高校生編~変わった関係と変わらない本質4
翌日登校したツキの目に映ったのは、昨日と同じく校門で誰かを待つ女子生徒の姿だった。その女子生徒はコトハであり、待っているのは昨日と変わらず塩見月――つまり自分だろう事は容易に予想できる。
「なんのつもりだ」
近付いて、ツキの方から話し掛ける。どうせ無言で通り過ぎてもついてくるだろうから、無視する意味はない。
「おはよう。兄さん」
何事もなかったかのように、コトハが挨拶をしてくる。
ツキは眉を顰めた。
「そうやって呼ぶのはやめろと言ったはずだろ」
「だからお兄ちゃんはやめたわ」
屁理屈をのたまい、コトハはツキの隣に並ぶ。
コトハの容姿は目立つので、その待ち人であったツキにも自然と視線が集まる。
それを煩わしく思いながら、ツキは同じ質問を繰り返す。
「なんつもりだ」
「何が?」
「必要ないと言っただろ」
「必要よ。私だけじゃなく兄さんにも。私が」
断定するコトハに、ツキは黙った。納得したのではなく、これ以上何を言っても無駄だという事を悟って。
「兄さん、一人暮らしをしてるってね」
当然のようにツキの横を歩きながら、コトハが話題を振ってくる。
「あぁ」
「大変?」
「別に」
「どこに住んでるの?」
「それは院長に訊かなかったのか?」
「教えてくれなかったのよ」
雑談ともいえないような会話。ツキにはコトハが何を考えているのか、全く分からなかった。
「ネコはあれからどうなったの?」
「ネコ? ……あぁ、あの猫か。知らないな。どこぞで野垂れ死んだんじゃないのか」
「そう……」
表情は変わらなかったかが、どこか寂しそうに頷くコトハ。
階段を二階分上がったところで、あっさりとコトハは別れの挨拶を口にした。
「それじゃあ、兄さん」
二年の教室は三階、一年の教室は四階だ。
コトハの挨拶に答える事なく、ツキは教室に入った。
途端、ツキに気付いた吉川が駆け寄ってくる。
「おはよう塩見君」
「あぁ」
「昨日の新入生代表の子って、塩見君の妹さんなの?」
やっぱりその話か、とツキは内心げんなりする。
「違う」
「えっ? でもお兄ちゃんって……」
「昔馴染みってだけだ。子供の頃の呼び名がそのまま出たんだろ」
適当な言い訳を見繕い、そのまま口に出す。嘘は言っていないのに、本当の気もしなかった。
「そっか。そうなんだ……」
神妙そうな顔で頷く吉川。それに構う事なくツキは自分の席に腰を下ろし、鞄を机に掛けた。
吉川も定位置になりつつある前の席に許可もなく腰掛ける。
「だけどやっぱり、凄く綺麗な子だったね。塩見君も、ああいう子がタイプ?」
何気ない感じを装っているようだが、はたから見てる分には表情や声のぎこちなさがはっきりと分かる。
「別に。それにあいつとは、もう関わるつもりもない」
若干質問の趣旨に外れた答えだったが、その意図には的確な返答だった。
「そっか。そっかそっか。まぁあれだけ美人だとちょっと引いちゃうよね。分かるよ、その気持ち」
的外れな共感を示す吉川に訂正は入れず、放置する。
余計に口を出して、話をややこしくする必要はない。
「あの子って、昔もあんなに美人だったの?」
「いや。もう面影を探す方が難しいくらいだ」
「へぇ。やっぱり女の子って変われば変わるものなんだね」
「お前も女子だろ」
「ほら、私は女の子っていうより男の娘に近いから」
「意味が分からねぇよ」
心のつかえが取れたのか、吉川はいつもの調子に戻って会話を楽しんでいた。こんなところも、クラスの男子からすれば可愛いのだろう。
「私もあの子みたいに『知的美人!』的な雰囲気出すにはどうしたいいんだろう? やっぱり髪伸ばすとかかな?」
「さぁな」
「整形はしたくないし、もっとおしとやかにすれば少しはそれっぽくなったり……しないか」
言いながら諦める吉川。
そんな雑談を交わしながら、ツキはずっとコトハの事が頭から離れなかった。
いまでもコトハは笑わないのだろうか。
もしそうだとしても、コトハは自分にように笑顔が嫌いなわけじゃないのだから、努力すればクラスに溶け込む事もできるだろう。いつまでも、過去に引っ張られている事はない。
