幼少期編~いつも6
コトハちゃんの時とは比べ物にならないほど怒られた。
怒られたというより、言い含められた。
内容は人を殴るのはいけない事、だった。
学校で高見先生はなんで殴ったのかばっかり聞いてきたけど、ここの先生はそれを一回しか聞かなかった。覚えてないって言ったら、それからは同じ質問はしないで、代わりに人を殴る事は悪い事だっていう事をずっと語ってきた。
お父さんも僕を殴ったりしたから刑務所に入れられたんだって言われると、妙に説得力があった。お父さん、僕やお母さん以外の人も殴ってたって言うし。だけど僕には、誰かを殴った覚えなんてないんだけどな。
途中先生が「やっぱり学校はまだ早いか」って呟いてたのは嬉しかった。これで学校には当分行かなくて済む。
二時間くらいの説教の後、ようやく解放されて部屋を出たら、コトハちゃんが壁に凭れて僕を待ってた。
コトハちゃんは僕の前にトコトコ近付いてきて、丁寧に頭を下げた。
「ありが……とう……お兄ちゃん」
「お兄ちゃん?」
繰り返して、意味を確認する。
僕とコトハちゃんは当たり前だけど他人で、家族じゃない。それにクラスメイトだったんだから、歳も同じのはずだ。
僕の疑問には答えないで、コトハちゃんは僕の服の袖を掴んできた。
そしてそのまま、何も言わないで黙り込む。
コトハちゃんが何をしたいのか分からなかった。何を考えてるのかも分からない。だけど笑わないし邪魔にもならなかったから、振りほどいたりはしなかった。
それからコトハちゃんは、どこに行くにも何をするにも僕についてきた。隅で本を読んでる時は何もしないで隣に座って、裏庭で寝る時は一緒に眠って、ご飯の時は席を無視して僕の横に居座った。先生は誰とも関わろうとしなかったコトハちゃんと僕が、お互いに一緒にいる事をいい傾向だと考えたみたいで、席の無視にも何も言ってこなかった。
でも僕とコトハちゃんは、一緒にいても何かを話したりはしなかった。本当に、ただ一緒にいるだけ。僕から話す事なんてなかったし、コトハちゃんも給食の時と違って話し掛けてきたりはしなかった。
コトハちゃんと別れるのは寝る時くらいのものだった。
歳の近い何人かの男の子たちと布団を並べて横になる。けどいつまで経っても眠くならなかったから、僕は施設の外に出た。
ジャングルジムのてっぺんに座って、星を眺める。
お母さんがいなくなってからぐっすり眠れる事はなくなってて、たまにこうして、夜に空を見るのが習慣になってた。
都会だからか、星はあまり多く見えない。でも月は大きく輝いていた。
自分の名前と同じ、月。思い入れも親近感もない。ただ同じ名前ってだけ。
夜空なんて特段綺麗とも美しいとも思えないけど、それでも周りに誰もいない空間っていうのは心地よくて、この夜の時間は割と気に入ってる。もしかしたら、裏庭の時間よりも好きかもしれない。ううん、嫌いじゃないって言った方が合ってるのかな。
星を見上げてたら、後ろから土を蹴る音がして振り向いた。
コトハちゃんがじっとこっちを見ていた。
多分施設を出る僕を見つけて、ついて来たんだと思う。もうコトハちゃんが後をついて来るのは僕にとって『いつも』になってたから、さして気にもならない。
けどその理由は、ちょっとだけ気になった。
「なんで僕について回るの?」
学校の時も含めての質問だった。あの頃も、コトハちゃんは一人の僕に話し掛けてきた。他の友達がいないわけでもないのに。
「だって、一人は寂しいもん。一人は嫌でしょ?」
問い返された。だけど別に、僕は一人が嫌なわけじゃない。でもついてきてたのって、僕のためだったのかな?
