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8月事  作者: 高木 翔矢
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高校生編~変わった関係と変わらない本質6


 自分の考えが正しかったと、翌日にツキは確信した。

 登校し、コトハと別れて教室に向かう途中、ツキは男子生徒から強引に校舎裏に呼び出された。そこでは他にも男子生徒が二人待っていた。その内一人は、昨日コトハに告白していた生徒だ。


 自分がどういう状況なのかを察し、ツキは暗澹たる気分になるのを避けられなかった。

 いずれこうなるだろうと予想していたとはいえ、実際に直面すると、やはり気が滅入る。


「なんの用だ?」


 分かり切っていたが、ツキはあえて口に出して質問した。こうした方が相手も話を進めやすいだろうと、事態を円滑に進行させるための行為である。


「話の前に、俺は三年だ。口の利き方に気をつけろ」


 真ん中の男が威圧するようにツキを睨む。

 歳の差を誇示する男に従い、ツキは丁寧に言い直した。


「なんの用でしょうか? 先輩」


 上下関係を示す事で自尊心が満たされたのか、男は口の端を吊り上げながら要件を口にした。


「お前、立原から離れろ」


 昨日知ったばかりのコトハの苗字と共に告げられた内容は、半ばどころか完全にツキの予想通りのものだった。

 そしてこの後の展開も、おそらく予測に違わないものだろう。


「それは無理です。俺のほうからあいつに近付いてるわけじゃありませんから。むしろ俺は、再三近付かないよう言っています」

「嘘つけよ。そんな事言いながら、騙すか脅すかして立原を従わせてんだろ」

「誤解です」

「嘘だ!」

「そうだ! じゃなきゃ立原がお前みたいなのとずっと一緒にいるわけないだろ!」


 取り巻きの二人から野次を受ける。確かに傍から見ればツキが嘘をついてるようにしか見えないだろうが、偏見とは恐ろしいものだ。外見に引っ張られて、この男子生徒達はコトハの人格を勝手に作り上げている。綺麗な容姿を持つものが綺麗な性格をしているとは限らない。同時に、綺麗な過去を持っているとも。そんな当たり前の事に、目の前の男達は気付いていない。


「と、こいつらも言ってるわけだが?」

「俺の言い分を信じてもらえないのなら、俺が何を言おうと無駄なんじゃないですか?」

「そりゃそうだ」


 先輩の男は余裕を見せたいのか、常に笑みを絶やさない。意図せずそれがツキに対する何よりの嫌がらせになっていた。


「先輩はあいつに好意を抱いてるんですか?」


 ツキの質問に先輩の眉が微かに上がる。


「俺もこいつらも、もう立原に告白してる」

「なるほど。そして振られましたか」


 ツキの返しに、三人の表情が露骨に歪む。笑顔を消すためとはいえ、余計な買い物をしたかもしれない。


「反省の色が見えねぇな」


 声に怒りが滲んでいたが、それを押し込めているところを見ると、見た目ほど短気なわけではないようだ。これも人を外見で判断する行為になるのだろうから、自分も人の事は言えない。


「俺をここに誘い出した時点で、やる事なんて決めてたんでしょう?」


 ツキは問答を諦め、おとなしく流れに身を任せようと決める。


「だったら、無駄な話はやめましょう。俺は抵抗しません」


 宣言通り、ツキは逃げようとも構えようともしなかった。


「いい度胸だ。つまりお前は、自分のしてる事を認めたって事だよな」


 都合のいい解釈を聞き流し、一つだけ頼み事を口にする。


「授業に間に合うようお願いします」


 直後、腹部に懐かしい鈍痛が走った。

 倒れる事も膝を突く事もなかったが、わずかに口から呼気が漏れる。


「お前らも、やっていいぞ」


 先輩の男の指示を受け、残りの二人もツキを自由に殴りつけてくる。

 多数からの暴力というのは初めてだったが、昔と比べれば痛みは小さいように思えた。あの頃は子供の身体で成人男性の拳を受けていたのだから、それも当然といえば当然なのかもしれない。

 しかし威力は低い分、手数は多かった。三人掛かりの暴力は身構える隙すらなく、絶え間ない。それは初めての感覚で、ツキの頭を埋め尽くしていく。しかしそんな常人からすれば耐え難い状況を、ツキは大したものではない、日常の範疇だと認識していた。


 暴力も痛みも、慣れ親しんだもの。いくらでも受け入れられる。

 ツキはどれだけ殴られようが蹴られようが、抵抗しなかった。する必要もないと考えていた。

 ただ拳を、足を、身体で受け止め、立つ。

 倒れなかったのは、せめてもの意地だとか立派なものではなく、制服を汚せば教室でさらに悪目立ちしてしまうだろうという計算が働いたからだ。

 男子生徒は二人が笑っており、昨日コトハに告白した一人だけが、怒りとも悲しみともつかない顔をしていた。


 ――そんな複雑な心境なら、わざわざ自分から動かなきゃいいのにな。


 他人事のようにそう考え、関係ないかと首を振る。

 結局、校舎裏でのリンチは授業開始まで続いた。

 ツキの頼み事を聞くほど、男子生徒達の度量は大きくなかった。






 放課後になり、ツキはいつもと変わらずバイトをこなした。

 ペンキ塗りをした後の道路工事。ツキがしている中で一番稼げるバイトだ。

 道路工事は街から外れた人気の少ない通りで行われる。

 出勤は事務所でも現場でも構わないと言われていたので、そこら辺の公衆トイレで着替え、ツキはそのまま現地に赴いた。後ろには当たり前のようにコトハがついてきている。

 コトハはバイト先まで共に来るが、ツキがバイトをしている間は何もせずじっとしており、ただツキの様子を遠くから観察している。それを彼女だと勘違いした中年の男がツキをからかってくる事もあり、それもコトハが一緒にいて被るデメリットの一つだった。


