1.事の始まり
――2025年9月30日。
都内にある関口総合病院の特別個室には、71歳の男が入院していた。
男は、余命宣告されてから1か月以上が経っている。自分の死が間もなくであることを悟っており、暴れることも逃れようとすることもせず、ただただ、来るその日を胡座でもかくかのように堂々と待っている。病院のベッドは少し硬いが、枕はかえって柔らかい。自宅の羽毛布団のほうが寝心地はいいが、ここにいれば誰かから命を狙われてその時が早まるようなことはない。
「福留さん、娘さんがいらしてますよ。」
美人の看護師もいる。
「未織か?」
「えっと……福留、彩音さん?っておっしゃってました。」
あいつか。男は舌を鳴らす。
男には、子供が4人いた。彩音は3人目の子供だった。
「……福留さん?」
「……君、いくつだ?」
「女に年齢を訊くのは失礼ですよ?」
「いいから。」
男はねだるように言うと、看護婦――もとい看護師は、今年で30ですと答えた。彩音と同い年だ。
「そうか、30か。」
「なんでそんな事訊くんですか?」
「いや……」
男は一瞬物思いにふけった。それから、「通してくれ」とだけ短く言う。「分かりました」と彼女は言い、部屋を出ていった。ドアが開いて、ハイヒールのコツコツという音が聞こえてきたのは数十秒後だ。
「お父さん?」
「彩音か。」
「元気そうだね。」
「そう見えるか。」
「思ったよりは。」
短く会話を層のように積み重ねれば、口を交わす数だけは多くなる。
丸椅子を引っ張り出して荷物を置くと、彩音は1人用の椅子に腰掛けた。腹立たしいことに、客人用の椅子のほうが、ベッドよりよっぽど居心地がいい。
「さっき、江越先生とすれ違った。」
しばらくの沈黙の後、彩音が口を開く。
「さっきまで会ってたからな。」
「遺書、作ってたんでしょ。遅くない?」
「そんなに気になるのか、俺の遺産が。被相続人を殺したら未遂でも相続権は無くなるからな。」
「そういうことじゃなくてさ。遅いって言ってるだけ。お父さんの悪い癖だよ。」
「年を取ると鈍くなるってもんだ。」
男は適当に誤魔化したが、本当はぐうの音も出ないのだ。ぐうの音が出ないから、誤魔化したのだ。
「……余命、1ヶ月だっけ。」
「ああ。」
「私の結婚式までは生きててほしかったな。」
「別にいいよ。出ないで。お前の花嫁姿なんかより、未織の方が綺麗だろうしな。」
「未織と比べるの止めて。ちょっと傷つく。」
仲が良いわけではない。
腹の中を探っているだけだ。
宮水遼一。福留開発の常務取締役である。まだ33歳。若いが有能で、次男雄輔の友人らしい。慶應義塾大学総合政策学部卒。「こいつは絶対に会社の役に立つ」と熱弁を振るわれ、数少ないコネ枠にねじ込んだ。メキメキと頭角を現している。
彩音と付き合っていると知ったのは、昨年冬のことだ。「遼一さんと付き合っている」と唐突に言われ、その時は「そっか」程度であったが、いつの間にか結婚式の話をし始め、訊いてみると「プロポーズされた」である。日取りを決めてから余命宣告されたものだから、「俺1ヶ月ちょっとで死ぬぞ」と突っ慳貪に言った。彩音は口では「結婚式までは生きててほしかった」と言っていたが、本当のところはどうかは分からない。
それでも、性根が荒みきっている福留家の中で、最も普通であるのは、もとい、最も心の底が綺麗なままなのは、彩音であるのかもしれない。
「……一つ、頼めるか。」
◇◇◇
『親父もそろそろ、危ないんじゃないか?』
福留政孝は、弟の備に電話していた。昼過ぎのことである。
「……父さん、そんなに良くないの?」
『お前、興味ないのかよ。仮にも福留家の人間だろうが。』
仮にもってなんだ。ちゃんと福留家だ。
「……ごめん。」
『さっき彩音が病院から帰ってきたよ。あの顔じゃ……長くはねえだろうな。』
