中編
◇◆◇
妙な拾い物をしてしまった。
男の名前はヴィルフリート・リーツ・ヴェルディルード。この国の若き皇帝だ。
ヴィルフリートが気晴らしに城下に降りた時に、路地裏に佇む少女が目に留まった。
ただの気まぐれで近付いた少女は、驚くほど顔色が悪く、人形の様に生気がなかった。手にはマッチと一輪の花の入った籠。
ヴィルフリートは品物だけでも買ってやればいいかと思い、目についた花を手にとって値段を聞く。すると、分からないと返事が返って来て、訝しげに少女を見た。何の冗談かと思ったが、そこで春売りの事を思い出す。
身体を売る者が相手にわかりやすく示す為、自分を花に例えてそれを売る。
どうも様子を見る限り、行くところもない様だ。治安はいいとはいえ、薄着の少女を夜に一人で路地裏に放置するのも気が引け、宿に連れて行く事にした。
よく見れば目鼻立ちは整っていて、発育もいい様だ。これでは暴漢に襲われるかもしれない。
何と無く思うところはあったが、無視して宿に連れ込んだ。
(…しかし、若い娘が1人であの様な所にいるとは、騎士は何をやっているのだ。)
少女が入浴している間に酒を飲みながら考える。何か事情がありそうな感じではあった。
部屋に入った時に宿の主人に頼んでおいた、従業員に届けられた衣服を脱衣場兼洗面所の棚に置き、ぼろぼろになっている服を従業員に洗っておく様に言いつける。
ここの宿屋の従業員は教育が行き届いている為、度々気晴らしに城下に来た時に使用していた。
少女が浴室から出てくる前に食事も届き、酒とつまみを食べながら出てくるのを待つ。
程なく出て来た少女は、見違えるほど美しい。もしかするとヴィルフリートが思っているよりも、もっと歳が上なのかもしれない。
案の定、少女は既に成人していて、子供と言われた事に僅かながら落ち込んでいる様だ。ヴィルフリートは悪い事をしたと思うが、自分を買ってくれと言う少女に、軽い苛立ちを感じた。
少女の名前はイオリと言うらしい。名前を聞かれ、馬鹿正直に答える訳にも行かずに、どう答えるか考える。
何故か偽名を使う気にはなれなくて、結果愛称で呼ばせる事にした。イオリの鈴の様な声で呼ばれるのはなんとなく心地がいい。
尚も自分を買って欲しいと言うイオリに苛立ちが募る。初めてはヴィルフリートがいいと言われて、多少溜飲は下がったが、それでも今後他の者にも買われるかもしれないと思うと、心は晴れなかった。
それならばいっそ、自分がイオリの全てを買ってしまえばいい。そんな感情が芽生えて、今まで感じた事のない、コントロールの効かない感情に更に苛立つ。
頭を冷やす為、イオリに後悔しないならば寝室で待っていろと言い付けて、入浴する。
冷水を浴びても、頭に浮かぶのは先ほどの覚悟を決めた少女の顔ばかり。
(…余以外に買われる心算があるのなら…いっその事、男に恐怖する様に、無茶苦茶にしてやろうか…)
仄暗い考えが頭を過ぎり、何を馬鹿な事を、と自嘲する。
浴室を出るとイオリはおらず、寝室の扉を開ける。そこには緊張し切った顔でベッドの中央に正座する、イオリの姿が目に映り、思わず眉が寄った。
知識はある様だが、素直で純粋すぎる。
魔法で眠らせる事にして、ベッドに入る様に促す。
イオリは何も疑わずにベッドに入り、少しは魔法に抵抗した様だがそれも長くは続かずに眠ってしまった。
それでも離すまいとヴィルフリートの腕に縋り付くイオリに、軽く嘆息した。
これではもう一つある別の寝室には行けそうにない。
イオリの髪を空いた手で撫でて、先程自分の無意識に発した言葉について考える。
(…何とかしてやる、とは…余はこの娘をどうしたいのだ…)
腑に落ちない思いを抱えながらも、ヴィルフリートは眠る事にする。
イオリを他の者に買わせたくないのなら、自分のモノにすればいいと思った。
◇◆◇
翌朝起きるとヴィルは既に起きていて、寝ぼけるイオリを横目に見て溜め息を吐いた。
「…いい加減、離してもらおうか。」
「ふぇ?…ぁ、ごめんなさい…」
