七分目
ふいに身体を囲っていた腕が解かれた。
「行けば」
歩君は興味を無くしたように言うと、私を押し退けた。
「バカヤロー」と怒鳴って頭を叩いてやりたかったけど、立ち上がってそのまま家を出た。
誕生日なのにどうしてこんな目に遭うんだろう。
大雨が降っているのに何しているんだろう。
でも、家には居たくなかったし、家族をめちゃくちゃにする計画に加担する気はなかった。
よっちゃんは佐々君と一緒にいるかもしれないから、ステファンの家に行くことにした。
築五十年の渋い木造家屋のチャイムを鳴らすと、清志君が顔を出した。
吹けば飛びそうなほどげっそりと痩せているけれど、眼鏡が斜めに傾いているところに愛嬌がある。
「やあ、ちひろちゃん。久しぶり」
清志君は臨終の人みたいに弱々しい声で言うと、私を招き入れた。
「ステファンはいないの?今日、お休みの日だよね?」
「買い物にいっているよ」
それだけ言うと、書斎に行ってしまったので、私は台所に向かった。
別に私を嫌っているわけではなく、他人に構わないのが清志君のスタイルなのだ。
この家に来ると、大抵お茶はセルフサービスになる。
清志君は、ステファンの年下の恋人で、一緒に暮らしている。
仏教だか何だかの研究をしている人で、本を何冊も出しているらしい。
研究に没頭すると、生理的欲求(食欲・睡眠欲等)をすっかり忘れてしまう清志君は、私が知る限り、少なくとも三度は栄養失調で死にかけている。
道端で倒れていた清志君を哀れに思ったステファンが家に連れてきて、食事をご馳走してあげたのが、二人の愛の始まりだったそうな。
現国の授業で夏目漱石の「こころ」を読んだとき、清志君(頭文字もKだし)の顔が浮かんだ。
清志君は、俗世間から離れて暮らすお坊さんのような人だ。
しかも、現代を生きているというより同性愛が盛んだった頃のお寺で生きているようで、自分の恋愛が一般的な男性と異なっていることをあまり気にしていない。
二人分の麦茶を持って書斎を覗くと、清志君は肘掛椅子に座って熱心に読書していた。
肘掛椅子の足元に腰を下ろした私は丸くなって目を閉じた。
七時位にステファンが帰宅した。
私を見ると、すこし驚いたようだったけど、丸い眼鏡をくいっと上げて、ウインクした。
ピザを作るというので、手伝うことにした。
ステファンが生地を薄くのばしている間、私はトマトソースを作った。
オリーブオイルでニンニクと鷹の爪を軽く炒めて、缶入りのトマトを入れて軽く煮込むだけ。
簡単なことなのに、オリーブオイルが飛んだら、熱くて涙が出てきた。
ガスコンロの前でボロボロ泣いていたら、ステファンが火を止めた。
「チヒロ、今日はやめておきなヨ。アトは、ボクがやるから」
これあげるよ、と差し出されたチョコレートバーを受け取って、壁に寄りかかった。
ステファンの背中は、小山のように大きい。
「ステファンは、好きになっちゃいけない人を好きになったことある?」
「あるヨ」
「どんな人?」
「神父さま」
「神父様?」
「うん。イタリアの、故郷の村にいたとき、ローマから若い神父がやってきてネ。すっかり夢中になってしまったんだ」
「なんで、神父様のことを好きになっちゃいけなかったの?」
「ボクには奥さんがいた」
ビックリして顔を上げると、ステファンの淋しげな横顔が目に映った。
「好きだから、奥さんと結婚したんじゃなかったの?」
「好きだったヨ。でも、愛してなかった。パパが決めた結婚だったから」
「それから、どうなったの?」
「カトリック教徒が多い保守的な村だったからネ。その神父もボクも村を出なければいけなくなった。最初は、シアワセだった。でも、彼はボクよりも信仰心を選んで去っていった。ボクには何も残らなかった」
ステファンは、自嘲気味に笑った。
ピザをオーブンに入れると、ステファンはテーブルに座って、ワインをグラスに注いだ。
美味しそうに飲むので、一口飲んでみたくなった。
グラスに口をつけた時、ステファンが口を開いた。
「ボクとキヨシの間に肉体関係はないんだ」
「ブッ」
思わずワインを吐きだしてしまった。
ゲホゲホと咳き込んでいると、水を差し出された。
「チヒロも大きくなったから、こういう話ができるようになったネ」
ステファンは、なぜか誇らしげに笑っている。
そういえば、小さい頃によくこんな風にステファンを話していたことを思い出した。
幼い私は何でも知りたがって、ステファンは何でも答えてくれた。
「男の人を好きになることに罪悪感を感じたことはある?」
「うん。時々心が重くなって堪らなくなる。でも、誰も愛さなくなる方がもっと辛いってことを知っているから、ボクはやめないヨ」
「誰も愛さなかった時があったの?」
「前の恋人に振られた後。ニホンに追っかけてくるほど好きだったのに、振られてしまった時は死ぬほど辛かった。もう誰も好きになるもんかって思っていたんだけど、好きにならずにいられない人が現れた」
「誰?」
「チヒロ」
「私?」
「うん。赤ちゃんのチヒロを見たとき、愛しているって思った。そしたら、急に気持ちが楽になった。誰かを好きになると、満たされた気持ちになるんだネ」
「好きになっちゃいけない人を好きになってもいいの?」
「ホントは、好きになってはいけない人なんか、この世に存在しないかもしれないヨ。むしろ、問題は愛し方じゃないかな」
ステファンはオーブンを覗き込みながら答えた。
「どうすればいいの?」
「ボクも少しずつ試しているところだから、まだ分からないヨ。でも、誰も傷つけない愛し方っていうのが、どこかにあると信じているんだ」
ステファンは、いつかイタリアの故郷に帰るだろう。
そんな予感がしたら、気持ちが軽くなった。
自分の気持ちを受け入れてしまえば、相手とぶつかるのは容易いように思えた。
人生初の兄妹ゲンカをふっかけるべく、私は家に帰ることにした。