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私を「おばさん」と呼んだ世界へ、愛を込めてさようなら

第5章:名前のない家事に、値段をつけましょう


「家事代行一時間、二五〇〇円? ……安すぎるわ。やり直し」


 ホワイトボードに書かれた数字を見て、私は即座に却下した。  プロジェクトルームには、またしても重苦しい沈黙が流れた。マーケティング担当の若手社員がおずおずと口を開く。 「で、ですが佐伯さん。競合他社の相場はこれくらいです。これ以上高くすると、ユーザーがついてきません」


「貴方たちが売ろうとしているのは『掃除』や『洗濯』でしょう? だから価格競争に巻き込まれるのよ」


 私は赤いマーカーを手に取り、ホワイトボードに大きく書き殴った。


 『名前のない家事』


「シャンプーの詰め替え。トイレットペーパーの芯を捨てること。排水溝のヌメリを取ること。裏返しに脱ぎ捨てられた靴下を表に返すこと。麦茶を作り足すこと……」


 私は社員たちの顔を見渡した。 「世の中の奥さんたちが本当に疲れているのは、掃除機をかけることじゃない。こういう、家族の誰も気づかない、でも誰かがやらなきゃ生活が回らない『見えない作業』の積み重ねなのよ」


 私は数字を書き換えた。  『名もなき家事・解消プラン:一時間 八〇〇〇円』


「は、八千円!?」  社員たちが悲鳴を上げる。「そんな高額、誰が払うんですか!」


「払うわよ。それだけの価値があるから」  私は断言した。 「このプランの売りは『作業』じゃない。『精神的な解放』よ。『もう、私だけがやらなくていいんだ』という安心感を売るの。キャッチコピーはこれ」


 ――貴方の時間を、家族の下請けにしないでください。


 レンが、口元に手を当てて静かに震えていた。 「……すげえ。市場の空白ブルーオーシャンだ。既存の家事代行は『物理的な労働』を売ってるけど、真希さんは『心の平穏』を売ろうとしてる」 「そういうこと。さあ、サイトのデザインも変えるわよ。キラキラした主婦の笑顔なんていらない。もっとシックに、プロフェッショナルな『執事』を雇うような高級感を出して」


 ***


 一週間後。  新サービス『シャドウ・ワーク・バスター』のリリース初日。  サーバーは、開始一時間でダウン寸前まで追い込まれた。


「申し込みが止まりません! 予約三ヶ月待ちです!」 「SNSでバズってます! 『これ、私のことだ』『泣けてきた』ってコメントが殺到してます!」


 オフィスは歓喜の渦に包まれていた。  私の読みは当たった。高額設定が逆に「自分の辛さはそれだけの価値がある重労働だったんだ」という、主婦たちの自尊心を刺激したのだ。


 私は喧騒から離れ、窓際で静かにコーヒーを啜った。  スマホの画面には、SNSのトレンド入りしたハッシュタグ『#名前のない家事』が並んでいる。  かつて、家庭という密室で、誰にも評価されずにすり減っていた私。その経験が今、数万人の女性を救い、そして大きな利益を生み出している。    ふと、窓ガラスに映る自分を見た。  疲れ切ったおばさんの顔ではない。仕事に燃える、一人のビジネスパーソンの顔がそこにあった。


 ***


 一方、都内の大学のカフェテリア。  娘の愛理は、スマホの画面を食い入るように見つめていた。


「ねえ愛理、これ見て。最近話題の『毒舌コンサルタント』の動画。めっちゃスカッとしない?」  友人が見せてきたのは、顔にモザイクがかかった女性が、散らかった部屋を一刀両断する切り抜き動画だった。


 『いい? 麦茶のポットが空なのに冷蔵庫に戻す行為は、次に来る人へのテロ行為よ! 恥を知りなさい!』


 愛理の心臓が、ドクンと跳ねた。  この声。この言い回し。そして何より、「麦茶テロ」という独特の表現。  ……まさか。


「いや、違うよね……」  愛理は震える声で呟いた。  だって、あの母親だ。家の中で小さくなっていた、地味で退屈なママだ。こんな風に、堂々と他人を叱り飛ばすような迫力があるはずがない。


