幼少期編~ヒーロー6
校長室に連れて行かれて、なんだか凄く高そうな椅子に座らされた。ふわふわで身体が沈みそうになる。
正面には高見先生と、その隣に校長先生が座ってる。久保君はいま保健室で寝てて、救急車が着き次第病院に運ばれるらしい。どうでもいいけど。
高見先生が怖い顔で何があったか訊いてくる。
何があったって、見たまんまなのに。僕が久保君を殴った。それ以外に何があるって思ってるのかな?
僕が何も答えない事に苛立った高見先生が怒鳴り声を上げる。高見先生がこんなに怒ってるところなんて、初めて見た。
校長先生が落ち着くよう高見先生の肩に手を置く。
それで少しは高見先生も冷静になったみたいだった。
今度は校長先生が質問してきた。
内容は高見先生と一緒だった。
先生方って意外と頭良くないのかな。同じ事ばっかり訊くなんて。
そんな事を考えてたら、校長室のドアがノックもなしに勢いよく開かれた。
いきなりの入ってきた女の人は早足に近付いてきて、僕の胸ぐらを掴んで強引に立たせた。
「この子が大輝に酷い事したのね! うちの子になんの恨みがあったって言うのよ!」
「お、お母さん、落ち着いて」
高見先生と校長先生が立ち上がって、僕と取り乱した女の人を引き離す。この人は久保君のお母さんみたいだ。なんとなく似た感じだと思ったんだよね。僕の胸ぐらを掴むところとか。
久保君のお母さんは、さっきまで高見先生が座っていた僕の正面に座って、高見先生は僕の隣に座った。
ヒステリックに何かを訴えてる久保君のお母さんを、僕は他人事みたいに眺めてた。それが癇に障ったみたいで、久保君のお母さんは口汚く僕を罵る。
隣に座る高見先生が謝るよう言ってきたけど、僕はなんにも喋らないで、ただ久保君のお母さんを見続けた。それが逆鱗に触れたみたいだった。
久保君のお母さんは身を乗り出して、僕の頬を思い切り引っ叩いた。
パシンって、乾いた音が響いた。
誰かが――というよりお母さんが殴られる姿はいつも見てたけど、実際に叩かれるのは、思えばこれが初めてだった。ヒリヒリする。
叩かれても何も言わず視線を戻すだけの僕に、久保君のお母さんは怯んだみたいだったけど、すぐにまた腕を振り上げて、それを振り下ろす前に校長先生に止められた。
そんな事をしてる内に救急車が到着して、久保君のお母さんが校長先生と一緒に部屋を出ていく。
また僕の正面に座った高見先生から、なぜ謝らなかったのかを訊かれた。
それにも何も答えないでいたら、今度はきちんとしたノックが扉から聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは、お母さんだった。
考えれば当然な事なのに、僕はお母さんが来る事を全く予想してなかった。だからお母さんの姿を見た途端、それまで何にも反応しなくなってた冷めた心が動揺して、どうしていいか分からずに途方に暮れる。
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
隣に来たお母さんが、深々と高見先生に頭を下げる。
それを一緒に謝るでもなく僕は見てた。
その後も、先生に何かを言われる度、ひたすらに謝り続けるお母さんを僕は横でただ見てた。
二十分ほどで僕とお母さんは解放され、二人で帰り道を歩く。
昨日みたいに、お母さんは話し掛けてくれない。
「あ、あの……」
隣のお母さんを見上げながら、口を開く。
「ごめんなさい。お母さん」
ここにきて初めて謝った。だけどお母さんは、なんの返事も返してくれなかった。ただ目だけ動かして僕を見て、すぐまた前を向く。その目はまるで、いつもお父さんを見てるような目だった。
「お母さん……?」
「……」
それからお母さんは、何を言ってもこっちを見てさえくれなかった。
家に着いてすぐ、お母さんは久保君の運ばれた病院に行くと言って出て行った。
一人になって、自分の部屋に戻る。
「どうしよう……」
お母さんに嫌われた。
お母さんが、もう話してくれない。
ドアに凭れ掛かって、へたり込む。
いままで、どんな事をしてもお母さんが僕を無視する事なんてなかった。お母さんのお気に入りのお皿を割っても、お父さんの悪口を言っても、アイポットを壊しちゃっても、お母さんは許すか怒るかしても、僕を無視したりしなかった。
なのに今回は、目も合わせてくれない。
「どうしよう。どうしようどうしようどうしよう」
頭を抱える。
身体が意識せず震え出した。
怖かった。お父さんよりも、怖かった。
お母さんにこのまま嫌われるのが、何より怖かった。
「そうだ」
立ち上がって机の引き出しを開く。
中から手のひらに収まるサイズの財布を取り出して、中身を確認する。
「五百三十二円」
それで買えるのかは分からなかったけど、財布をポケットに入れて家から出た。きちんと鍵を掛ける事も忘れない。
普段あんまり外に出たり買い物したりしないから、目的のものがどこにあるのか分からなくて、適当に近くの店を回る事にした。
さすがにスーパーにないのは知ってたから、まずは文房具屋さんに入ってみた。鉛筆や消しゴムやノートの他にもいっぱい売ってるから、もしかしたらどこかにあるかもしれない。
よく分からないものもいっぱい売ってたけど、探しものは見つからなかった。
落ち込みながら外に出て、他の店を探す。
それから色んなところに入ってみたけど、目当てのものはどこにも売ってなかった。
