめて乙姫だけは守りぬかねばと浦島は乙姫を抱き寄せます。しかし、先ほどのまで隣にいた乙姫はそこにおらず、衝撃で船の端まで吹き飛ばされていました。意識はあるか分からず、頭から血を流しているのが見えます。浦島が乙姫の元に駆け寄ろうとした瞬間、船が再び大きく揺れました。浦島は海へ放り出されてしまいます。こうなれば浦島のとるべき行動は一つしかありません。
——あとほんの少しなのに・・・!
今までにないほど大きな後悔と疲労の中、浦島は綾水丸を抜き自分の腹に突き刺しました。
<二十二>
——くそっ・・・!
浦島は苛立ちとふがいなさから浜辺に落ちていた石を蹴り飛ばします。
「浦島様・・・!」
乙姫が家から飛び出し浦島の元へかけてきます。何度も見た光景です。また最初から旅を始めなければいけません。
——仕方ない、それでも乙姫のためなら何度だって繰り返して見せるさ。
「乙姫様、出航に際しては判断を誤りました。二日目までは天候も問題ありませんでしたので、港に数日早く着くように旅程を考えましょう。」
「出、航・・・?」
浦島の提案に対して乙姫は動揺し、そして顔から血の気が引いていくのが浦島にも見て取れました。浦島は思わず乙姫の肩を揺さぶり尋ねます。
「もしや、、、覚えておられないのですか!?私たちは無事に港まで着き乙姫様の国を目指して海を渡りました。しかしながら、航海の途中で天候が崩れ海に放り出されてしまったんです。」
「・・・」
押し黙る乙姫の様子から、本当に覚えていないのだと浦島は確信しました。今までこんなことは一度もありませんでした。乙姫は浦島と出会って以降のどんな些細なことでも覚えており、たびたびその記憶力に浦島は驚かされました。その乙姫があれだけ大きな出来事を覚えていない。
——おかしい、一体どうしてこんなことになったのだ。前回の旅路で何か変わったことは・・・
心配する乙姫を尻目に浦島はできる限り詳細に前回の旅路を思い返します。
——そういえば、最後に乙姫は頭から血を流して意識を失っているように見えた。時の守人の能力とは無関係に頭をぶつけた衝撃で記憶が一部飛んでるのか・・・?
時の守人の記憶継承が完全なものではない、という理由も考えられましたが浦島は無意識のうちにその考えを退けました。もし時間の防人の能力に問題があるならこの先も乙姫は記憶を失うかもしれない、この恐怖に耐えられるだけの余裕がすでに浦島の心にはありませんでした。
気がつくとあやも心配そうに浦島を見つめています。二人の表情からどれだけの信頼を寄せられているのか感じ取ることができました。しかし、その信頼を持ってしても浦島の心に巣くう孤独を追いやることはできません。
浦島が孤独を感じたことをこれまでにも何回かはありました。道を尋ねた村人、宿屋の女将、そしてともに旅をしているあやでさえも時間を巻き戻すと浦島のことを覚えていません。そんなとき、浦島はまるで自分が世界から取り残されてしまったような孤独を感じました。それでも乙姫が一緒にいてくれたことで、乙姫だけは浦島を覚えていてくれたことで、浦島の心が孤独に蝕まれることはありませんでした。
けれども今は、前回の旅路を覚えているのはこの世界で浦島だけです。あれは夢だったのではないか、自分がおかしいのではないか、と気が狂いそうになります。同時に乙姫の存在が自分にとってどれだけ大きな存在だったかを浦島は思い知りました。その乙姫は最初に時間を巻き戻したときのあの悲痛な表情を浮かべています。
「乙姫様、あや。取り乱して申し訳ありません。前回の旅路であったことをお話ししますので家に戻りましょう。」
やったのことで浦島は言葉を絞り出します。
——そうだ、玉手箱の呪縛から解放されるには前に進むしかない。それに、乙姫のあんな顔はもう見たくない。
海を背にして歩き出した浦島の手を乙姫はぎゅっと握りました。その手の温もりが浦島の心に届くことを願って。