六分目
どうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。
気が付いたら、部屋の鏡の前に座っていて、うつろな目がこちらを見ていた。
全身びしょびしょで、滴り落ちる水で床が濡れていた。
「シャワー浴びなきゃ」
そう呟いて、浴室に向かった。
熱いシャワーを浴びて、頭がすっきりすると、菅原君の顔が思い浮かんだ。
心臓がばくばくいってる。
気を落ち着かせようと、ソファーに寝転んで目を瞑ったけれど、早鐘のように打つ心音はおさまらない。
「どうかしてる。落ちつけ、ちひろ」
単純な自分に言い聞かせた。
誕生日に出会った人に、生まれて初めてキスされた。
ドキドキするのは、何もかもができすぎていたせいだ。
女の子に興味ないくせに、何してくれちゃってるんだろう。
たしかに歩君以外の人に目を向けたいと思っていたけれど、事態は間違った方向に転がってしまったような気がした。
「くちびるじゃないし!ほっぺにチュッてくらいだし!」
口に出したら、頬がチリチリと熱くなった。
うー、と私は唸った。
「なんで、無理な人ばかりにドキドキしちゃうんだろう。顔か?私、面食いなの?」
冴えない容姿の分際で、なんと図々しい。
「忘れろ、忘れろ。全部忘れるんだ。わ~す~れ~ろ~」
目を閉じたまま、ぶつぶつ唱えていると、睡魔が襲ってきた。
雨の音が心地よくて、私はいつの間にか眠ってしまった。
夢の中で、私は誰かとキスをしていた。
軽く触れるようにキスされた後、貪るようなくちづけを交わした。
そんなキスの仕方は知らなかったので、夢の中の私は驚いていた。
キスって、舌の使い方が重要なんだ。
唇や歯茎を撫でるように舐められると、ゾクゾクした。
舌を絡め取られてからは、無我夢中で相手に合わせた。
薄暗がりの中で相手の顔は見えなかったけれど、無意識に気づかないふりをしていたのかもしれない。
青白い閃光が走って、視界が明るくなった。
自分に覆いかぶさる人物と目が合った時、耳をつんざくような雷鳴が響き渡った。
「あゆむくん?」
「なに、その顔」
歩君は、口元をゆがませて、くっと喉で笑った。
唇が濡れていることに気が付いた。
私は一体何をしでかしたのだろう。
「ちひろ」
いつもと変わらない優しい声が私の名前を呼んだ。
「気持ち良かった?」
長い指がすっと私の唇を撫でて、歯に触れる。
夢ではなく、現実だった。
急に恐ろしくなった。
逃げようとしても、両手で肩を押し付けられているから、身動きができない。
必死に暴れる私を愉快そうに眺めているのに、瞳の奥は、冷めきっていた。
「今日、駅でちひろを見たよ。キスされていた。あれ、彼氏?」
首を横に振ると、頭を優しく撫でられた。
「彼氏なわけないか。ちひろは、俺のことが好きなんだもんね」
否定するために首を振ろうとしたけれど、顎を掴まれた。
「俺もちひろが好きだよ。別にいいじゃん。実の兄妹ってわけじゃないんだから」
キスされそうになったけれど、自由になっていた右手で防いだ。
「血つながっているかもしれないんだよ」
泣きそうになりながら告げると、歩君はわずかに目を見開いた。
秘密にしておこうと思ったけれど、もう言わずにはいられなかった。
もう触れる気なんておきないだろう。
そう思って立ち上がろうとしたら、強い力に引き戻されて、歩君の膝の上に乗せられてしまった。
立ち上がろうとしても、腰に巻き付いた腕がそれを許さない。
耳元でクスクスと笑い声が聞こえた。
「知ってたんだね。ちひろのことだから、何も気づいていないと思っていた」
「なんで、」
「俺はちゃんと知っている。自分の父親が最悪な人間かってことぐらい理解しているつもりだよ」
「お父さんは良い人だよ」
「一度はあんたら親子を捨てた男でしょ」
「二人で決めて、別れたんだよ。捨てたわけじゃない」
「無責任で身勝手な男だよ。まあ、香織さんも面の皮が厚いから、お似合いかもね」
「歩君、怒っている」
「怒っているんじゃない。父さんと香織さんは、人を傷つけた報いを受けた方がいいと思っているんだ」
「お母さん達が傷つけたのは、歩君のお母さん?」
「そうだよ。あの人ばかりが苦しんだ」
「お母さんだって、お父さんも苦しんでたんだよ。二人を責めないで。私が謝るから。お母さんの分も謝るから」
胸が痛くて苦しくて、涙が出てきた。
「ごめんなさい。歩君のお母さんと歩君を傷つけてしまったこと、本当にごめんなさい」
「もしかしたら、ちひろが生まれたせいかもしれないね。あの二人よりも悪いのはちひろかもしれない」
そう言って歩君は、私の耳を強く吸った。
「っん」
小さく声を上げると、背後で歩君が笑った気配がした。
「ちひろはホント単純だよね。優しくされたら、すぐに俺のこと好きになった」
首筋も吸いつかれて、歯を立てられた。
「っんあ。やあっ」
「やめないよ。めちゃくちゃにしてあげる。最初からそのつもりだったんだ。優しくて恋したら、兄妹だってばらしてやろうと思ってた。もう知っているだったら、この方法が手っ取り早いよね」
楽しげに言う歩君が恐ろしくて、全身が震えた。
Tシャツの裾からするりと忍び込んだ大きな手が胸に触れたかと思うと、一気にブラジャーを上に押し上げた。
「お願いだから、やめて」
泣きながら懇願しても、歩君の手は止まらない。
「ちひろがいけないんだよ」
覆うものがなくなった胸の膨らみを筋張った手が揉みほぐす。
「私が悪かったの。謝るから、もうやめて。お母さんが帰ってき」
言い終える前に顎をつかまれて振り返るように斜め上を向かされた。
「見せてやればいい」
残酷な言葉は、激しい口付けと共に降ってきた。
無理矢理に口をこじ開けられ、舌を絡ませられていたから、しばらくは話すことはおろか、息をすることさえままならなかった。
それでも、伝えなればいけない言葉があった。
熱く執拗な唇が離れた一瞬の隙を逃さず、口を開いた。
「で、出ていくから」
歩君が動揺を見せたとき、心はすでに悲しみでいっぱいだった。
ええと、禁断恋愛物ではないです。一応。