サクラとタチバナ
――貴女に手紙を書きたくて、久しぶりに万年筆へインクを入れました。
手紙の書き出しには、そう書かれていた。
――お元気ですか? すっかり無沙汰で御免なさい。なんだかゆっくり手紙を書く時間が取れなくて、気がつけばこんなに時間が経っていました。いつの間にか半分まで減ってしまった、と思っていたインクだったのに、そこから先はなかなか減らないのを眺めては貴女の事を思い出していました。
インクの色はセピア色。彼女が好きだと言ったから贈ったインク。学生時代は、このインクで書いたメモや手紙をしょっちゅう受け取っていた。
私の為だけに使われる、そのインクで綴られた手紙を受け取るのは一年ぶりの事だった。
――近頃はめっきり寒くなりましたね。冷え性の私は部屋の中なのに丸々と着ぶくれていて、さっき姿見の前を通った時に一人で笑ってしまいました。貴女もきっと私を見たら笑うんじゃないかな? そうして笑った後、きっと特製ミルクティーを入れてくれる事でしょう。生姜がたっぷりと入った、ジンジャーミルクティー。砂糖も多目の、あの味が懐かしくて、不意に思い出しては作っています。書いている間に何だか飲みたくなってしまったので、今ちょっと席を外して作ってきました。同じように作っている筈なのに、なんだか少し味が違う気がしてしまうのは何故だろうね? 同じものの筈だけど、貴女が入れてくれたやつが飲みたいな。
文面を目で追いながら、口元に笑みが浮かぶ。
寒い寒いと連呼する彼女に初めてミルクティーを入れてあげたのは、確か高校生の時だった。
わりと駅からの距離がある我が家へ来るまでの道程ですっかりと冷えきったらしく、寒い寒いと言いながらひざ掛け用の薄い毛布に包まっていた。仕方がないなと部屋に彼女を残し、作ってあげたのが生姜入りのミルクティーだったのだ。
(美味しいねぇ、これ。ありがとう、タチバナ)
ふやけた煎餅みたいにフニャフニャの笑顔で告げた、女子高生だった頃の彼女の姿を今でも思い浮かべる事が出来る。
あんまり嬉しそうに笑うから、それ以来、冬に彼女に振る舞うのは必ずこのミルクティーで。今でも私は、アッサムの茶葉と生姜と牛乳を冬場に切らしたことはない。彼女に会うことが無くなった今でも。
――……なんて、そんな我儘は言えないってことは分かってます。貴女は此処に居ないし、私も其処には居ないのだから。
きっとね、味なんてそんなに大差ないんだ。貴女に教えてもらったのと同じ茶葉で作っているんだから。違うのは私が一人で飲んでいるからでしょう。
――ああ、こんなことを書くつもりじゃなかった。どうしてこうなのだろう。書きたいと思った事も書くまいと思った事もちゃんと考えていた筈なのに、もう頭の中はぐしゃぐしゃです。
けれど、もういいか。私は貴女の居所を知らない、送りたくても住所をもう知らない。書いた手紙を送る術が私には無い。だからこうして貴女に語るつもりで何もかも書いてしまおう。
(おはよう、タチバナ! 昨日話してた本、持ってきたよ!)
(ごめん、英語のノート見せてもらえる? 板書、間に合わなかった所あってさぁ)
(タチバナ、タチバナ、見て! 今日のお昼ごはん、唐揚げ入ってた! 一個食べる?)
甦る彼女の言葉。笑っていた、あの頃の姿。
私を呼ぶ、彼女の声。
(学科違うと意外と会わないもんだねぇ、でも時間合う時は一緒にお昼食べよ)
(タチバナ、夕飯一緒に食べに行かない? サークルの先輩にね、この近所で美味しい定食屋さん教えてもらったんだ)
(タチバナ)
(タチバナ)
(ねぇ、タチバナ、あのね)
(私ね、彼氏、できたんだ)
――先に離れたのは私の方だったのに。こんな事を言うのは卑怯だろうけれど。
ずっと、それこそ高校で初めて貴女に会った時から、貴女の事が好きでした。女子校で一緒に居た時は、ただ並んで貴女と友達でいられたら良かったのに。貴女と並んでいるのは私で、私だけで、それ以上は必要なんてなかったのに。
大学に入って、色んな人と接して、そう思う事は他から見たらおかしいんだって気付いて。私が貴女に抱いているのは親愛や友情とは別なんだって自覚して、それ以来、私は貴女との距離が分からなくなってしまったのです。
――貴女がサクラと私を呼ぶ度、私は密かな優越を覚えていました。貴女しか呼ばない私の呼び名、その声の優しさには気付いていました。他の誰を呼ぶ時よりも、貴女の呼び声は優しかった。きっとこれは自惚れや勘違いなんかじゃない。その声に、どれだけ心を揺さぶられたかなんて、貴女は知りもしないでしょう。
そして貴女はその優しい声のままに言うのです、サクラは親友だから、と。
そう。親友だ。彼女は私の、誰よりも大切な親友。
立花という名をタチバナと読んだ、そんな彼女の名前は佳乃という。
(私をタチバナって呼ぶなら、私はサクラって呼ぼうかな)
(え、なんで?)
