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王太子に捨てられたのではありません。私が法で婚約を終わらせたのです――元婚約者の私、王宮法務局で第二王子に重用されています  作者: Sophia Rose


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婚約式をひとりで終わらせた令嬢

短編

『またあの子を優先するのですか? では、婚約式は私ひとりで終わらせます――王太子殿下、正式な記録はもう残しました』

の連載版です。


短編未読でも読めるように構成しています。

本日三話更新予定です。

婚約式をひとりで終わらせた令嬢。

 王都では、私のことをそう呼ぶ者がいるらしい。

 噂というものは、いつだって本人の意思とは関係なく歩き回る。

 そして時に、本人よりもずっと派手な衣装をまとって戻ってくる。

 私、エリス・フォン・アシュベルトは、公爵家の娘として十八年を生きてきた。

 そのうち五年を、王太子レオンハルト殿下の婚約者として過ごした。

 王妃教育。

 外交儀礼。

 王族式典。

 慈善事業。

 各領地から上がってくる陳情書の整理。

 隣国大使との晩餐会における会話順序の暗記。

 それらはすべて、未来の王太子妃として必要なものだと教えられてきた。

 けれど、私が未来の王太子妃になることはなかった。

 婚約式当日。

 正式な最終確認が行われるはずだった神殿に、王太子殿下は来なかった。

 理由はいつもと同じ。

 病弱な幼なじみ、リリア・ベルノワール男爵令嬢が不安がっていたから。

 殿下は何度も私にそう言った。

 君なら分かってくれるだろう、と。

 だから私は、最後に一度だけ分かったことにした。

 殿下は私を選ばない。

 ならば、私も殿下を選ばない。

 私は神殿で、王国記録院の記録官と神官長、王宮法務官、複数の証人たちの前で、王太子殿下の継続的な契約不履行を理由に、婚約無効確認を申請した。

 その場に残された記録は、誰にも消せない。

 結果として、レオンハルト殿下は王太子位を剥奪された。

 リリア嬢の虚偽や過剰な依存も明るみに出て、ベルノワール男爵家は王宮出入りを禁じられた。

 そして私は、王太子の婚約者ではなくなった。

 物語なら、そこで終わりなのだろう。

 けれど現実は、婚約が終わった翌日にも朝が来る。

 そして、朝が来れば仕事も来る。

「エリス・フォン・アシュベルト嬢」

 王宮法務局の応接室で、王宮法務卿が私に一通の辞令を差し出した。

 白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけた、厳格な方である。

 法務局の官吏たちからは、鋼鉄の筆先と呼ばれているらしい。

 辞令には、すでに王印が押されていた。

「本日付で、あなたを王宮法務局特別補佐官に任じます」

「……私を、ですか」

「はい」

 法務卿は眉一つ動かさない。

「あなたが五年間にわたり作成していた王族婚約関連の代理記録、公務補佐記録、式典欠席記録、各所への調整文書を確認しました」

「それは、あくまで王太子妃教育の一環として行っていたものです」

「それだけで、あの精度の記録は残せません」

 法務卿は、机の上に数冊の綴りを置いた。

 見覚えのある背表紙だった。

 私が、王太子殿下の婚約者だった頃に作成していた記録である。

「日時、場所、出席者、欠席理由、代替措置、証人、発生した損失、後日の処理。感情を挟まず、事実のみが簡潔に残されている」

「王妃陛下から、記録は感情より強いと教わりました」

「その通りです」

 法務卿はわずかに頷いた。

「王国には今、あなたのような人材が必要です」

 私は辞令を見下ろした。

 王宮法務局特別補佐官。

 それは名誉ある役職だ。

 ただし、貴族令嬢が就くには珍しい。

 特に、元王太子婚約者という立場の私には。

「私がこの任に就くことで、余計な噂が立つのではありませんか」

「すでに十分立っています」

 即答だった。

 思わず目を瞬かせると、法務卿は淡々と続けた。

「噂を消す最善の方法は、噂以上の実績を積むことです」

「……厳しいお言葉ですね」

「法務局ですから」

 その言い方があまりにも真面目で、私は少しだけ口元を緩めた。

 すると、応接室の扉が静かに叩かれた。

「失礼します」

 入ってきたのは、ユリウス殿下だった。

 元第二王子。

 現在は、正式に王太子として立たれた方。

 黒髪に銀灰の瞳。

 華やかさよりも、静かな落ち着きを感じさせる方だ。

 兄君であるレオンハルト殿下とは、随分と違う。

「エリス嬢。急な招請となり、申し訳ありません」

