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遺言  作者: 四季あらた
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3.ペンは剣よりも強し

 自分の部屋に戻った備は、ひとまず椅子に腰掛けた。いろいろなことが起こり過ぎて、脳内が混乱しているのだ。

 久米原にウイスキーやら氷やらを持ってこさせ、自分でロックを作って飲む。仄かに甘い香りがした。回転椅子で子どものようにぐるぐると回り、部屋を見回す。滅多に戻ってこないため、物の位置はほとんど動いていない。壁に掛けられた航海図。デスクの上にある、子供の頃政孝がくれた戦艦三笠のプラモデルの砲台に、薄っすらホコリが積もっている。

「……はぁ……」

 軽くため息をついた。

 父親が死んだというのに、家族は呑気にブランド肉を食っている。実子でない備でさえ、虚無感の欠片くらい感じている。しかし彼らが考えているのは、きっと父の遺産だけだ。

 福留という、今や巨大財閥を形成する社長の死。それはまた、誰が次期社長のポストに就くかという壮絶な戦いの始まりの合図でもある。

 順当に行けば、長男であり福留重工常務の政孝だろう。福留家の人間で福留ファイナンスに勤めているのは、政孝の妻愛未(まなみ)と、雄輔の妻紗耶香(さやか)だけである。

 愛未の実家である向井むかい家は、ムカイ電気という大手電機メーカーの創業者一族である。紗耶香の実家度会(わたらい)家も、度会精密という、規模こそ小さいものの半導体などを専門に扱う会社を経営している。いずれも業界内では名の知れた古参企業だ。


 正直なことをいえば、遺産なんていらない。福留家の人間でいることすら苦しかった。

 父が最低な人間であることを備は知っている。当然するべきメンテナンスを怠り、罪のない、明日を生きるつもりでいた、景観に癒やされるために船に乗った老若男女303人を殺した。責任から逃れるため、元日に「申し訳ない」という置き手紙一つで自らこの世を去った。

 二人目の父も大差ない。直孝は電話一本で政界の人間を呼びつけることができるまでの権力を持っていたが、それでも日々退屈だと悲鳴を上げており、贅沢に走り下請けいじめを楽しみ、終いにはキャバクラ嬢に熱を上げる始末。隠し子がいるという噂もある。

 長男で義理堅い性格の政孝は、悪い人間ではないが人望がない。情に厚い、いい男だとは思う。しかし、備のことを毛嫌いし、「福留家」というジャンル外の人間としか見ていないこの矛盾を、備は受け入れることができなかった。

 雄輔は、福留商事の石油担当常務である。彼も社長の座に近い。大学で国際関係学を学び、現に世界各国の財界人や政治家とパイプで繋がっている、現代社会に最も適応した人間である。しかしあまりにドライなその性格ゆえに、敵も多かった。特に、社長の本藤万智ほんどうまちとは犬猿の仲だそうだ。

 備は適当に、頭を左右に振った。少し長く伸びた髪が左右にブルブル震える。

 いずれにせよ、備は社長の座とは縁遠い。


 電話が鳴った。

『もしもし、綾間でございます。』

 昼間の余裕のある声とは違い、少し沈んだ声だった。

「もしもし、福留備です。」

『お父様、亡くなられたようですね。ご愁傷さまでした。』

「どうも。わざわざありがとうございます。」

『……昼間の話、決心していただけましたか?』

「今ですか。」

『せっかちなもので。遺言の公開まで時間がありませんし。』

「……正直、綾間さんの話を信じることができません。」

『それほど衝撃を受けられましたか。』

「ええ……そんなはずがないと、今でも正直思っています。」

『私は証拠を持っていますよ。』

「だとしてもですよ。そういう問題じゃないんです。」

 備は唇を噛む。鋭い痛みを感じて、それでもより強く噛んだ。

「養子だとはいえ、僕は本当にこの20年以上を、福留家の人間に、家族になろうと真剣に頑張ってきたつもりです。これほど嘘と欺瞞に満ちた家でそうしていたのかって思うと……自分が生きていた意味というかが、一気に霞んでいくような気がして。」

『……』

「正直、自分は信用されるどころか受け入れられてすらいなかったと考えると、虚しくて仕方ないです。」

『……私も以前似たような経験をしました。』

 綾間はやけにしんみりした声で話す。

『私、石川県の旅館の長男なんですがね、幼い頃母が従業員と駆け落ちしまして。それ以降父とずっと不仲で。』

「そうでしたか。」

『その旅館は、父の再婚相手の息子が継ぎました。大学で経営学を学んだと息巻いて、ゆくゆくは全国展開のホテルチェーンにすると。』

 備は失笑した。福留グループは数年前、経営するホテルの全株式を別の会社に売却した。トントン未満になることもしばしばなホテルだったから、手放せたときは心底ホッとしたのを覚えている。