段々お腹が空いてきて、足も疲れてきた。諦めようかと思ったけど、お母さんに嫌われたままになるって考えたら、絶対にそんな事できなかった。
それから初めて一人でデパートに入った。
人がいっぱいいて、中も凄く広くてなんだか怖くなったけど、それでも勇気を振り絞ってありそうな店に入ってく。そしたら、四つの目の店でようやく探してたものを見つけた。
「やった」
取ろうとしたところで値段が目に入って、手を止める。
「千二百円……」
財布をもう一度確認してみる。やっぱり、足りない。
渋々手を下ろして、他のものも確認してみる。だけど僕のお小遣いで買えるものは一つもなかった。
ため息をついて店を出る。一応他の店も回ってみたけど、見つからなかった。
「やっぱり、お札がないんじゃ何も買えないのかな」
当てもなく歩きながら呟く。
このままじゃ、お母さんに許してもらえない。そう思うだけで、胸が凄く重たくなった。笑顔見た時よりも重くなる。いつもあまり外に出ないのは、人の笑顔を見ちゃうから、って理由もあった。人がいっぱいいて笑い声がずっとしてるデパートは嫌いだし、それでなくてもお店は店員の人がいつも笑顔だから、それだけで嫌いだ。今日はそれでも頑張ったけど、結局見つからなかった。
適当に歩いてたら、小さくてぼろっちい、いまにも潰れそうなお店があった。
『草田骨董店』
「えっと、くさだ……なんて読むんだろう?」
分からなかったけど、とりあえず中に入って見る。
中はまだ夜でもないのに暗くて、それなのに電気もついてなかった。
「いらっしゃい」
奥の方にいるおばあさんがお決まりの挨拶をしてくる。
優しそうに笑ってたけど、僕はその笑顔にも嫌な気持ちになった。
中の棚は高くて、とても上の方までは全部見えない。
隅の方に脚立があったから、下の方を全部見終わったら使おうって決める。
でもそんな必要なかった。脚立を使うまでもなく、目当てのものが置かれてるのを、僕は目線よりちょっとだけ高い位置で見つけた。デパートの件もあったので、すぐに値段をおばあさんに訊く。
「ねぇ、これいくら?」
「そこら辺のは全部三百円だよ」
「ホント!?」
「あぁ、本当だとも。この歳になったらもう嘘なんてつかないよ」
いくつか並んでるその中から、実際に使ってみて一番気に入ったのを選ぶ。
それをカウンターに持っていって、おばあさんに渡した。
「こんなの買うなんて今時の子にしちゃ珍しいね。ゲームや漫画なんかは買わないのかい?」
「お母さんにプレゼントするんだ」
「そりゃいいね。きっと喜んでくれるはずさ。センスいいよ、坊や」
カウンター越しに頭を撫でられた。
別に嫌じゃなかったので、素直にじっとしてる。
「ありがとう」
短くお礼を言って、お店から出る。
これでお母さんに許してもらえる。
根拠もなくそう思ったら笑顔になりそうになって、慌てて首を振って表情を戻した。
包んでもらった袋を胸に抱えて、駆け足で家に帰る。
遠かったから着く頃には息が切れてたけど、そんなの気にせずドアを開けて家の中に入る。
だけど扉を開けた途端聞こえてきた笑い声に、身体が固まった。
息を殺して、静かにドアを閉めて、音を立てないように廊下を歩く。
少しだけ空いていた戸から中を覗いてみたら、予想通りお父さんがお母さんを殴ってた。
太陽が赤くなってるけど、まだ四時か五時くらいのはずなのに、お父さんはもう帰ってきてたみたいだ。よりにもよって、こんな日に。
いつも通りの、見慣れた光景。
それを止められないで、僕は今日も、見てるだけだった。
お父さんが満足して、自分の部屋に戻ってく。
それを見届けてから僕はリビングに入った。
手を伸ばして、お母さんに触れようとする。
けどお母さんは、伸ばした僕の手を空中で叩き落とした。
「えっ……?」
驚いて、お母さんを見る。
お母さんは怯えた顔で僕を見て立ち上がると、早足に自分の部屋へ戻っていった。
いつものように抱きしめてくれず、何も言ってくれなかった。
信じられず、お母さんの部屋のドアをじっと見つめる。
だけどいくら待っても、お母さんは戻ってこなかった。
叩かれた手が、昼にビンタされた時よりもヒリヒリしてる気がした。なのにそこだけが、妙に冷たい。
身体を引きずるようにして、部屋に戻った。
今日は、タイミングが悪かった。明日になってプレゼントを渡せば、きっとお母さんも許してくれる。
そう自分に言い聞かせて、ベッドの中で蹲った。
涙が溢れる。止まらなかった。シーツが涙を吸って、気持ち悪くなる。
大丈夫、きっと許してくれる。プレゼントを渡したら、またきっと「ありがとう」って言いながら、僕の嫌いじゃない笑顔を見せてくれる。大丈夫。大丈夫。
いつもお母さんに言われている言葉を繰り返してる内に、僕はいつの間にか眠っていた。
朝起きて、今日こそプレゼントを渡そうとリビングに下りた。
すると、いつもは朝ご飯を作ってるはずのお母さんが、今日はまだ起きてないみたいだった。
寝坊かと思って、お母さんの部屋を覗いてみる。
だけど布団は畳まれてて、お母さんもいなかった。
首をかしげながらリビングに戻ったら、テーブルに紙切れが置いてあるのを見つけた。
小さい四角形の、ノートでも千切ったような紙切れに、一言だけ何か書かれてる。
お母さんの字だった。
『さよなら』
それだけ、書いてあった。
なんだか胸の奥が、軽くなった気がした。