半ば上の空で吉川と会話していたら、いつの間にかチャイムが鳴っていた。
放課後にまた待ち伏せされるかもしれないと危惧していたが、その予想がまるで甘かった事をツキは思い知る。
昼休み、弁当箱を持ったコトハが上級生であるツキの教室にやってきた。
「何しに来た」
「見て分からないの?」
「少なくとも、分かりたくはない」
「兄さんらしくないわね。目の前の現実から目を逸らすなんて」
こんな会話をしてる最中も、クラスメイトから好奇の視線が突き刺さってくる。悪目立ちを避けてきたツキにとって、こんな風に注目を集めるのは好ましくなかった。
「つまり昼飯を一緒に食いに来たと、そういう解釈でいいのか?」
「ええ」
「帰れ」
「嫌よ」
たった一言の応酬で、どこまでいっても平行線に辿る事になると悟る。そして強制的な排除ができない以上、ツキの負けは明白だった。
そこで思わぬところからツキへの援護があった。
「ちょっとあなた」
二人同時に目を向けると、吉川が眉間に皺を寄せてコトハを睨んでいた。
「ここは上級生の教室よ。塩見君も嫌がってるようだし、戻った方がいいんじゃ……」
「関係ないでしょう」
背筋が竦むほど冷たい声がコトハから放たれる。
「関係ないって、だからここは上級生の……」
「上級生の教室に入ってはいけないという校則はありません。なので私の行動にはなんの問題もありません」
「そういう事を言ってるんじゃ……」
「なら何が言いたいんですか?」
相手の言葉を先回りするように畳み掛け、コトハは吉川に反論の隙を与えない。
「こういうのは、常識がないって……」
「別に男子トイレに入ったわけでもないのに、非常識と言われるのは不愉快です」
グッと、吉川は言葉に詰まる。それでもそこで引いたりはしないのはさすがと言えた。
だがそれは結論から言えば、無駄な抵抗だった。
「塩見君が嫌がってるのよ。なのにあなたは……」
「兄さんが嫌がってる?」
その言葉はさほど大きくなかったのに、いままでで一番はっきりと教室に響いた。
「あなたに兄さんの気持ちが分かるとでも言うんですか?」
「そ、そんなの、見てたらなんとなく……」
「見て人の気持ちが分かるなんて、あなたはエスパーですか? あなたが兄さんの何を知ってるって言うんです?」
明らかに、コトハの声音にはこれまでにない苛立ちが見て取れた。
他人から語られるツキは、コトハにとっては鬼門だったのかもしれない。
それでも吉川は気丈にコトハに応じる。
「あなたこそ、塩見君の何を知って……」
「なんでも知ってます」
苦し紛れの吉川の言葉を、コトハは一蹴する。
「私は兄さんの事なら、なんでも知ってます」
あらゆる反論を許さないほど、コトハの語調は強かった。
言い争っても勝てないと悟ったのか、吉川は悔しそうに歯噛みしながら教室から出て行いく。
それを見届け、コトハは物怖じせず平然とツキの隣の席に腰を下ろした。
机をくっつけるでも、物理的な距離が近い前後に座るでもなく、少し離れた隣の席に。人が通るだけの隙間を開けての距離感が、そのままツキとコトハの距離を表しているかのようだった。
「俺の事ならなんでも知ってるって?」
先の発言を拾い、ツキが問う。
「えぇ」
「なら俺がいま何を考えてるのかも分かるのか?」
「分かるわ」
弁当箱を開きながら迷わずコトハは頷いた。
その言い切りようは、なら言ってみろという確認を封殺するほどの力があった。
「私は兄さん以上に兄さんの事を理解してるわ」
「自信過剰だ」
「事実よ」
コトハは箸で卵焼きをつまみながら淡々と断言する。
その様子に、ツキはため息を零した。
「この八年間一度も会ってなかったんだぞ。それに八年前だって、ほんの一か月ちょっとしか一緒にいなかった」
「私が兄さんを理解するには、十二分の時間だったわ」
「俺は自分の全てをお前に語ってない」
「些細な事よ」
取りつく島がまるでなかった。
凝り固まった老人のような頑なさが、コトハからは感じられる。おそらくツキとの過去は、コトハにとって誰にも冒せない神聖なものとなっているのだろう。当人であるツキの言葉にさえ耳を傾けないほどの。