「いいえ、殿下。お声がけいただき、光栄です」

「光栄というより、こちらがお願いしている立場です」

 ユリウス殿下は、法務卿の隣に立った。

「あなたの記録がなければ、王族会議はもっと長引いていました。多くの者が、感情論で処理しようとしていた」

「私は事実を残しただけです」

「その事実が、国を動かしました」

 まっすぐな言葉だった。

 私は少し、返答に困った。

 以前なら、同じような言葉を聞いても、きっと素直に受け取れなかっただろう。

 褒められた分だけ、次はもっと我慢しなければならない。

 必要とされる分だけ、自分の都合を後回しにしなければならない。

 そう思ってしまっていた。

 けれどユリウス殿下の声には、私を縛る響きがなかった。

「エリス嬢」

「はい」

「無理に引き受ける必要はありません」

 私は顔を上げた。

「あなたは五年間、十分すぎるほど王家のために働いてくださいました。今後はご実家で静養されても、誰も責める資格はありません」

「……殿下」

「そのうえで、もしあなたが望むなら、あなたの力を貸してほしい」

 命令ではなかった。

 期待ですら、押しつけではなかった。

 それは、選択肢だった。

 私は辞令にもう一度目を落とした。

 五年間、私は王太子妃になるために生きていた。

 誰かの隣に立つため。

 誰かを支えるため。

 誰かの都合を待つため。

 でも、今ここにある仕事は違う。

 私自身の名前で受けるものだ。

「お受けいたします」

 私は辞令を両手で受け取った。

「エリス・フォン・アシュベルトとして、王宮法務局特別補佐官の任をお受けします」

 ユリウス殿下の表情が、わずかに柔らかくなった。

「ありがとうございます」

 その時だった。

 廊下の方から、慌ただしい足音が近づいてきた。

「法務卿!」

 扉の向こうで、若い官吏の声がする。

「緊急の相談が入っております。伯爵家の令嬢が、婚約契約について直接訴えたいと」

 法務卿が眉を上げた。

「予約は」

「ありません。ですが、王国婚約監査規定に関わる案件であると。しかも、先方はかなり切迫している様子です」

 婚約契約。

 その言葉に、私は反射的に顔を上げていた。

 法務卿が私を見る。

「特別補佐官。初日ですが、仕事です」

「はい」

 私は立ち上がった。

 もう、誰かを待つために立つのではない。

 誰かが泣き寝入りしないように、立つのだ。

 応接室に入ってきたのは、青ざめた顔の令嬢だった。

 淡い菫色のドレスは上質だが、裾がわずかに乱れている。

 急いで王宮まで来たのだろう。

「わ、私は、クラリッサ・エインズワースと申します」

 伯爵家の令嬢だ。

 彼女は震える手で、一枚の契約書を差し出した。

「婚約者が……私との婚約を破棄すると言ってきました」

「理由を伺っても?」

 私が尋ねると、クラリッサ嬢は唇を噛んだ。

「別の令嬢を愛しているから、と」

 よくある話だ。

 けれど、それだけなら法務局に駆け込む理由としては弱い。

 私は契約書を受け取った。

「それで、何にお困りなのですか」

「婚約は破棄する。けれど、私の持参金はすでに事業に投資したから返せないと」

 室内の空気が少し変わった。

 法務卿が目を細める。

 ユリウス殿下も静かに契約書へ視線を落とした。

 私は、契約書の最初の頁を開く。

 婚約者の名は、オスカー・ラングレー子爵令息。

 王都社交界でも、少し名の知れた青年だ。

 穏やかで誠実な人物と聞いていた。

 だが、契約書は噂より正直である。

 私は持参金に関する項目を確認した。

「クラリッサ嬢」

「は、はい」

「この契約書に、あなたはご自分で署名されましたか」

「はい。父と婚約者に言われて……」

「内容の説明は受けましたか」

「簡単には。婚約後の生活準備に必要だと」

 私は頁をめくる手を止めた。

 そこに、一文があった。

 婚約成立後、花嫁側持参金は婚家管理資産へ移行し、婚約継続の有無にかかわらず返還請求権を放棄するものとする。

 私は、静かに息を吸った。

「……なるほど」

 ユリウス殿下が私を見る。

「何か?」

「はい」

 私は契約書を閉じた。

「この契約書、かなり悪質です」

 クラリッサ嬢が息を呑む。

「やはり、私はもう取り戻せないのでしょうか」

「いいえ」

 私は彼女をまっすぐ見た。

「取り戻せます」

 彼女の瞳が揺れた。

 私は契約書を机に置く。

「契約とは、強い者が弱い者を黙らせるための紙ではありません」

 そして、特別補佐官としての最初の仕事が始まった。

お読みいただきありがとうございます。


本日は三話更新予定です。

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