ヴィルの腕はイオリにしっかりと抱き込まれていて、イオリは慌てて腕を離す。眠っている間もずっとその体制だった事を思うと、恥ずかしくてヴィルの顔をまともに見れそうにない。
「もう随分日が高い。」
ヴィルがベッドから起き上がり、首を鳴らしながらイオリに起きる様に促した。
イオリは申し訳なく思いながらもベッドを降りて、シワになったワンピースを伸ばす。
「食事を用意させる。…それから、暫くこの宿で寝泊まりするがいい。」
「え?…あの、…僕が?」
「他に誰がいる。…路頭に迷うよりはマシだろう。」
「…凄く、嬉しいんですが…僕、ちゃんと対価すら払えてないのに…」
願ってもない申し出だが甘える訳にもいかずに、断ろうとヴィルに視線を向けると、断る事は許さないとばかりに鋭い視線で睥睨されて言葉をなくす。
「…お前は、余が買おう。お前の今後の時間をな。故に、これは命令だ。」
顎を掴まれて上を向かされ、強い口調で言われて勢いに押されて頷く。顎を掴まれている為、頭はあまり動かせなかったが、頷いたのが分かったのかすぐに手離された。
ヴィルは無言で寝室から出て行き、暫く呆けていたが、怒らせたのかと慌てて後を追いかける。
ソファのテーブルの上に置いてあった皿は下げられ、宿の従業員が朝食を並べている所で、昨夜と違い2人分用意されている。タイミングも丁度いい所を見ると、ヴィルが連絡しておいたのだろうか。そういえばベッドの枕元に連絡用の魔道具が置いてあったような気もする。
肝心のヴィルの姿が無く、男性の従業員は朝食を並べ終えるとイオリに向かって頭を下げた。
「おはようございます。こちらは着替えです。」
「あ、はい。ありがとうございます…?」
「あの方から、頼まれていたのです。お手伝いが必要でしたら、女性従業員を呼んでまいりますが。」
「い、いえ。大丈夫です…」
従業員から笑顔で服を手渡され、受け取りながら戸惑った視線を向けると簡潔に答えてくれた。
ヴィルが浴室の方の扉から出て来て、従業員とイオリを一瞥してからソファに座る。着替えに行っていた様で、昨夜とは少し違う服を着ている。
「それでは、失礼致しました。」
従業員は頭を下げて早々に退室していき、部屋には立ったままのイオリとソファに座るヴィルが残された。
「あの、服…ありがとうございます。…着替えてきます。」
イオリはお礼を言って浴室の扉を開ける。
ヴィルの事を気にしながら扉を閉めて急いで着替え、顔を洗ったり、髪を梳かして身形を整えた。急かされた訳ではないが、鏡での確認もそこそこにすぐに脱衣場を出る。
ヴィルは先程と同じ体勢で新聞を読みながらソファに座っていて、イオリが向かいに座ると読んでいた新聞を畳んで閉じた。
「…待っていてくれたんですか?」
「そういう訳ではない。…食すか。」
待っていないと言いつつも、食事は手が付けられた様子はない。ヴィルの不器用な優しさに、緩んだ口元を隠す様にパンを頬張る。
こっそり上目遣いにヴィルを窺うと、イオリの方を見ていたのか、目が合った。
「…余は一度帰るが…其方にはここで暫く暮らして貰う。宿から出るのはいいが、戻って来る様に。」
「…はい。」
(…買われるって、こういう事なのかな…)
ヴィルの素っ気ない言い方に一抹の淋しさを覚えるが、自分が意見を言える立場ではない。イオリはヴィルに向かって曖昧に微笑んで、心を蝕む言い表しようのない感情に気が付かないフリをした。
食事を終えるとヴィルは従業員を呼んで片付けさせ、その間に出かける準備をしている。
「…これを。では、行ってくる。」
ヴィルは少し重い皮の小袋をイオリに手渡すと、なんとなく慌てた感じで部屋を出て行った。先程従業員が来た際に宿の主人も一緒に来て、ヴィルに何か言っていたので、用事があるのかもしれない。
渡された小袋の中身を聞く間も無く行ってしまったので、イオリは手のひらに乗せられた小袋を開けて見る事にする。
ジャラジャラとする音に嫌な予感を覚えながらも、小袋の紐を解く。
