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8月事  作者: 高木 翔矢
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幼少期編~ヒーロー


 今日の最初の授業は、国語だった。クラスメイトの皆は勉強が嫌いみたいだけど、僕は結構好きだ。国語でも算数でも社会でも理科でも、知らない事が分かるのは面白い。

 担任の高見(たかみ)先生が黒板に板書する俳句をノートに書き写す。五・七・五のリズムはなんだか耳に残る。頭の中で自然と繰り返される俳句に気付いて、そんな事を考えた。アメリカとか外国でもこういう俳句はあるんだろうか? でも外国って言葉が違うから、五・七・五のリズムは作れないか。一をワンとか言うし。犬の鳴き声みたい。

 先生の説明する声に交じって、後ろから小さな話し声が聞こえてきた。何か面白い事でも言ったのか、少し大きくなった笑い声がする。また胸が重くなった。


 授業が中盤に差し掛かり、高見先生が各自で俳句を作るよう指示を出した。お題は自由。最近の楽しかった事や面白かった事を五・七・五にまとめればいいらしい。

 ちょっと考えてみたけど、楽しかった事も面白かった事も思い浮かばなかった。勉強は楽しいけど、それをどう俳句にしたらいいか分からない。僕はこういう作文だったり俳句だったりの、何かを考えて作らなきゃいけない授業はあんまり好きじゃなかった。それよりも、ちゃんとした答えがある計算や歴史の方が分かりやすくて面白い。


「はい。みんなできたかな? それじゃあお掃除の班になって、作った俳句をみんなで交換してみよう」


 先生が両手を叩いて机の合体を促す。クラスのみんなが一斉に立ち上がって机を動かすので、僕も渋々それにならった。

 六人一組の班になった事で、雑談が自由になってみんなの笑顔が行き交う。それを見たくないから僕はひたすら俯いて、自分の手と机の端をじっと見ていた。


「ツキ君はどんなの書いたの?」


 正面に座ってたチホちゃんが笑いながら話し掛けてくる。僕は笑い返せばいいと分かっているのに、それがどうしてもできなくて、少しだけ顔を上げ視線を合わせると、すぐに逸らした。


「ぼく、まだできてないから……」


 それだけ告げると、チホちゃんは「まだなの?」と小首をかしげて、すぐに他の人との会話に移った。

 こういう時に、さっきの「外国にも俳句ってあるのかな」って話題を気軽に振れたらいいのに。でもそれで楽しく話すのはやだな。だって僕が笑ってたら、お母さんがまた泣いちゃうかもしれないから。





 授業が四つ終わって、給食の時間になった。みんな仲のいい人と机をくっつけてるけど、僕にはそういう相手がいないから、一人でランチョンマットを引いて給食をもらってくる。いただきますの号令が掛かるまで席で待っていると、女の子が近付いてきた。後ろの女子のグループに入るんだろうなって思ってたら、その女の子は僕の机の前で立ち止まる。


 顔を上げて女の子と目を合わせる。身体の前で指を絡ませて、僕を見下ろす女の子――奥山(おくやま)言葉(ことは)ちゃんは、もじもじと何かを言いたそうに口を開いて、また閉じた。


「どうしたの?」


 いつまで経っても喋り出さないコトハちゃんに、こっちから訊いてみる。

 コトハちゃんは見るからに慌てて、意味もなく両手を右へ左へ動かした。


「あ、あの……」


 最終的には手を後ろに回し、目線を斜め下に彷徨わせる。


「一緒に食べない?」


 予想外すぎる提案に、何度もまばたきした。

 コトハちゃんは相変わらず、僕と視線を合わせず床を見ている。


「えっと、僕と?」


 分かり切ってるのに、確認しちゃう。コトハちゃんは小さくコクッと頷いた。

 僕はどう答えたらいいのか分からなくて、コトハちゃんと同じく、俯いて机とにらめっこする。


「ご、ごめん。僕、一人で食べたいんだ……」


 だって一緒にご飯を食べたら、みんな笑うから。

 コトハちゃんは絶えず動かしていた身体を止め、一瞬固まった。


「そ、そっか。ごめんね。それじゃ」


 早口に謝って、自分の席に戻っていくコトハちゃん。その背中がちょっと可哀想で、ため息をついた。

 数分後、食事の号令が掛かる。

 僕は一人、笑い声に包まれる教室でご飯を食べた。





 放課後。今日は週にたった一度の授業が六時間ある日だったから、帰る頃には太陽が赤くなり始めていた。赤い光に照らされる風景は、昼間の景色よりも綺麗に見える。道路も、木も、校舎も、家も、人も。少し眩しいけど、それが気にならないくらい綺麗で心が躍る。

