前編
◇◆◇
雪が降りしきる街の裏路地で、一人の少女がマッチを売っていた。
少女の服は、防寒が出来ているとは思えない短いマントにワンピース。足元はブーツだが、それもボロボロで全体的に粗末な身なりだった。
だが少女は、黒曜の様に黒く長い髪に黒い瞳、今は汚れてしまっているが真っ白な肌で美しくも可愛らしい。
少女の名前はイオリ。街の外れに祖母と共に住んでいた。
なぜ過去形なのかと言うと、祖母は1ヶ月ほど前に病で亡くなったのだ。
しばらくは祖母の残してくれた蓄えで食べていた。もちろんその間、祖母がしていた編み物の仕事をしていたのだが、ある日納品に行った時に店主に無理やり押し倒され、その時ちょうど現れた女将さんに弁解する間も無く追い出されて、仕事は無くなってしまった。
不幸がそれだけならまだよかった。落ち込みながら家に帰って、お金を持って買い物に出ている間に火事で家が焼けてしまっていた。
途方に暮れるが、手元にあるのは祖母の残してくれた多少のお金と着の身着のままの服だけ。
もう雪の降る季節は間近だ。
冒険者になるにも、腕に覚えがある訳でも、魔法が使える訳でもない。
寝る場所にも困っているイオリは、宿屋で一泊泊まることにする。
そこの食堂で、マッチ作って売る仕事を半ば強引に持ちかけられる。材料費を買えば、作って売った金は自分のものだと言われ、所持金の約半分を出して買ってしまった。
便利な魔道具が普及しているのに、マッチなんて需要がある訳がない。田舎ならまだしも、ここは都会で物流も安定している。
世間知らずのイオリは騙されているとも知らず、宿の部屋に篭ってマッチを作った。とは言っても簡単な作業。手先の器用なイオリは半日ほどで作り上げ、午後から大通りでマッチを売る。
来る日も来る日も。
宿屋に泊まっていた為、所持金はついに底を尽いてしまう。それでもマッチは売れない。
仕方なく凍てつく寒さに耐えながら教会の隅で夜を明かし、朝になればマッチを売る。
食事はもう3日も食べておらず、気力も体力も限界に来ていた。
(…僕、このままじゃ死んじゃうよね…)
夜になり、教会の隅で暖を取る為にマッチを燃やす。売り物だが、寒さの為背に腹は変えられなかった。
「…おばあちゃん、僕もうダメかも…」
火を起こしても、身を切る寒さには抗えない。こうなれば、身体を売ってしまうしかないのだろうか。
身体を売れば、朝まで宿で眠れる。お金も貰えるし、うまく行けば貴族の愛人になれるかもしれない。
イオリはマッチの入った籠の中に、冬でも咲いている花を一輪入れて、もう日が落ちて暗くなった裏路地に立つ。
縄張りだとかの話で、目立たない隅に追いやられてしまった。でももし運が良ければ、誰かの目に止まるかもしれない。
だが、空腹と寒さから目の前が霞む。俯いて目眩をやり過ごしていると、視界の隅に靴先が見えた。
イオリはハッとして顔を上げると、そこには黒い髪に紫水晶の様な瞳の精悍な、とても綺麗な顔立ちの男が立っている。衣服も上質な素材が使われているのが一目でわかる。きっと貴族か豪商なのだろう。
男は籠から花を取ると、それをイオリに差し出す。
「いくらだ。」
「…え…?あ、わか…わかりません…。」
世間知らずのイオリには春売りの相場など分からない。イオリは男にどもりながら答えて、俯く。
もしかしたらこのまま何処か別の人のところに行ってしまうかもしれない。
「わからない?」
「…貴方が、僕の価値を…」
「そういう事か。」
意外な事に、男は立ち去らずに尚もイオリに質問をした。
男は差し出した花を握り潰し、手を開くとイオリの腕を掴む。花は凍っていたのか、粉々に砕けて、パラパラと淡く輝きながら落ちて行った。
その光景に目を奪われていたイオリは、腕を掴まれて狼狽える。
男が歩き出して、裏路地から出たところに留めていた馬にイオリを乗せ、自分も乗ると何も言わずに馬を出す。イオリは文句を言う気力も、言葉もなく、ただ男の端正な顔を見つめる。
気が付くとさりげなく男の上着の前が開かれ、イオリの風除けになる様にされていた。