そういえば、コトハちゃんの声を聞くのは久しぶりな気がする。
「ここじゃ僕の他にも、一人の人はいっぱいいるよ?」
僕やコトハちゃんだけじゃない。他人と話さないで、一人ぼっちの子はこの施設には何人もいる。
「そうだけど……」
口ごもって、相変わらず俯きながら喋るコトハちゃん。
「私を守ってくれたのは、ツキくんだけだから」
守った? いつの話だろう?
あと呼び方がお兄ちゃんから戻ってた。
「私ね、お母さんに捨てられたの」
その言葉に、胸が跳ねた。危うく、ジャングルジムから落ちそうになる。
俯いてるコトハちゃんは、そんな僕の危ない事態には気付いてないみたいで、話を続ける。
「私のお父さんって、私が四歳くらいの頃に交通事故で死んじゃったんだ。それから優しかったお母さんがどんどん冷たくなって、夜も全然帰って来なくなって、一人きりになったの。それでもお母さんに心配掛けないように、私頑張って笑ってたんだけど、ここに来る前、お母さんが男の人を連れてきて、その男の人が私の服を脱がそうとしてきたんだ。私怖くなって、必死に逃げたんだけど、でも……それがいけなかったみたい。次の日に、私をここに置きざりにして、お母さんは家に帰っちゃった。もう二度と、家に帰って来ないでって言って」
語りながら、コトハちゃんの目から涙が零れた。
「それから、笑い方が、分からなくなっちゃったんだ」
涙が地面に落ちる。
そこでようやく、コトハちゃんは自分が泣いてる事に気付いたみたいだった。
両手で涙を拭いながらコトハちゃんが呟く。
「大丈夫。大丈夫だから……」
その言葉が、お母さんとダブった。何かを考える前にジャングルジムから飛び降りて、僕はコトハちゃんに近付く。
コトハちゃんはいきなり僕が下りてきた事に驚いて、涙を拭くのを忘れて僕を見つめてきた。
「僕も……」
気付いたら、僕はコトハちゃんの頬に流れる涙に触ってた。
「僕もお母さんに捨てられたんだ」
話すつもりなんてなかったのに、勝手に喉が言葉を吐き出す。
「僕はお母さんが大好きだったんだ。大好きで、だからお母さんを泣かす笑顔が嫌いで堪らなかった。お母さんが泣かないために、必死で笑うのを我慢して、楽しい事もしないようにして、それなのに結局、お母さんはどこかに行っちゃった。僕がお母さんとの約束破ったから、お母さん……いなくなっちゃった。なんでかな、それからずっと胸が軽いんだ。いつもちょっと重かったのに、いまは凄く軽い。なんでだろう?」
いつの間にか、僕も泣いてた。
泣くのなんて、いつ以来だろう?
コトハちゃんが、そっと抱きついてきた。腕が背中に回されて、顔が首元に埋まる。
「ツキくんも、寂しい? 家族がいなくなって」
寂しい? そうなのかな? おかあさんがいなくなって、僕は――
「なら、私がこれからツキくんの家族。ツキくんが、私のお兄ちゃん」
そう言って、コトハちゃんは腕に力を込める。
家族。お母さん。妹。
抱きついてくるコトハちゃんの身体は温かった。殴られて熱いのとは違くて、温かい。それにお父さんに殴られた後とか、お母さんに抱きしめられた時とも違う。あの時はいつも、お母さんの身体は温かいのに、あったかくならなかった。コトハちゃんは温かいし、あったかい。
「コトハちゃん」
胸の中で、コトハちゃんが顔を上げる。
「コトハちゃんは、僕が守るよ。これからコトハちゃんと僕は、ずっと一緒だ」
強くなりたいって、いつも思ってた。お母さんを守るために、強くなるんだって。
だけど、僕はお母さんとの約束も守れないくらい弱かった。だから今度こそ、僕は強くなってコトハちゃんを守る。
抱きついてくるコトハちゃんの背中に、腕を回す。
胸に、重みが戻ってた。
僕が気付かない内にそうしてたみたいに、コトハちゃんも無意識だと思うけど、僕の傷口をそっと舐めてくれた。