政孝は、福留家の長男である。福留重工の常務取締役で、対する備は福留船舶の社長である。会社の規模としては重工の方が断然大きい。何しろ「御三家」の一社である。御三家というのは、福留ファイナンス、福留重工、福留開発の三社だ。
それでも政孝は、どういうわけか備にあたりが強い。
「……長くないか。」
『お前も見舞いに行ったほうがいいんじゃないか?こんな俺を養子にしてくれてありがとうとか、言う事いっぱいあんだろ。』
そういうと政孝は電話を切った。
備は一つ大きなため息をついて受話器を置く。ドアをノックする音が聞こえたのはその時だった。
「失礼いたします。」
入ってきたのは、秘書の直嶋千晶だ。
「どうした?」
「社長、三英広報の伴さんがいらっしゃっています。」
「そうだった……今からか。」
備は憂鬱そうに椅子にもたれかかる。
先日、福留船舶の所有する船で荷崩れがあった。乗せていたのはキクチ製紙の紙で、当然グシャグシャになった紙はもろとも処分である。社長の菊池は、「次は頼むよ?」と菓子折り一つで許してくれたが、伴はそうにもいかなかった。
伴謙太郎は、企業スキャンダル好きの厄介な記者である。業界をうろちょろしてあっちこっちでリコール隠蔽だとか不正献金だとか、はたまた社長が若い女の子を捕まえてパパ活してましたというような記事を載せてはニヤニヤしている、企業からすればクソみたいな男である。今回も、「荷崩れの原因は現場作業員が積込作業中に喫煙しながら作業していたからだ」という情報をどこかから聞きつけ、今日こうしてアポを取ってやってきているのだ。
「……出かけてるって言ってほしい。」
「駄目に決まってるでしょ。」
突然千晶は喝を入れた。
「怖っ……」
「流石にもう断りきれないって。」
「……高校の頃からなんも変わってないな。」
「ふざけてないで。早く通せって言って。」
備は軽く舌打ちをした。千晶を会社に誘ったのは、備がコネで内定をゲットする少し前だ。一緒に船の仕事をしようと声をかけると、備いわく「狂ったように」了承した。腐れ縁だ。
「分かったよ。通して。」
ニコっと笑うと、「はい社長」と言って部屋を出ていく。一人オフィスチェアにもたれかかり、ボテッと息を投げ出す。
人間、色々あると自動的にため息が増えるシステムとなっているらしく、備は当然のように、ここ半月以上何回もため息をしている。
「やっと会えましたね社長。」
「ごめんなさい、時間が取れなくて。」
「ご自分が年下だって分かってますか?」
「……失礼しました。」
二回りほど年上の伴は、完全に備を舐めてかかっている。この若造がと腹の底で思っているのか。それとも福留の血族ではないからなのか……
血筋のことを言われると、備は何も言えなくなる。実の父のことは……
「じゃあ質問させてもらいますけど、現場作業員が煙草を吸いながら作業していたって知ってますか?」
伴は許可も取らないでボイスレコーダーを回し、尋ねる。
「そんなはずがありません。」
「ほお、毅然と。」
伴は笑いながら言った。
「備さん。」
伴は胸ポケットに手を突っ込む。
伴は絶対に備のことを「福留社長」とか「備社長」とは呼ばない。「備さん」と呼ぶ。
「これね、現場作業員のMさんからの証言です。『本来勤務中は禁煙であるにも関わらず、社員複数名が作業中喫煙をしていた。飲酒している作業員もいた』とのことで。どう思います?」
「まずMって誰です?」
「備さんは守秘義務ってご存知ですか?」
「伴さん、どこから聴きつけたんですかその情報。」
「その言い方傷つくなぁ。ありもしない情報をでっち上げたみたいに。」
「私としてはそうであった方がいいですから。」
伴は口端を釣り上げると、写真を備にポイと渡した。
