真実の愛は、持参金で買うものではありません
本日一話目です。
クラリッサ持参金事件、後半に入ります。
カストナー男爵家へ金貨が移動された。
その報告を聞いた瞬間、審問室の空気が変わった。
ラングレー子爵の顔から余裕が消える。
オスカー・ラングレー子爵令息は、唇を引き結んだまま黙り込んだ。
クラリッサ嬢は、何が起きているのか理解しきれない様子で私を見ていた。
「カストナー男爵家……」
彼女の声はかすれていた。
「ミレーヌ様の、ご実家ですか」
「はい」
私は記録係から報告書を受け取る。
資金移動の日時。
送金元。
送金先。
金額。
仲介した王都商会。
すべてが、きちんと記録されている。
記録とは不思議なものだ。
人は嘘をつく。
言い訳をする。
記憶を都合よく曖昧にする。
けれど、金の流れはそう簡単には嘘をつけない。
「ラングレー子爵」
法務卿の声が低く響いた。
「これはどういうことですか」
「……何かの間違いでしょう」
「間違いで、金貨三万枚相当のうち二万枚が動くと?」
法務卿の眉がわずかに上がる。
それだけで、室内の温度が下がったように感じた。
ラングレー子爵は額の汗を拭う。
「事業の準備金です。カストナー男爵家には、香料輸入の伝手がある」
「先ほど、事業登録はまだで、取引相手も調整中だと仰いましたね」
私が口を挟むと、ラングレー子爵は鋭くこちらを睨んだ。
「補佐官殿。あなたは若い。商取引というものをご存じないようだ」
「ええ。だから確認しております」
「何?」
「私は知らないことを、知っているふりはいたしません。ですから、書類と記録で確認します」
私は報告書を机に置いた。
「この送金は、王宮法務局が資産凍結命令を準備している最中に行われています。しかも、送金先はオスカー令息が真実の愛と呼んだミレーヌ嬢の実家です」
「偶然だ」
「偶然にしては、都合がよろしいですね」
ラングレー子爵の頬が引きつった。
オスカー令息が、そこでようやく口を開く。
「ミレーヌの家は関係ありません」
「では、なぜ送金を?」
「彼女の父君が、事業に協力してくださる予定だったからです」
「予定、ですね」
私はその言葉を繰り返した。
「契約書はありますか」
「まだ正式なものは」
「覚書は」
「ありません」
「商談記録は」
「口頭で」
「証人は」
「……」
沈黙。
私は記録係を見る。
「今の回答を記録してください」
「承知しました」
ペンが走る音がする。
オスカー令息は、その音を不快そうに聞いていた。
あの音が嫌なのだろう。
言葉を形にされる音。
逃げ道を一つずつ塞がれる音。
「オスカー令息」
私は彼に向き直った。
「あなたは手紙で、クラリッサ嬢にこう書いています」
私は手紙を開く。
「“真実の愛を見つけてしまった。相手はミレーヌ・カストナー男爵令嬢だ”」
クラリッサ嬢の肩が震える。
私は声を荒げない。
怒りは必要ない。
必要なのは、事実だ。
「そして同じ手紙で、持参金はすでに事業に投資されているため返還できないと書いています」
「その通りです」
「その投資先の一つが、ミレーヌ嬢の実家であるカストナー男爵家だった」
「事業上の判断です」
「では、質問を変えます」
私は彼を見た。
「あなたは、クラリッサ嬢の持参金を、ミレーヌ嬢との将来のために使うつもりでしたか」
室内が静まり返った。
オスカー令息は、一瞬だけ目を伏せた。
その一瞬で十分だった。
「答えてください」
「……違います」
「では、何のために?」
「だから、事業のためだと」
「その事業の実体を示す書類はありません。契約書もありません。登録もありません。取引相手も不明。領収書もない」
私は一つずつ並べる。
「けれど、ミレーヌ嬢の実家に大金が移動した記録はあります」
「あなたは僕を犯罪者にしたいだけだ!」
オスカー令息が声を荒げた。
先ほどまでの柔らかな微笑みは消えている。
「僕はただ、愛に誠実であろうとしただけです!」
「愛に誠実であろうとすることと、婚約者の持参金を返さないことは別です」
「クラリッサには悪いと思っています!」
「悪いと思っているなら、返せばよろしいのでは」
「だから、返せないと――」
「返せないのではなく、返したくないのではありませんか」
オスカー令息が息を呑む。
クラリッサ嬢が、涙をこらえるように拳を握った。
私は机の上の書類を指で押さえた。
「真実の愛は、持参金で買うものではありません」
その言葉に、クラリッサ嬢の瞳が大きく揺れた。
ラングレー子爵が立ち上がる。
「侮辱だ! 王宮法務局といえど、我が家をここまで――」
「座りなさい」
それまで黙っていたユリウス殿下が、静かに言った。
大声ではなかった。
けれど、その一言でラングレー子爵の動きが止まる。
王太子としての声だった。
「これは侮辱ではありません。審問です」
「しかし、殿下」
「あなた方は、婚約契約によって伯爵令嬢の持参金を受け取り、その後、別の令嬢との恋愛を理由に婚約破棄を申し出た。さらに返還不能と主張しながら、その金を相手女性の実家へ移動させた」
ユリウス殿下は、冷静に続ける。
「疑われるだけの行動をしたのは、あなた方です」
ラングレー子爵は、黙って椅子に座った。
法務卿が記録係へ指示を出す。
「カストナー男爵家へも出頭命令を。送金口座の凍結も申請する」
「承知しました」
「加えて、ラングレー家の過去二件の婚約解消について、被害者側へ聞き取りを行う」
「はい」