 でも、動画の中の女性が着ている白いシャツ。あれは、愛理が去年「ダサい」と言って着なかった、お下がりのシャツに似ている。


「ママ……?」  家に帰っても、ママはいない。  最近、パパは毎日不機嫌で、家の中は荒れ放題だ。昨日なんて、お風呂場の排水溝が詰まって水が溢れ、パパと大喧嘩になったばかりだ。


「ママみたいになりたくない」と言って突き放した。  それなのに、画面の中の「彼女」は、愛理が今まで見たどの大人の女性よりも、眩しくて、カッコよく見えてしまった。


 愛理は震える指で、その動画のアカウント『MAKI_Reboot』のプロフィール画面を開いた。  そこには、たった一言だけ、こう書かれていた。


 『人生の定休日、終了しました。現在、全力で営業中。』


 ***


 そして、運命のいたずらが動き出す。  私の元に、一件の「至急」の依頼メールが届いた。  依頼主の名前を見て、私は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。


 『依頼者:佐伯修一(48)』  『ご相談内容:妻が出て行ってから家が回りません。特に水回りと、衣類の管理が限界です。高額でも構いません、助けてください』


 夫だ。  まさか、自分が追い出した妻が作ったサービスとも知らずに、私の会社に「助けてくれ」と泣きついてきたのだ。


 私はパソコンの前で、悪魔のような笑みを浮かべた。 「……喜んでお引き受けしましょうか。特別料金スペシャル・プライスでね」



第6章:お客様は、元夫様


「うわ、なんだこの依頼。写真付きだけど……汚ねえ家だなあ」  私の背後からPC画面を覗き込んだレンが、顔をしかめた。 「『妻が出て行ってから、急に家が汚れ始めた。たぶん妻が呪いをかけたんだと思う』……本気で書いてんのか、こいつ? 呪いじゃなくて、単にオッサンがだらしないだけだろ」


 私は画面に映る、見慣れたリビングの惨状を冷静に見つめていた。  かつて私が毎日磨き上げていたフローリングは埃にまみれ、ソファには脱ぎ捨てられた靴下と、コンビニ弁当の殻が散乱している。


「ええ、だらしないわね。……これ、私の元夫よ」 「ブッ!!」  レンが飲んでいたエナジードリンクを吹き出しそうになった。「マジで!? じゃあ、これがあんたの家!?」


「元、ね」  私はキーボードに手を置いた。  怒りは湧かなかった。むしろ、可笑しかった。  彼は気づいていない。この『シャドウ・ワーク・バスター』というサービスが、彼が「息が詰まる」と言って切り捨てた妻のアイデアであることを。そして、今から彼を審査するのが、その妻本人であることを。


「レン、この案件、私が直接担当するわ。もちろん『総責任者・S』という名前でね」 「性格悪いなあ……。でも、面白そうだ。許可する」


 私はニヤリと笑い、返信メールを打ち始めた。


 ***


 その夜。荒れ果てた佐伯家のリビングで、修一はPCの前で唸っていた。  届いた返信メールの内容が、予想の斜め上を行っていたからだ。


『佐伯修一様  この度は当サービスへのお申し込み、ありがとうございます。  送付いただいた現場写真を分析いたしました結果、通常の「清掃プラン」では対応不可能と判断いたしました。  貴殿の住環境の崩壊は、汚れではなく「当事者意識の欠如」に起因しています。  よって、特別プログラム「生活再生・更生プラン」のみ、お引き受け可能です。  お見積り:月額 30万円(税別)』


「さ、30万!?」  修一は椅子から転げ落ちそうになった。家政婦を雇うレベルではない。新入社員の初任給より高いじゃないか。  彼は震える手で、怒りの返信を打った。 『ふざけるな! 掃除をするだけで30万もとるのか! ぼったくりだ!』


 返信は、わずか一分で返ってきた。まるで待ち構えていたかのように。


『掃除をするだけではありません。貴殿の「生活OS」をアップデートするのです。  写真3枚目を拡大してください。キッチンのシンクに、カップ麺の残り汁が流されていますね? その油汚れが排水溝を詰まらせています。  写真5枚目。脱衣所のカゴから溢れている洗濯物。ワイシャツと黒い靴下が混ざっています。これを一緒に洗えば、貴殿のシャツは灰色にくすみます。  ……これらを全て、以前は奥様が無言で処理されていたとお見受けします。  貴殿が30万円を支払うのが惜しいのであれば、ご自身で今すぐ排水溝のヘドロを手で掻き出し、靴下を手洗いしてください。それができるなら、契約は不要です』