「これね、そのMさんが撮ってくれた写真です。現場の作業中。9月29日ですから田坂工業の精密機械積込の時ですよね。喫煙はまずいんじゃないですか?」
伴は現場作業員の数名を指さした。なるほど、談笑して煙草を吸いながらクレーンを操作している作業員が複数名写っている。
備はため息をついた。
「……直嶋さん、この写真に写っている人の名前全員割り出してください。即刻解雇します。」
「かしこまりました。」
千晶は一礼してから部屋を出ていく。
「懸命なご判断だと思いますよ。」
伴はボイスレコーダーのスイッチを切った。
「あとね、これはご家族の話ですから、録音はしませんが……」
伴はそう前置きすると、備に顔を近づける。
「大丈夫なんですか?義理のお父様。」
「今のところは2、3日で死ぬというわけではなさそうです。父も元気そうだったと姉から聴いています。」
「それは良かった。お大事になさってくださいね。義理のお父様のこと。」
伴は終始馬鹿にしたような表情のまま、ペコッと形式だけのお辞儀をして部屋を出ていった。
一気に緊張が解けた室内で、備は彼らしくもなく、苛立ちを込めてソファを軽く蹴飛ばした。
◇◇◇
『備へ
元気してるの?しばらく顔見てない気がするけど。
お父さんに会ってきた。今のところそこまで悪くはなさそうだけど、余命が短いのには変わりないから、なるべく早く遭ってあげたほうがいいと思う。お父さんが好きな餡蜜、持っていってあげたら?お父さん、備のことちゃんと認めてるし、息子だと思って接してくれてる。20年以上立ってるのに今さら養子とか実子とか関係ないよ。
お父さんも、会いたいって思ってるよ。
会ってあげて。っていうか、遭いなさい。いいね。 彩音』
福留商事エネルギー開発事業部部長ともあろう人が、「会う」を「遭う」と、「経つ」を「立つ」と書き間違えるというのはいかがなものか。
備は今、関口総合病院の入口で立っている。
ニール・アームストロングは1969年、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが」と始まる名言を残した。大概がそうである。
大概の一歩は、大抵小さなものだ。人類の大きさとはたかが知れている。踏み出せる一歩の歩幅もだ。
大切なのは、その一歩が持つ意味である。ひいては私たちが、その一歩にどのような意味を与えるかだ。
「……人類にとっては大きな飛躍……」
備は座右の銘をボソリと呟くと、一歩を踏み出した。
「すみません、福留直孝の息子です。父の病室はどこですか?」
ナースステーションで一人に声を掛けようとしたそのときだった。
「申し訳ありません、福留備さんでお間違いありませんか?」
男から声を掛けられた。
振り向くと、男を観察する前に少し曲がっていたネクタイを直され、スーツの襟を整えられた。
「すみませんね、こういうの、気になるもので。」と言って手を引っ込めると、今度は名刺を渡された。
「綾間法律事務所 弁護士 綾間煌大」
年齢は30代後半。清潔感がある。少し癖のある髪型。ベージュのスーツは備が着ているそれよりも庶民に優しいブランドだった。一方で濃い色の
「弁護士の、方ですか?」
「お父上の直孝様とは大変懇意にさせていただいております。」
「父には顧問弁護士がついているはずです。」
「江越悦啓先生のことですね。先生とはすることが異なります。」
「父の見舞いに来たんです。要件は手短にお願いできますか?」
「直孝様は今誰とも会わないと申しておられました。要件はですね……ちょっとここじゃあ人が多すぎますね。」
綾間はそう言うと、備を病院から連れ出した。
「どっか入りましょうか。私出しますから。」
一方的に決めると、しっかり人一人分くらいの間を備との間に空けて綾間は歩き出した。