ここで終わらせてはいけない。
クラリッサ嬢の持参金だけを返して済ませれば、ラングレー家はまた同じことを繰り返すかもしれない。
契約の紙を盾にして。
令嬢の沈黙を利用して。
家の名誉という言葉で、被害者を黙らせて。
「クラリッサ嬢」
私は彼女に声をかけた。
「はい」
「この件は、あなた一人の問題ではなくなる可能性があります」
「……はい」
「調査が広がれば、あなたの名も社交界で噂されるでしょう。つらい言葉を向けられることもあるかもしれません」
彼女の顔が強張る。
けれど、私は言わなければならない。
正しさには、時に代償がある。
それでも、その代償を一人で背負わせないために、私たちがいる。
「ですが、王宮法務局はあなたの証言と名誉を守ります」
クラリッサ嬢は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は……怖いです」
「はい」
「でも、ここで黙ったら、きっとまた誰かが同じ目に遭います」
「その可能性はあります」
「なら、私は証言します」
彼女の声は震えていた。
それでも、先ほどより強かった。
「私の持参金を返してもらうだけではなく、あの契約が間違っていたと、きちんと記録に残したいです」
私は、静かに頷いた。
「承りました」
エインズワース伯爵が小さく口を開く。
「クラリッサ、しかし……」
彼女は父親を見た。
そして、初めて父親の言葉を遮った。
「お父様。私はもう、黙りません」
その声は小さかった。
だが、審問室にいた全員に届いた。
「私の人生を、家の体面のために諦めたくありません」
伯爵は何も言えなかった。
私はその姿を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
私もきっと、あの日神殿で同じことをしたのだ。
王家の体面より、自分の人生を選んだ。
だから今、ここにいる。
「法務卿」
私は言った。
「ラングレー家の資産凍結に加え、カストナー男爵家への送金分も保全対象に含めるべきです」
「当然だ」
「過去二件についても、同一条項による不当取得が確認されれば、返還命令の対象に」
「進める」
法務卿は短く答えた。
その時、オスカー令息が私を睨んだ。
「あなたは、満足ですか」
「何がでしょう」
「人の恋を壊して、家を追い詰めて、そんなに楽しいですか」
私は少しだけ首を傾げた。
「私は、あなたの恋を壊してはいません」
「では、何をしていると?」
「あなたが他人の財産で飾ろうとした恋から、財産を取り戻しているだけです」
オスカー令息の顔が赤くなる。
「あなたのような冷たい女性には、愛など分からない」
その言葉に、審問室が一瞬静まった。
以前の私なら、傷ついたかもしれない。
冷たい。
可愛げがない。
強いから大丈夫。
分かってくれる。
そう言われるたびに、私は笑って受け流していた。
でも、今は違う。
「分からなくて結構です」
私は淡々と答えた。
「少なくとも私は、愛の名で人の財産を奪うつもりはありません」
法務卿が、審問の一時終了を宣言した。
ラングレー父子は、王宮官吏に付き添われて退室していく。
最後まで、彼らはクラリッサ嬢に謝らなかった。
それが、彼らの答えなのだろう。
クラリッサ嬢は立ち上がり、私に深く頭を下げた。
「エリス様。私、最後まで証言します」
「はい」
「怖いです。でも、逃げたくありません」
「怖いままで構いません」
私は言った。
「勇気とは、怖くないことではありません。怖くても、自分の足で立つことです」
クラリッサ嬢は、また涙をこぼした。
けれど、背筋は伸びていた。
彼女が退室した後、ユリウス殿下が私の隣に立った。
「エリス嬢」
「はい」
「あなたの言葉は、よく人を立ち上がらせますね」
「私は、事実を述べているだけです」
「事実を、必要な人に届く形で述べられる。それは得難い力です」
私は視線を落とした。
「そうでしょうか」
「はい」
ユリウス殿下は迷わず答えた。
「私は、あなたが法務局に来てくれてよかったと思っています」
胸の奥が、静かに揺れた。
褒められることには、まだ慣れない。
けれど、ユリウス殿下の言葉は、私に何かを背負わせるためのものではない。
ただ、見ていると伝えるための言葉だ。
「ありがとうございます」
そう答えると、ユリウス殿下はほんの少しだけ微笑んだ。
その直後、記録係が戻ってきた。
「エリス補佐官、法務卿。カストナー男爵家から返答がありました」
「何と?」
法務卿が問う。
記録係は困惑した顔で書状を差し出した。
「送金された金は、ミレーヌ嬢の婚礼準備金であり、ラングレー家からの正式な贈与だと主張しています」
私は書状を受け取り、内容を確認した。
そこには、流麗な文字でこう記されていた。
――真実の愛に基づく贈与であり、第三者が口を挟むべきものではない。
私は静かに書状を閉じた。
「では、明日は贈与契約について確認しましょう」
ユリウス殿下が小さく息を吐く。
「また書類が増えますね」
「はい」
私は机の上に書状を置いた。
「ですが、記録が増えるほど、真実には近づきます」
事件は、まだ終わらない。
けれど確実に、逃げ道は狭まっていた。
お読みいただきありがとうございます。
本日一話目です。
第5話、第6話も更新予定です。
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