 修一は言葉を失った。  画面の向こうにいる『総責任者・S』という人物は、なぜ写真を見ただけで、ここまで的確に現状を見抜けるのか。  まるで、この家の中に監視カメラでもあるようだ。


 ズキリ、と胃が痛む。  シンクからは腐敗臭が漂い、明日のシャツもない。自分でやる? あのヘドロを? 絶対に無理だ。  彼は敗北感と共に、キーボードを叩いた。


『……わかった。契約する。  ただし、完璧にやれよ。金をとるんだからな』


 再び、即座に返信。


『ご契約ありがとうございます。  なお、当プランは「スタッフが一方的に片付ける」ものではありません。  **「貴殿が二度と部屋を汚さないよう、チャットを通じて遠隔指導を行う」**ものです。  スタッフが訪問する前に、まずは指示通りに「自分のゴミ」を捨てていただきます。  従えない場合、違約金が発生しますのでご注意を。  ――総責任者・S』


 修一は冷や汗をかいた。  お客様扱いされない。まるで、厳しい家庭教師……いや、昔の妻よりも怖い何かに、首輪をつけられたような気分だった。


 ***


 翌日。  大学の講義の合間、娘の愛理は、父親から送られてきたLINEを見て首を傾げた。


『愛理、今日帰宅したら、自分の靴は靴箱にしまえ。玄関に出しっぱなしにすると、俺が怒られるんだ』


「……は? パパが?」  あの傲慢な父親が、誰に怒られるというのか。  愛理は不審に思いながら、SNSを開いた。例の『MAKI_Reboot』のアカウントだ。  新しい投稿がアップされていた。


 『本日のとある案件。  「妻が出て行って困っている」という男性からの依頼。  写真を見れば一目瞭然。彼は妻を愛していたのではなく、妻という名の「無料の高機能家電」を愛していただけ。  家電が壊れたら修理に出すように、私の会社に修理依頼が来ました。  ……ふふ。たっぷり修理費メンテナンスコストを頂戴して、人間になるまで教育して差し上げます』


 愛理の指が止まる。  状況が一致しすぎている。  パパの様子がおかしいのと、この投稿のタイミング。


「まさか……」  愛理は、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。  もし、この『MAKI』が本当にお母さんだとしたら?  お母さんは今、パパを……そして私を、遠くから冷ややかに見下ろして笑っているの?


「会わなきゃ」  愛理は立ち上がった。  パパは頼りにならない。この家の秘密を暴けるのは、私しかいない。  愛理は『MAKI_Reboot』のアカウントに、ダイレクトメッセージを送った。


 『はじめまして。貴女の整理術に興味がある女子大生です。  実は、どうしても相談したい汚部屋があって……私の実家なんですけど。  直接、お会いできませんか?』


 ***


 オフィスにて。  私はPC画面に届いた、娘からのDMを見て目を細めた。   「……あら、勘が鋭い子」  夫は鈍感だが、娘は違う。  私はコーヒーカップを置き、レンに声をかけた。


「社長、次のターゲットから接触があったわ」 「え、誰?」 「私の娘。……どうやら、母親狩り(マザー・ハント)に来るつもりみたい」


 私はDMの返信ボタンを押した。  逃げも隠れもしない。  四十五歳の私は、もう誰の顔色も窺わないのだから。


『ご依頼ありがとうございます。  喜んでお会いしましょう。――オフィスでお待ちしています』



第7章:「ママ」はもう、ここにはいない


 渋谷のオフィス街、その一角にある真新しいビルの三階。  エレベーターを降りた愛理は、その場の空気に気圧されて立ちすくんだ。


 ガラス張りのオフィスは、活気に満ち溢れていた。電話の音、キーボードを叩く軽快なリズム、そして社員たちの早口な議論。  愛理が想像していた「家事代行サービス」のイメージ――エプロン姿のおばさんたちが茶飲み話をしているような風景――は、そこには微塵もなかった。  ここは、戦場だ。ビジネスの最前線だ。


