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遺言  作者: 四季あらた
3/3

2.死

 人間はなぜ死ぬのか。

 男は病室で上を向いて考える。意味もなく、理由もなく考える。何を?分からない。萎んでいく脳細胞を客観視して、ひたすらに考え続ける。これから自分が向かう場所が一体どんなところなのか。その思考は、ピカピカの黒いランドセルを背負ってはしゃいでいる、3月31日の6歳児のようである。唯一違うのは、無垢であるか否か。

 心が綺麗であるか否か。

 心とは、歳を重ねるに連れ、少しずつ錆びていくものだ。鈍るとか、荒むとか、そういう状態ではなく、錆びる。

 口先で、「愛を込めて」、「心を込めて」。ふざけている。錆びきった包丁を使って料理を振る舞うようだ。一部のバカは、その錆びきった心に向けて投げられた刃をまともに受けて、胸の傷が痛い顔をしている。そういう人間は、もしかすると性根があまりにも無垢なために、不条理を許せず、傷を負うのかもしれない。みんなが同じく無垢であれば、刃を投げ合うこともないだろう。多くの人間は、ナイフ投げが投げたあの刃をまともに受けないように、一本ずつ避けていかなくてはならない。そうして避けているうちに、心は錆びついていくのだ。

 71年間、錆びた心でなかったら、きっと生きていけなかっただろう。


 いつ死ぬのだろうか。

 年を取れば取るほど、生死に対しての感覚が鈍っていく。それが生物たる物の本質なのか否かは分からないが、「今は生きてるからいいだろ別に」くらいしか考えられないのだ。思考の錆だろうか。

 点滴パックを見つめた。

 点滴パックに毒物でも入れれば、簡単に人を殺せる。

 別に誰かから殺されるかもしれないと思っているわけではない。そんな事を言いだしたら、命がいくつあっても足りない。男は可能性を考えただけだ。

 それだけのことである。


 先ほど大きな仕事を終えたばかりに、少し疲れが出たのだろう。目を瞑ると、どっと眠気が押し寄せ、男は眠った。


◇◇◇


 備が病院に着いたのは、一番最後だった。

 真っ先に駆け寄ったのは、執事の久米原孝志くめはらたかしだった。

「備様、旦那さまは先程……」

「いいよ、説明なんかしなくて。俺達の表情で察しろ。」

 久米原の言葉を遮ったのは政孝だ。

「何で一番遅いんだよ、お前。」

「……ごめん、マサにい。その、大事な商談があって、携帯の電源切ってて……さっきメッセージ見たんだ。」

「言い訳はいらねえよ。」

「そんな言い方ないだろマサ兄。」

 政孝の言葉を遮ったのは雄輔だった。

 政孝は感情的になりやすい、自分の考えに正直な人物だ。その一方で理知的な雄輔は、正直何を考えているのか分からない。どこか計算されているような気が、備にはした。

「マサ兄の気持ちは分かるけど、責めるのは違うだろ。」

「違くねえよ。」

 政孝の言うことはいつも同じだ。

 お前は福留家の人間じゃない。

 もちろん初めのうちは、福留家全員、備に対してあまりいい感情を持っていなかった。というよりは、どう接していいのか分からなかったと言う方が自然だろう。それでもだんだんと、打ち解けて、家族の一員になることができた。

 政孝を除いては。

 政孝は、備に嫉妬していた。

 理由の一つは、備の才能である。

 備は、人に好かれやすい気質のようだった。取引先には小さい会社でも会いに行き、時折顔を出し、社長自ら現場に顔を出したり、食事を共にしたりすることも珍しくなかった。それもあってだろうが、備は人に好かれた。

 一方の政孝はそうではなかった。

 彼を慕っている人間も確かにいる。しかし、自己中心的だったり、感情を表に出したりという性格が災いしたのか、多くの人から好まれる人材ではなかった。

 また備が、政孝の友人が経営する会社の不正を理由に取引を打ち切ったことも、政孝の備への敵意を強める一因となったようだ。


 父の遺体は、沈んでいく夕日に照らされて、淋しく見えた。

「この度は、ご愁傷様です。」

 涙は溢れてこない。

 父はもちろん、父だった。しかし、たった一人の父ではなかった。

 備には、父が二人いる。

 大きな沈没事故を起こし、元日に首を吊って責任逃れをした父。そしてその父に憧れて、その父が本来目指していた巨大財閥を作り上げた父。

 似て非なるものか。あるいは同じものか。

 死んだ父の前でこんなことを考えるのは違うだろう。しかしむしろ、備は父の死を悲しまなかった。あまり。

 父に抗うことは、基本なかった。なぜならば父が―福留家の方であるが―もし備の後見人になることを拒否していれば、備は行く宛がなかった。今のような生活を想像することすらなかったろう。借りにも命の恩人なのだ。