 街灯とトラックで運ばれてきた電灯の明かりを頼りに、仕事が開始される。

 土を積み、運び、固める。ひたすらにそれだけを繰り返す作業。常時重いものを持ったり運んだりする力仕事なので、体力がよりいっそう必要とされる。


 それなのに今日に限って、ツキの身体は体感でいつもの倍近く重たくなっていた。

 理由は分かっている。日に日にたまっていく疲れに相まって、今朝コトハに好意を寄せる男共に痛めつけられたせいだ。特に後者は、学校で授業を受けている時でさえ、なんという事のない動作で痛みが走るほど殴られたのだ。動作が男にしか任せられないような力仕事に代われば、その痛みは比べようがない。痛みに対する耐性というか、慣れはあるものの、やはりどうしても動きはぎこちなくなってしまい、おかげでいつもよりも作業効率が目に見えて低下してしまう。そのせいで現場の頭領からも、度々叱責を受けていた。


「塩見! 早くそれ運んでこっちに来い!」

「はい!」


 普段まるで出さない大声を上げて身体を動かすツキ。しかし、急に無理な動作をしたため身体に激痛が走り、運んでいた台車のバランスが崩れて地面に土をぶちまけてしまう。


「何やってんだ馬鹿野郎!」

「すいません」


 額の汗を拭い、土を入れ直す。その最中、視界の隅にコトハが映ったが、彼女はただ無表情にこちらを眺めていた。

 慌てたり激励したりする事もなく、黙ってこっちを見ている。

 何かしらのリアクションを求めていたわけでもなく、ツキは目線を外して作業を再開した。


 殴られた事とは別に、身体が重たくなっているのを感じた。

 妙に息が荒れるし、視界も若干ぼやけている。足元が覚束ない感覚は殴られた直後にも似ていたが、脳が揺さぶられている感じではなかった。

 仕事には関係ない事だと割り切り、土を入れきったツキはがむしゃらに立ち上がった。


 そしてまた作業に戻る。

 単調な動作の繰り返しなので、頭が少し働かなかろうが問題はない。


 ツキがいつも感じている、何かを失うんじゃないかという恐怖心は、仕事中にこそより顕著に現れていた。ここで放棄すれば何かがなくなる、動きを止めたら消えていく、そんな実体のない恐怖が、ツキの身体を作業に駆り立てた。

 ツキは朧気になっている頭で、なぜだろうと疑問を抱く。

 怖いものなんてないのに、失うものも何一つないのに、何を怖がっているんだろう、と。


 いつも頭の片隅にあった問題。自家撞着。その矛盾をなぜか今回は捨てられなかった。

 命すら、大切なわけじゃない。いまこの場で死んでも、何一つ後悔などない。未練など残さない。

 大事なものなど一つも持ってはいないはずなのに、何をこんなに恐れているのか? 何をなくすというのか?


 大切だったもの、なくしたくなかったもの、それは確かにあった。

 母親。

 コトハ。

 どちらも何より大切で、掛け替えがないと思い込んでいた。だけどそれは、あまりに唐突に消え去った。


 だから俺は、一人で生きてきた。大事なものなど作らず、一人きりで。

 そのはずなのに、今更俺は何をもがいているのか。

 こんな思考が馬鹿げているのは分かってる。滑稽もいいところだ。俺は俺を何も分かっちゃいない。


 もしそんな俺の矛盾に答えを出せる奴がいるなら――


 横目で見る。表情を湛えない綺麗な顔立ち。冷たさすら感じられる無表情で、ツキを捉えて放さない黒い双眸。

 それに吸い込まれるような錯覚にツキは陥った。

 ツキの事をツキ以上に知っていると断言する彼女。

 ツキと同じく、母親に捨てられた少女。

 なぜだろう、成長した彼女の顔が一瞬、幼かった頃によく見た泣き顔と重なった気がした。

 相手に反論すら許さない強さを持っているはずなのに、ツキには彼女が触れれば壊れるような、そんな脆さを裏で抱えているような、曖昧な確信があった。

 そう感じると同時に、ごく自然に思う。


 守りたい、と。


 危うげで、儚げで、だけど何も心配ないみたいにも見えて。そんな彼女を、なんでか守りたいと。

 自分の中で理由も分からないのに、思いだけが大きく膨らむ。


 足元がおぼつかなくなり、視界が回る。

 朦朧としながらもはちきれんばかりにツキは願い、しかし目の前は真っ暗になった。

 重力がなくなったかのような感覚の中、ツキの口元がわずかに動き、かすかな声が漏れた。


 その呟きを拾えたのは、一人しかいなかった。




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