「物心ついてから俺達が別れるまでの時間、それと同じくらいの年月がもう経ってるんだ。考え方も人格も変わっておかしくない」
「人の本質は変わらないわ」
「宗教かよ」
「聖書なら読んだ事あるけど、あれは聖人っていうよりちょっと口の上手い愚者ね」
キリスト教を全否定するコトハ。キリスト教を信仰してない者は日本には多いだろうが、ここまではっきりと侮辱する人間も珍しい。
「じゃあ人の本質を変わらないとして、その本質はどこで決まる? 生まれた時か?」
「知らないわよ。そんなの」
自分から言い出した事なのに、どこか投げやりに、苦々しくといった感じでコトハは答えた。
「親かもしれない。環境かもしれない。出来事かもしれない。でもあの日には、私達の本質はもう定まってた」
あの日、というのは施設の庭で話した時だろう。お互いの過去を話し、家族となったあの日。おそらくコトハにとって、何より大切な一日。
「だから私が兄さんを見誤るなんて事、絶対にないわ」
それはもう、子供の意地っ張りのようにツキには見えた。両親を馬鹿にされて、自分の親は凄いのだと言い張るような拙い意地。根拠のない絶対的な信頼感が、コトハからは感じられた。それがより一層、コトハが間違っている証明なんじゃないかと、ツキには思えてしまう。
「お前の俺に対する見方も、宗教みたいなもんだよ。お前は綺麗な過去をそのままにするために、いまある俺を捻じ曲げて見てる」
「違うわ」
コトハの否定を意に介さず、ツキは続ける。
「そんな風に昔に縛られてたら、いつまでも現実に馴染めないぞ。時計が差す時刻は昨日と今日で変わっていなくても、確かに回ってるんだ。その場に留まってくれる事なんてない」
過去は過去。思い出を持つのを悪いとは言わないが、それを後生大事に抱きかかえたまま、周りを拒絶して生きていく事などできはしない。もしそんな生き方をすれば、待っているのは自己完結からの自己放棄だけだ。それはもう、生きてるとは言えない。
「私は過去に縛られて生きてるつもりなんてないわ」
感情の見えない声音と無表情で答えるコトハ。
ツキにはそれが強がりにしか聞こえなかった。
「誰にでも認めたくない事くらいある」
「そんなもの、私と兄さんにはない」
それも強がりかと思ったが、そんなツキの憶測は次の一言で完璧に打ち砕かれた。
「私と兄さんは、絶対に受け入れらないものを受け止めてきたんだから」
意表を突かれた、反論の余地がない言葉だった。いや、言い返そうと思えばいくらでも言い返せたのかもしれないが、ツキは理屈ではなく直感で、あるいは経験でその弁の正しさを認めてしまっていた。
「お前は本当に変わったよ」
コトハの姿に、その様に嘆息する。
「外見だけじゃない。昔はそんなはっきりと自分の考えを言わなかったし、強くもなかった」
「私は変わってない」
「自覚がないだけだ」
優しくでも冷たくでもなく、淡々とツキは告げる。
「お前はもう、俺が守ってやらなくても生きていけるくらいに強いよ。むしろ、俺より強いかもしれないな」
「……」
コトハは反論しなかった。
ツキは子供の頃の事を思い出しながら続ける。
「八年前、俺とお前には支えは必要だった。じゃなきゃまともに立っていられなかったから、俺達はお互いを求めた。けどいまは、俺達は一人でも立っていられる。支えなんて必要なく。お前にも分かってるはずだ」
「分かるわよ」
驚くほどあっさりとコトハは頷いた。
しかし続きの言葉が、その肯定が別種のものであった事を告げる。
「兄さんが必死に無理をしてる事くらい」
その返答で、ツキはこれ以上の説得は不可能だと確信した。おそらく何を言っても、コトハはツキの隣にいる事が最善だと疑わないだろう。
自分の言葉が何一つ届かない事に軽い苛立ちを覚えながら、ツキは立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「購買だ。俺は弁当なんか持参してないからな」
コトハが弁当箱をしまうのを待たずに、ツキは教室を出た。その後ろにコトハはぴったりとついて来る。おそらく弁当箱は机の上に放置したのだろう。
小さく舌打ちをし、ツキは振り向かずに歩いた。
自分から話し掛けないのが、唯一の抵抗だった。