「…何…これ…」
中に入っていたのは、十数枚はあろうかと言うほどの金貨で、これだけで一般市民の年収以上ありそうだ。
くらりと眩暈を感じて、ソファに凭れ込む。
「…ありえない…ヴィルさんって、何者なんだろう…」
金貨を出したままにして置くのは、イオリの精神衛生上よろしくない為、すぐに全て小袋に戻した。
(…買われるって…なんか虚しい……お婆ちゃんに、会いたい…)
不意に込み上げて来た涙を飲み込んで、ヴィルに買われた証の金貨の入った小袋を両手で包み込んで、胸の前に抱き込む。
無性に昔の生活に、祖母に会いたかった。
イオリが宿で暮らし始めて1週間が経った。
その間イオリは一度も外に出なかった。と言うのも、出る必要性がなかったのだ。
食事は3食部屋に持って来てもらえるし、おやつまでついている。その上、服や下着は初日に服屋や雑貨屋が来て、必要な物は全て置いて行ってくれたし、暇を感じていると従業員が本を持って来てくれた。
当然の事の様に支払いは断られる。
生活だけなら以前より遥かに良いはずだが、胸にはぽっかりと穴が空いた様な空虚感があった。
それも、あれから一度もヴィルがイオリの所に来ていないからかもしれない。
自由に外に出てもいいと許可を貰っているのに、自分が籠の鳥になった様な錯覚。それはイオリの心に確かな陰を作って行った。
(…今日も…来ないのかなぁ…)
バルコニーで表の通りを眺めて、人知れず溜め息を吐く。こうしてヴィルの姿を探すのは、イオリの夜の日課となっている。
イオリの暮らす部屋は、宿の中では2番目に良い部屋らしく、5階にある。1番良い部屋は離れらしいのだが、帝都の一等地と言う立地条件では破格の敷地面積だろう。
バルコニーには外側から中が見えない様に魔法が掛けられており、防犯面でも騎士団の御墨付きを貰っているらしい。
イオリもこの部屋が嫌だと言う訳ではない。むしろ気に入っているのだが、如何せん独りであるという事をまじまじと感じてしまう。
4つある内の最後の1つの扉の向こうには上に上る階段があり、様々な花が植えられた温室と屋上へ出る扉がある。
最近は日中ずっと温室に籠って本を読んで、夕食と入浴を済ませてからは寝るまでバルコニーから外を眺める生活。
冬の風は魔法によって阻まれ、肌寒さはあるが上着を着るほどでもない。
「…バカみたい…」
(こうして暮らせるだけでも、感謝しなくちゃいけないのに…)
わがままになっている自覚はある。会えないと、会いたいと思うのはヴィルに惹かれているからなんだろう。
ここにいればお金は不要だし、ここを出てもヴィルに渡されたお金で、裕に一年は暮らせる。
対価を払わない事は幸運と言ってもいいはずなのに、今はそれが無性に辛かった。
◇◆◇
執務を終えて、私的な報告書に目を通す。
そこには1週間前に拾った、少女の事が書かれていた。
ある貴族の庶子であり、父にも母にも捨てられて、赤の他人の女に拾われたらしい。イオリが幼い時に女の旦那は事故で亡くなっていて、女手一つでイオリを育てたとあった。
その女も一月ほど前に病で亡くなっている。
その後はイオリの言った通りの事が書かれていて、騙された訳ではなさそうだ。
衣類も雑貨も必要最低限しか購入していない上に、一度も外出すらしていない。
報告書を読むにつれて、ヴィルフリートの眉間に皺が寄る。
ヴィルフリートは、特にイオリを閉じ込めたかった訳ではない。ただ、自分に買われている間は、他の男に売る事はないだろうと思っての事だった。
況してや、それがイオリの負担になっているとは思いもしなかった。
自分を待っているかの様なイオリの行動に、ヴィルフリートは不可解な感情を覚える。
腑に落ちないのに、嫌だとは思わない。
(…あの娘を余のモノにすれば…、気は晴れるのか…?)
身の内を蝕む、今まで感じた事のない感情を抱えながら、誰にも邪魔されない様にイオリのいるの宿屋に向かう。
少女と出会ってから、少女の事が頭から離れなかった。