 でも僕は、この時間があんまり好きじゃない。時間に限らず、学校から家への帰り道はいつだって憂鬱だ。


 人の声が聞こえて振り向いてみると、公園でクラスメイトがサッカーをしていた。朝話していた男子たちだ。結局新たなメンバーは見つからなかったみたいで、九人で遊んでる。なんとなく、僕は一緒にサッカーをする自分を想像する。

 ……きっと楽しいんだろうな。ドロドロになりながらみんなと騒いで、ゴールを決めて、ハイタッチして。

 だけどそんなのは無理だ。女の子みたいって言われても、僕は服を汚したりできないから。


 かなり前になるけど、僕もみんなと一緒にサッカーをした事が一回だけある。転んだり泥だらけのボールを蹴ったりしたせいで、白かった服を真っ黒くして家に帰った。お母さんは返ってきた僕を見て、凄く驚いた。僕の身体を隅々まで見て、「誰かにやられたの」とか「ツキから手を出してないわよね」とか早口に聞かれた。クラスメイトの子たちと遊んでただけだって言ったら、お母さんはすごく安心して、少しだけ泣いた。僕はその時、服を汚したらお母さんが心配して泣くんだって知って、もう絶対服を汚したりしないって決めた。だから体育の授業も、球技とか外で汚れそうなやつは隅っこで見学してる。


 楽しそうにサッカーをするクラスメイトを横目に、公園を通りすぎる。

 学校から家まで、大体十分くらい。さっきも言ったけど、僕はこの十分が好きじゃない。家から学校に行くのはいいんだけど、学校から家まで帰る時は足取りが重くなる。お母さんがいるのは嬉しい。僕はお母さんが大好きだから、できれば学校にも行かないでずっとお母さんと一緒にいたい。でも……。

 ため息をついて、帰宅路を歩き続ける。背負ってるランドセルの肩掛けを強く握りながら、俯いて地面をじっと見ながら足を動かした。


 三年とちょっと通い続けた通学路が終わり、家に着く。僕の家は一軒家で二階建てなんだけど、それほど大きくはない。他の家となんにも変わらない、普通の家。狭いけど庭はあって、僕は幼稚園の頃よくそこで走り回って遊んでいた。

 そんな事を思い出しながら鍵の掛かっていない扉を開けて、中に入る。


「ただいま……」


 小さく、誰にも聞こえないように呟いて、靴を脱ぐ。その時、リビングの方で大きな音がした。聞き慣れた笑い声も、ちょっとだけど聞こえてくる。目の前にある階段を登れば僕の部屋なのに、いつも僕は廊下を歩いてリビングの方へ向かってしまう。リビングのドアを音が立たないように少しだけ開いて、中を覗いた。


 幼い頃から何度も見た光景が、広がっていた。


 笑うお父さん。泣くお母さん。加減を知らない暴力。それだけだった。それ以外のものは、何もない。何一つ、変わらない。


 いつの間にか、震えていた。大好きなお母さんが泣いてるのに、身体が動かなかった。いつもそうだ。大事な時に、僕の身体は一歩も動いてくれない。お母さんが泣くところを見てるだけで、泣かせないように頑張る事もできない。

 お母さんに馬乗りになって、お父さんは両手を何度も振り下ろした。その度にお母さんが痛いって訴えてるのに、お父さんは笑い声をもっと大きくしてお母さんを殴り続ける。


 お父さんが満足して立ち上がったのは、それから何分後だったのかも分からない。リビングを出ようとするお父さんに気付いて、慌ててドアから離れて隅っこに隠れた。お父さんは僕になんか見向きもしないで、真っ直ぐ家から出て行く。

 お父さんがいなくなった事を確認して、僕はリビングに入った。蹲って泣いていたお母さんが、僕に気付く。

 お母さんはすすり泣くのをやめると、おでこに血を滲ませながら笑って、僕を抱きしめた。


「大丈夫。大丈夫だから。……お母さんは、大丈夫」


 抱きしめるというよりは抱きつかれて、お母さんの体重が肩にのしかかる。それは子供の僕には重くて、でも背中に回された腕は子供の僕でも分かるくらい、か細く弱かった。

 こんな時にも僕の身体は動いてくれないから、お母さんを抱きしめ返す事もできない。


 ――なんで、僕はこんなに弱いんだろう?


 弱いお母さんに何もしてあげられないくらい、僕は弱すぎる。


 ――お母さんが泣かないように、守ってもあげられない。


 大好きなお母さんが鼻をすすって語り掛けてくる言葉を聞きながら、僕は何もできない自分に悪口を言う。


 ――せめてお母さんを泣かす笑顔をぶん殴れるくらい、僕は強くなりたい。


 拳も握れないほど弱い自分を自覚しながら、僕もちょっとだけ泣いた。




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