「その弟さんとは……?」

『特別仲が悪いわけではないです。どことなく互いに……他人行儀と言いますか。身内な気がしないんです。』

「なるほど。」

 出会ってから6時間程度しか経っていないが、そうとは思えない距離の近さを感じた。

「……僕の本当の両親は、二人ともいません。本当の家族も。」

 一瞬絢音の顔が浮かんだが、備と話すときだけわずかにハの字になる彼女の眉を思い出し、訂正はしなかった。自分は家なき子だ。そうやって自嘲な笑みを浮かべる。

「向こうが家族と思ってくれない以上、僕も彼らを家族だとは思いません…………自己中ですかね。」

『人間本来自己中心的な生き物です。だから法律という《《たが》》がある。』

「……」

『……備社長。私昼間は、復讐という言い方をしましたが、それは訂正します。これは復讐ではない。』

「じゃあ、なんですか?」

『……ペンは剣よりも強し。ご存知ですか?』

「……ええ。言葉だけは。」

『イギリスの作家、エドワード・ブルワー=リットンの言葉です。現代ではジャーナリズムが持つ力だったり言論の強さだったりを象徴する言葉ですが、本来の意味をご存知ですか?』

「エッセイか何かの文面ですか?」

『彼の「リシュリュー」という戯曲の中で主人公のリシュリュー枢機卿が語った言葉なんです。「剣を振るうよりも前に、処刑執行文書にサインをする方が早い」という意味で、リシュリュー枢機卿はこう言いました。』

「……処刑、執行文書……」

『私は弁護士の端くれです。ですが、法は正義を執行するためにある。正義を執行するために、備社長のお力が必要なんです。これは、正義の審判です。』


 なんなのだろう。この気持ちは。

 怒りではない。憎しみでもない。純粋な虚無感とも違う気がした。

 心が空っぽになったような感覚、それでいて、得体のしれない黒い醜い感情に胸の内が侵されていくのを感じた。

 鼓動が早くなり、慌てたように備は、酒ではなく水を飲んだ。気道に少し入ってしまったようで、少しむせてしまい、落ち着いて顔を上げればそこにはさっきの通りロックグラスがあった。

 手持ち無沙汰に、机をとんとんと叩く。

 備は今、都内のマンションの最上階に住んでいる。克哉が手配してくれたのだ。さすが不動産界隈にも顔が利く義弟である。39階建ての39階。上には誰もいない。備が最上だ。それでも、そこからの美しい景色はどこか味気ない。

 この実家に戻っても、立派なお屋敷の中で適当にぶらぶらして、仕事をしてと、日々の無機質さに変わりはない。そして家族もそうである。

 備は福留家の人間である。血の繋がりはなくとも、福留という巨大な財閥の一角を担う、立派な一本の大黒柱だ。

 柱が自分から折れて、福留が失墜するのも、悪い話ではないかも知れない。そこに理論はない。100%の感情である。

(これは、正義の審判です。)

 明らかに厨二病な発言である。でも、そのあまりに飾った言葉も、今の備には信じられるような気がした。


◇◇◇


 葬式の後しばらくして、遺言書を公開するからと、顧問弁護士の江越が、一族を会社の会議室に集めた。

「なんで本社で遺言なんか……」と母が言うと、「ここから一番近いので。」と江越らしからぬ理由を言った。遺言書はすでに江越が所持しているという。

「おい、遺言書があること、誰か知ってたのか?」

「知らないわよ、別に。」

「俺も知らないな。」

 政孝の問いに、未織と雄輔が答えた。他も一様に首を振る。政孝と雄輔の妻、愛未と紗耶香も知らないと言った。

「被相続人は、遺言書の存在は、公開するまで伏せておくようにと仰っていました。」

「そうですか……」

 昭子が俯く。

 江越はしばらくしてから、「ちょっと失礼します」と部屋を出る。

「……」

 沈黙は重苦しく、耐えきれなくなったのか、愛未と紗耶香は世間話を始めた。しかしその内容も、ルイ・ヴィトンのバッグだの、シャネルの香水だの、半分が子どものする自慢話と大差ない。


 今自分がいるのはどういう空間なのか。

 私利私欲のために人生を用いる人間がいる場所だ。他人を見下して己を高める人間の稼ぎ場所だ。他人の価値を、自分自身の価値を、持ち物や立場で図る人間の巣窟だ。

 そして備に、価値はない。力もない。特別財力があるわけでもない。エドフォード社との取引だって、大きいがすごくはない。価値がない、無価値な人間なのだ。

 であるなら何をする?

 その昔から、いわば《《無価値な人々》》は、一握りの《《価値のある》》人間に対し武力で立ち向かってきた。百姓一揆では京都に乱入し暴れまわって幕府から徳政令を勝ち取り、フランス革命でギロチンによって人間らしく生きる権利を得、十月革命でニコライ2世とその家族を銃殺刑に処し世界初の社会主義国家を建てた。

 時代が変貌しても、「ペンは剣よりも強し」というリットンの言葉の通り、権力に対して立ち向かう際、人々は、ひいては私たちは言論という名の剣を用いた。私たちは日々処刑執行文書にサインして、それぞれ正義の審判の元正義の鉄槌を下しているのだ。ある時には、鉄槌は罪無き人に無作為に向けられ、打ち叩かれてバラバラになるまでその手が緩むことはない。

 備の前にも、処刑執行文書と一本のペンがある。正義の鉄槌がそれらの傍らにある。

 彼には、何ができるのだろうか。私たちは彼の正義の審判を、どのように裁くのだろうか。


 江越が会議室に入ってきた。備は膝の上で、力を込めて握りしめた手をふっと緩めた。

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