男はしばらく馬を小走りに走らせ、大通りから1つ入った筋にある宿屋の前に停める。そこは帝都に住む者なら誰でも知っている一見さんお断りの一流の高級宿で、男が馬を停めるとすぐに中から人が出て来た。
「これはこれは、ようこそお越し下さいました。」
「一泊泊まる。それから、食事の用意を部屋に。」
「畏まりました。すぐにご用意いたします。」
宿の主人が恭しく頭を下げるのを横目に、男が馬から降りて、イオリも降ろす。馬は後から来た男に預けられて、イオリは男に腕を掴まれたまま宿に入った。
宿はイオリが数日泊まった宿とは、比べ物にならない程に綺麗で、そして豪華だった。その為、ボロボロの服を纏ったイオリの存在は嫌でも浮いてしまう。
場違いな雰囲気を感じながらも、男の掴む腕を振りほどく気にはなれない。
宿の主人に、部屋に案内されて中に入る。一歩入ったところで、部屋のあまりの豪華さに立ち竦んだ。
真ん中には大きなソファセットが置かれ、壁際には酒などの飲み物が置かれた棚と、その前には簡単な物が作れるであろうミニキッチンとカウンター。扉は入口も合わせて5つあり、入り口脇には帽子や上着を掛けるスタンドが置かれている。他にもキャビネットや花が飾られ、一流の名に恥じない造りになっている。
入り口以外の4つの扉の内、どれかが寝室かと思うと、今更ながら緊張する。
男は部屋にイオリを置き去りにして、入り口を半分開けたまま主人と何か話している。
イオリは綺麗な絨毯が引かれた部屋に、自分の汚れた靴や服で歩くのを躊躇して動けない。
男が部屋に戻って来て、入ってすぐの場所に立ち尽くすイオリを見て眉を顰めた。
「そんなところで何をしているのだ。」
「…あの…僕が動くと、汚れてしまうと思って…」
「気にしなくてもいい。それに、そんなに気になるのなら、食事前に湯浴みに行けばいいだろう。浴室はそこの扉の奥だ。」
男はピクリと眉を動かすと、浴室を手で示して、それ以外は関心がないのか中央に置かれているソファに向かう。
ソファに座って長い足を組み、まだ動かないイオリをちらりと見てから嘆息した。
「…早くしなければ、食事が来るぞ。一人で入れぬ訳では有るまい?」
「ご、ごめんなさい。すぐに入ります。」
イオリは慌てて腕に掛けていたマッチの入った籠を置き、自分の汚れたブーツを脱いで籠と一緒に入り口の横に寄せると、男に向かって一度ぺこりと頭を下げて小走りで示された扉に入った。
これからの事を思うと、胸がどきどきと早く脈打っていて、収まらない。
それでも汚れたままよりかはマシかと思い直して汚れた服を脱ぎ、それを棚の端に置いて浴室に入る。浴室はイオリが暮らしていた小屋より少し小さいくらいで十分広く、浴槽などは大人が裕に5人は入れそうなほどだ。
「…わぁ!」
洗い場の鏡の前には数種類の香油や石鹸が置かれており、好きな匂いを組み合わせる事が出来る様だ。
イオリは一通りの匂いを嗅いで自分の好きな匂いを2種類、少し混ぜて使った。洗える限り、丁寧かつ綺麗に洗って脱衣場兼洗面所に戻る。
ふかふかで真っ白なバスタオルで頭と身体を拭い、脱いだ服をどうしようかと棚に目を向けると、そこには脱いだ服の代わりに真新しい白の下着と服が置かれていた。ご丁寧に白のルームシューズまである。服を拡げて見ると、薄いピンクのワンピースの様だ。
男が用意してくれたのだろうか。他に着る服もないので袖を通す。袖や裾のサイズは丁度だが、胸が少しキツく、腰の部分は少し緩い。
ここまで結構な時間、男を待たせてしまっている。もしかしたら、怒っているかもしれない。慌てて髪を適当に乾かして、置いてあるアメニティで歯を磨いてから、男の待つ扉の向こうに戻る。
男はグラスを片手に本を読んでいた様で、イオリが部屋に戻ると本を閉じてグラスをテーブルに置いた。
「いつまでそこにいるつもりだ。食事が来ている。」
「ごめんなさい…あ、あの、着替え…ありがとうございます!」
男はイオリのお礼に無言で頷いて、顎でしゃくって、向かいのソファに座る様に促す。