(吉野といったら桜だし、橘と並ぶなら桜でしょう)
洒落たつもりでそう言えば、彼女はキョトンとした顔の後、少し考えこんでからこう言った。
(……まぁ、うちのクラスにサクラちゃん居ないから良いか)
その様子がおかしくて笑ったら、タチバナもそんな風に笑うんだね、と何処か嬉しそうな様子で呟いていた。
――貴女が親友と呼ぶのなら、私はそれ以上は求めない。サクラと貴女が優しく呼ぶ度、私を親友と呼ぶ度、嬉しさと悲しさで私はどうにかなりそうだった。
だから貴女に嘘をついた。彼氏が出来た、と。あの時ね、告白されたのは本当だったけれど、まだ返事はしていなかった。そう告げたら貴女はどう言うかと、思ったから。少しでも動揺してくれるのなら、私は彼の申し出を断ろうとも考えていた。
でも「おめでとう」って言うタチバナの笑顔は、とても優しかった。「サクラは良い娘だしね、その彼は見る目があるね」って笑う顔が、あんまり優しくて。だから私、貴女と別れた後にその彼へ了承の返事を告げたの。
――ああ、タチバナはもう諦めているんだな、私をこれ以上は求めてくれないんだな、って。そう思ったから。だから私も、諦めなきゃいけないんだって、思って。
手紙を持つ手に力が入る。あまり握りしめたら、紙がぐしゃぐしゃになってしまうというのに。
だって、どうしようもないじゃない。女同士で。何を求めようというの。
諦めるしか、無いじゃない。
(ねぇタチバナ、私ね、タチバナのこと好きだよ)
(ありがと。私もサクラが好きだよ)
あの頃みたいに屈託なく、そう笑って言い合う事は、もう許されない。
――彼氏が出来てからは、ゆっくりと疎遠になって。卒業して就職したら、タチバナは何も告げずに引っ越してしまったね。ああ、とうとう捨てられてしまった、そう思ったよ。
貴女が居ない寂しさを誤魔化す為に、貴女から貰ったインクで何枚も手紙を書きました。書いては破り捨てて、彼氏の灰皿の上で焼いて。何枚も何枚も何枚も。
どれだけ紙の上で貴女に告白したことでしょう。無駄な行為と分かっていても、私は書かずにいられなかったのです。
――会いたいです。タチバナ、会いたいです。貴女に会いたいです。いま何処に居ますか。貴女の隣には誰が居ますか。ああ、貴女の隣に居る誰かが妬ましい。それとも一人で居るのですか。ああ、貴女の隣に居られない事が悔しい。
呼んで下さい。私を呼んで下さい。サクラと呼んで下さい。貴女の為だけの名前で、私の為だけの優しいあの声で、どうか私を呼んで下さい。ねえタチバナ、どうか。
先日、お付き合いしている彼からプロポーズを受けました。きっと受ける事になるでしょう。それでも私の心はサクラと呼ばれたあの時から貴女に向けられているのです。
手紙はここで終わっている。
私は握りしめて皺になってしまった部分を丁寧に伸ばして、そっと机の上に置いた。
先日届いた彼女からの手紙。同封されていた手紙には、彼女が二週間前に事故で亡くなった事、遺品整理で部屋からこの手紙が見つかった事、大学での交友関係や高校を当たって所在地を探し当てた事などが書かれていた。
『読んでしまって、御免なさい。両親の目には触れさせていません。姉は送るつもりは無かったと思うから、送るべきかも迷いました。けれど私には捨てる事が出来ませんでした。どうか供養のつもりで、姉の気持ちを知って下さい。』
今更、何を、知れと言うの。
知ってたよ。知ってたのに。サクラが私を想っていた事なんて。
あの娘が私の気持ちに勘付いているだろうことだって、気付いていた。
お互い、分かってたけど。それでも踏み込むのが怖くて、彼女が離れようとした時に、好機とばかりに自分も逃げた。
全部、全部。知ってた。
知ってて、諦めたフリして逃げたのに。
「……サクラ」
ひどい娘。一人で言い逃げして、私の心を持ち逃げするなんて。
「サクラ……ッ」
どんなに呼んだって、貴女が求めた名前を呼んだって、もう貴女の耳には届かない。
私の声はもう、貴女には届かない。
それでも私はただ、彼女の名前を、泣きながら呼び続けた。