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『リトル・ボスと、日曜日のダメ親父』

『私を「おばさん」と呼んだ世界へ、愛を込めてさようなら』外伝

 日曜日の昼下がり。  私は、駅前の少しレトロな喫茶店で、スマホの通知と睨めっこしていた。  私が広報担当として運用している『シャドウ・ワーク・バスター』の公式SNSに、また通知が来ている。「佐伯社長のインタビュー記事、読みました! 勇気が出ました」という引用リツイートが止まらない。

「……相変わらず、ママ……ううん、社長は人気者ね」

 私は苦笑して、アイスコーヒーを一口飲んだ。  大学を卒業して、母の会社に入って二年。  最初は「コネ入社」と陰口を叩かれるのが嫌で必死だったけれど、今では「リトル・ボス」なんてあだ名がついているらしい。母譲りの負けず嫌いと、少しばかりの毒舌が遺伝してしまったせいだ。

「悪い、待たせたな」

 向かいの席に、息を切らせて男の人が座った。  父、佐伯修一だ。  白髪が少し増えたけれど、以前のような疲れきった顔色はしていない。ただ、着ているポロシャツの第二ボタンが掛け違っているあたり、詰めが甘いのは相変わらずだ。

「パパ、ボタンずれてるよ」 「えっ? ああ、本当だ。……いやあ、老眼で見えなくてな」

 父は照れくさそうに直しながら、メニューを開いた。 「愛理、何食べる? ここ、ナポリタンが美味いらしいぞ」 「私、もうお昼食べたから。コーヒーだけでいい」 「そうか……。じゃあ、俺だけ頼むかな」

 父との月一回のランチ。これは、両親が離婚してからの私の新しいルーティンだ。  以前、家にいた頃のパパは、いつも不機嫌で、私に「勉強しろ」「手伝え」と口うるさかった。  でも、一人暮らしを始めてからのパパは、驚くほど丸くなった。というか、弱くなった。

「あのさ、愛理。これ」  ナポリタンを待つ間、父が紙袋を差し出してきた。 「ん? 何?」 「いや、先週スーパーに行ったら安かったから。洗剤の詰め替え用と、お米券」

 中身を見て、私は吹き出しそうになった。  かつての父なら、誕生日でもない限りプレゼントなんてくれなかったし、くれたとしても自分の趣味の押し付けだった。  それが、生活必需品だなんて。

「ありがとう。助かるよ。一人暮らしだと洗剤すぐなくなるし」 「だろ? 俺も最近気づいたんだよ。洗剤って、思ったより早くなくなるし、詰め替え用は注ぎ口からこぼれるとベタベタして腹立つんだよな」

 父が真顔で語る「主婦あるある」に、私はなんだか可笑しくて、そして少し切なくなった。  三年前。ママが出て行った直後の父は、地獄の住人だった。  ママの会社に高い金を払って「教育」され、やっと人並みの生活力を身につけた。  その背中には、もう「威厳」なんて欠片もないけれど、代わりに「生活」の匂いがする。

「……パパ、自炊してるの?」 「ああ。昨日はカレーを作ったんだが、ジャガイモが生煮えでな。ガリガリいったよ」 「レンジで先にチンしてから煮込むといいよ。時短になるし」 「へえ! さすがだなあ。やっぱり母親に似て器用なんだな」

 母親に似て。  その言葉に、私は心の中で首を振った。  違うよ、パパ。  私は器用なんかじゃない。  あの時、ママに「甘えるな」って突き放されたから、必死で覚えただけ。  パパと一緒に、ママという「無料のサービス」にぶら下がっていた自分を殺すために、必死で変わっただけなんだよ。

「……社長は、元気か?」  ナポリタンをフォークに巻きつけながら、父が遠慮がちに聞いてきた。  名前を呼ばず「社長」と言うのが、二人の間の絶対的な距離感を示している。

「元気よ。今は新しい本の執筆で忙しいみたい。来月は海外視察だって」 「そうか。……すごいなあ、あいつは。俺の手の届かない場所まで行っちまった」

 父の言葉には、嫉妬ではなく、純粋な称賛と、少しの諦めが混じっていた。   「パパは? 寂しくない?」  私が聞くと、父は口元のケチャップを拭って笑った。 「寂しいさ。広い家に一人だからな。でもまあ、気楽でもあるよ。自分で汚した皿を、好きなタイミングで洗えばいいんだからな。誰にも怒られない」

 それは強がりかもしれない。  でも、今のパパは、昔のように「誰かのせい」にして不機嫌になることはない。  不完全で、不器用で、ちょっと寂しいけれど、自分の足で立っている。

 私は、洗剤の入った紙袋をぎゅっと握った。  完璧で眩しいママも好きだ。  でも、失敗しながら「生活」と格闘している今のパパも、昔よりはずっとマシだと思う。

「ごちそうさま。じゃあ私、午後から仕事だから」 「お、そうか。頑張れよ。……無理するなよ」

 駅の改札で別れる時、父の背中が小さく見えた。  私はスマホを取り出し、母にメッセージを送った。

『パパと会ってきたよ。生煮えのカレー食べたんだって。相変わらずだけど、元気そうだった』

 既読はすぐについた。  返信は一言だけ。

『そう。生煮えも経験よ。貴方はちゃんと夕飯食べなさいね』

 私は思わず笑ってしまった。  やっぱり、この人には敵わない。    私はヒールの音を響かせて改札を抜けた。  私の中には、ママの強さと、パパの不器用さが半分ずつ流れている。  時に転び、時に失敗するかもしれないけれど、それでも私は私として生きていく。

「よし、午後も稼ぐぞ!」

 私は小さくガッツポーズをして、オフィスへの道を急いだ。  日曜日の青空は、どこまでも高く澄み渡っていた。


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