イオリは恐る恐る男に近づいて、ソファに腰を降ろした。ソファは予想以上にふかふかで、目測を誤り座った拍子にバランスを崩して後ろに倒れてしまう。
羞恥を感じながらも座り直して、男に小さく謝る。男の眉が跳ね、イオリはびくりと身を竦ませた。
「…気にしてない。食べるといい。」
「でも、あの…貴方は…」
「余はもう済ませた。酒とつまみがあればそれでいい。」
男の視線に、イオリは言いたい事を飲み込んで目の前の料理に意識を向ける。料理は一人では少し多い程の量がある。
くぅ。きゅるるるるる。
「…ぅ、ごめんなさぃ…」
食欲のそそる香りに刺激されたのか、イオリのお腹から空腹を訴える音が鳴る。イオリは羞恥で顔を赤くして、消え入りそうな言葉で謝罪を口にした。
すると男はイオリの目の前にパンを突き出して、僅かに口角を上げる。
「…謝らなくていい。遠慮もするな。」
差し出されたパンを両手で受け取り、先程までの仏頂面とは違って少しだけ優しく見える男の顔に、また違った意味で頬を染めた。
遠慮するなと言われた通り、空腹に負けて料理に手を付ける。
そのまま満腹になるまで、無言で食事する。男も何も話す気がないのか、酒を飲みつつ本を読んでいる。
イオリが食べ終え、飲み物を飲んで一息つくと、男が本を閉じてイオリに向き直った。
「さて、何故あんなところにいたのだ。」
「…身体を…売ろうと思っていたんです。」
「何故だ。」
男の鋭い視線から逃れる様に俯きながら小さな声で告げると、男が眉を寄せて更に問いかけて来る。
イオリは嘘を付く事も憚られ、正直に事の顛末を話す。
祖母が死んだ事。
仕事の商品を売りに行っている店主に乱暴をされそうになった事。
その店主の妻に見つかり、仕事のお金ももらえず追い出された事。
家に帰って、お金を持って買い物に出ている間に火事にあった事。
持ち出していたお金を使って宿屋に泊まった事。
そこの食堂で、男に強引にマッチの材料を買わされた事。
マッチが売れずに宿屋のお金が払えず、数日間教会で寝泊まりした事。
このままでは死ぬと思い、春を売る覚悟をした事。
娼婦に人の来ない裏路地に追いやられた事。
男は時折促す様に相槌を打つ以外は、喋らずに静かにイオリの話を聞いてくれた。
イオリは話し終えて顔を上げると、まっすぐ男に視線を向ける。
「そこに、貴方が…」
「なるほど。よくも、そこまで不幸が重なったものだ。」
「…ぁの、あの!貴方はどうして僕を買おうと思ったんですか!?自分で言うのは、変ですけど…僕、汚なかったですし…それに、経験も…」
後半になるにつれて声は尻窄みに小さくなっていき、最後の方はもにょもにょと何を言っているのかわからない。
それでも男には聞こえたらしく、イオリの質問に考える様に腕を組んだ。
「…ただの気まぐれだ。そもそも、其方自身が売られているとは思わなかったのでな。手に持つ商品を全て買ってやれば良いくらいの考えだった。」
「…ぇ?…じゃあ、どうして僕をここに連れて来たんですか?」
思わぬ答えが返って来て、イオリは驚く。男は手に持ったグラスに酒を注ぎ足しながら、イオリにちらりと視線をやって、注いだ酒を飲む。
「…薄着で顔色も悪く、その上自分を売ると言う。放って置いて死なれては、目覚めが悪いと思った。」
「…じゃあ、あの…買って、くれますか…?は、はは初めてなんですが…!」
イオリが目を閉じ、思い切って男に尋ねる。
暫く沈黙が部屋を満たし、イオリは鳴り止まない心臓の音を聞きながら男の返事を待った。
「…発育は良い様だが、子供に手を出す趣味はない。」
「…え、っと…あの、僕、これでも18歳なんですけど…」
子供と言われた事にショックを受けながら、自分の年齢を告げる。男の眉がぴくりと跳ねて、イオリを頭の先から足の先まで見た。
「そうだとしても、わざわざ無理に売る事もないだろう。」
「でも、お金がないと…暮らせ、ない。…も、もぅ、お婆ちゃんも…ぃないし…僕、独りになっちゃっ……ぐす…ご、めんなさぃ…泣くつもりじゃ…」