 その父が、今や肉塊となって眼の前にある。

「……顔、見ていいですか?」

 備は、いかにも悲しんでいる風を出すために、少し震えた声で言った。看護師の許可を得て、顔の布をめくった。

 青白い顔をして、口がほんの少し開けた、福留直孝がいた。

「突然痙攣(けいれん)し始めて、意識が混濁したご様子でした。手は尽くしたのですが……申し訳ありません。」

 院長であり、直孝の主治医であった関口医師が頭を下げる。

「いえ……父が今日まで、お世話になりました。」

 備も、穏やかな声で言った。


◇◇◇


『そうだったんだ……ご愁傷様。』

 口の悪い千晶にしては、優しい言葉を掛けてくれる。

「ごめんな、千晶。そういうわけで、ここ何日かは大石副社長に、会社任せるから。」

『分かった。会社の方は心配しないで。』

「うん。悪いな。」

『悪かないでしょ。それと……もし私にできることがあったら、何でも言って?秘書としても、友達としても。』

「分かった。ありがとう。本当に助かる。」

『落ち着いたら、また連絡して?』

「分かった。」

 そう言うと、備は電話を切った。

 食卓に戻ると、またも重苦しい沈黙が支配する。家族全員が揃ったのは、恐らく正月以来だろう。

「……あなたたち、仕事はどうなの?」

 口を開いたのは、母昭子(あきこ)だった。

「……私、商品統括部部長代理の内示があった。」

 未織がそれに答える。

 未織は、福留ライフスタイルのスーパー事業部門商品統括部精肉課の課長だ。フレッシュリンクという名前のスーパーマーケットを展開している福留ライフスタイルスーパー事業部門は、傘下を合わせればおよそ8万人が関わっている。

 商品統括部は、商品の輸出入や仕入れ、棚卸しなどを一手に引き受ける部署で、精肉課は肉を扱っていると思えばいい。未織に聴けば、今の肉市場はすぐに分かる。ちなみに今日食卓に出ているのは、未織が懇意にしている牧場から直に仕入れたA5ランクの黒毛和牛だ。

 未織の言葉に一番に反応したのは、政孝である。

「そっか。おめでとうな。」

「ちゃんと昇進じゃん今度は。よかったね。おめでとう。」

 精肉課課長の職に不満を持っていた未織のことを思い出してか、絢音も祝福した。未織は酔いが回ってきたのもあってか上機嫌だ。

「福留地所は、再来月からマレーシアのアンバナ市開発が本格的に始まります。現在はイブラヒム市長と計画のディテールを打ち合わせている段階です。」

 熊谷克哉くまがいかつや。未織の夫だ。彼は福留地所の社長取締役である。未織と結婚したのは3年ほど前。日焼けした肌が印象的な、健康的な好青年だ。備の義理の弟だが、彼のほうが歳上なため、お互いに敬語で話している。

 克哉はワイングラスの枝の部分を適当に弄っている。

「俺は、来週からサウジアラビアに出張だ。ナディール顧問と会う。」

 雄輔は福留商事石油担当常務取締役である。顧問というのは、サウジアラビアの石油の利権の30%を掌握するアル=ノール・ペトロリウム・コーポレーションの顧問ナディール・アル=ラシードのことである。今や日本の石油事業に大きく関与する会社へと成長した福留商事、福留グループにとって、ナディールは生命線である。

 雄輔はワイングラスを呷ると、言葉を続けた。

「先月、アル=ノールがシャディグ油田の利権を取ったらしいから、その石油を完全に福留商事うちに回してもらえるように、交渉に行くつもりだ。」

 無愛想に言って、雄輔は口を閉じた。

「……しかしな、お前がナディール顧問と話せる立場になるなんてな。ちょっと不思議だよ。兄貴としちゃ。」

「そういうマサ兄は何かあったの?」

「こういうのは兄貴が最後に締めるんだよ。絢音から言えよ。」

 絢音がくすりと笑い、それから得意げに言う。

「佐渡白島近海でブルーガスが大量に発見された。明日資源エネルギー庁に報告して、会見が明日。私は明日付けでブルーガス開発の子会社の社長に就任する予定。」

「俺も明日会見だ。」

 雄輔が横から言う。絢音は、次だよと言うように備に視線を送った。

「……福留船舶は……」

「みんな、上向いてて安心だよ。」

 政孝が備を遮った。

「マサ兄。備のも聴いてあげないと。」

「あぁ……おお……備は?」

「サンフランシスコにあるエドフォード社との契約がまとまりました。来月から3隻船を出します。」

「エドフォードと?」

「やるじゃない、備くん。」

 熊谷夫婦が始めに、あまり心のこもらない褒め言葉をかけた。絢音以外の《《福留家の人間》》は、皆備のことを、「備くん」と呼ぶ。

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