今まで我慢してた所為か、気が緩んだ拍子に涙が出てきた。張り詰めていた気は、一度緩むと止めどなく流れ、次から次に零れる。イオリは涙を止めようと焦って拭うが、なかなか止まらない。
「擦るな。泣きたければ泣けば良い。…辛かったんだろう。」
男の思わぬ優しさに触れて、余計に涙を止める事が出来ない。
嗚咽を必死で押し殺し、男が不快に思わない様に顔を隠す。暫くそうして泣いて、次第に泣き止んで来た時、顎に手がかかって上を向かされた。濡れたタオルで目元を覆われ、タオルの冷たさと驚きで身体が跳ねる。
「冷やしておけ。」
「ぁ、ありがとうございます…」
男が立った事も、タオルを濡らした事も全く気が付かなかった。
イオリはタオルを一度目元から外して、向かいのソファに座り直した男に向かって頭を下げる。
「…あ、の…僕、イオリと言います。…貴方の名前を聞いてもいいですか…?」
こういう時に名前を聞いてはいけない事は知っていた。それでも聞かずには居れずに、勇気を振り絞って聞いてみる。
男は少し逡巡してから、溜め息を吐いた。
「ヴィルだ。呼びたければ好きにしろ。」
「ヴィル、さん…」
教えて貰えるとは思ってなかった為、教えて貰えた事が嬉しくて、自然と口元が緩む。きっと本名ではないだろうが、それでもよかった。
「…食事も終えた事だ、休むがいい。あの扉が寝室だ。余はそこの寝室を使う。」
「で、でも!僕の事、買ってくれないんですか…?」
もう寝ると言うヴィルに、イオリはテーブルに身を乗り出して尋ねる。先ほど子供と言っていたくらいだから、イオリでは不満なのだろうか。
「…ぼ、僕…どうせ身体を売るなら…初めては、貴方がいいです…。」
「それは、余を客として逃がさない為に言っているのか?」
ヴィルの顔付きが鋭くなり、イオリの真意を探る様に目を細める。イオリはヴィルから目を離してはいけないと思い、じっと目を見つめる。
イオリの真剣な様子に、ヴィルが折れたのか、深々と溜め息を吐いて残った酒を一気に飲み干した。
「…後悔しないのか。後悔しないのなら、そこの寝室で待っていろ。」
ヴィルはグラスをテーブルに置くと立ち上がり、イオリに向かってそれだけ告げると、浴室の扉に入って行った。
イオリはドキドキとうるさいほど脈打つ胸に手で当て、手に持った濡れタオルで落ち着くまで目元を冷やす。
ヴィルが戻って来る前に寝室に移動して、部屋の中央にドンと置かれた巨大なベ ッドに腰を掛ける。
こういう時どうすれば良いのか、経験の無いイオリには分からない。服を脱いでベッドに入っておけばいいだろうか。それとも、このまま下着だけ脱ぐのか。
(…早くしないと、もう結構時間が経ってるから…戻って来ちゃうよね…?)
こうなったら戻って来たヴィルに聞こうと思い、ベッドの上にちょこんと正座して戻ってくるのを待つ。
それから少しして戻って来たヴィルは、ベッドの上で正座するイオリを見て眉を寄せた。
「…何をしている。」
「…えっと、こういう時…どう待てばいいのか分からなくて…あの、脱いでた方がいいですか?それとも下着だけ脱いで、服は着たままの方が…」
イオリは捲し立てる様に言うが、途中で嘆息が聞こえて、イオリは空気が抜けた様にしおれる。
ヴィルがベッドの中央に座るイオリに、横にずれる様に言って布団に入ると、枕元のスイッチで明かりを消してしまった。
「早く入れ。」
「…は、はい。ごめんなさい…」
ヴィルの隣に身体を潜り込ませ、どれくらいの距離を保てばいいのか分からず、ヴィルの身体にピタリとくっつく。
心臓の音が聞こえていないか気になるが、ヴィルの腕がイオリの身体を抱き寄せた事でそれどころじゃなくなった。
「…怖いか。」
「…ぃ、いえ…大丈夫です…だから、僕を………ぁれ?」
唐突に訪れた抗い様のない強い眠気に、目の前のヴィルに縋り付く。意識が途切れそうになるのを抗うイオリに、ヴィルは頭をゆるく叩いた。
「無理に身体を売る事はない。…余が何とかしてやろう。」
その言葉を聞いたのを最後に、イオリの意識は途絶えた。最も、言われた内容は理解出来なかったのだが。