「お客様ですか?」  通りがかった若い女性スタッフに声をかけられ、愛理はしどろもどろになった。 「あ、えと、あのアポイントを……」 「女子大生のAiri様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 通されたのは、奥にある見晴らしの良い応接スペースだった。  ソファに座り、出された紅茶に手を伸ばそうとした時、カツカツカツ、とヒールの音が近づいてきた。  その足音のリズムだけで、愛理は背筋が伸びるのを感じた。自信に満ちた、迷いのない足音。


「お待たせしました」


 現れた女性を見て、愛理は息を呑んだ。  仕立ての良いネイビーのジャケットに、真っ白なワイドパンツ。髪はふんわりと巻かれ、上品なメイクが施されている。  顔の造作は、確かにお母さんだ。  でも、雰囲気がまるで違う。背中が丸まっていない。目尻に疲れがない。そして何より、その瞳が鋭く光っている。


「……ママ?」  愛理の口から、無意識にその言葉が漏れた。


 しかし、彼女――佐伯真希は、眉一つ動かさずにこう言った。 「ここでは『佐伯』と呼んでちょうだい。Airi様」


 真希は対面のソファに優雅に腰を下ろした。 「相談があるのよね? 実家の汚部屋について。一時間一万円のコンサル料が発生するけれど、お支払いは大丈夫?」


「ちょっと待ってよ!」  愛理は身を乗り出した。「何言ってるの? ママでしょ? なんでこんなところにいるの? パパも家も大変なんだよ! 洗濯物は溜まってるし、ご飯だってコンビニばっかりだし……早く帰ってきてよ!」


 一気にまくし立てる愛理。  真希はそれを、冷めた紅茶を眺めるような目で見つめていた。  そして、愛理が息切れしたタイミングで、静かに口を開いた。


「帰ってきて? ……どうして?」 「どうしてって、ママがいなきゃ困るからだよ!」 「誰が? パパが? あなたが?」 「両方だよ! 私、大学もあるしバイトもあるのに、家のことなんてできないよ!」


 真希は小さく溜息をついた。  その溜息は、愛理が子供の頃、おもちゃを散らかした時に聞いたものと同じだった。でも、今のそれは、もっと冷たく突き放すような響きを持っていた。


「愛理。あなた、二十歳よね」 「……そうだけど」 「私、二十歳の時にはもう働いて、一人暮らしをしていたわよ。貴方は『ママみたいになりたくない』って言ってたわよね。家の中に閉じこもって、家族の世話だけする人生は嫌だと」


 愛理が言葉に詰まる。  真希は鋭い視線を娘の目に突き刺した。


「でも、今の貴方は何? 自分で自分のパンツも洗わず、ご飯が出てくるのを口を開けて待っているだけ。私がいないと生活が回らないと泣き言を言う。……私よりもずっと、自立できていない子供じゃない」


「なっ……」  愛理の顔が真っ赤になる。「ひどい……。私だって頑張ってるよ! 大学行って、サークルもやって……」


「その学費も、生活費も、誰が出しているの? パパの稼ぎと、私が節約して捻出した貯金でしょう。貴方は『ママみたいになりたくない』と言いながら、私が敷いたレールのその一番安全な場所から、一歩も動いていない」


 真希はテーブルの上に一枚のタブレットを置いた。  画面には、修一から送られてきた「惨めなリビング」の写真が映っていた。


「パパはね、私にお金を払って、生活を管理されることを選んだわ。三十万円も払ってね。……貴方はどうする?」


 真希は初めて、ビジネスライクな表情を崩し、哀れむような笑みを浮かべた。 「パパと一緒に、私の部下にパンツを洗ってもらう? それとも、自分の足で立つ?」


 愛理は悔しさで唇を噛んだ。涙が滲んでくる。  ママは優しかった。いつも私の顔色を窺っていた。  でも、目の前にいるこの人は、私を「娘」として甘やかしてはくれない。一人の「ダメな女」として見下している。  それが、どうしようもなく悔しかった。


「……払わない」  愛理は絞り出すように言った。 「お金なんて払わない。パパと一緒にしないで」


「そう。じゃあ、どうするの?」


 愛理は涙を拭い、真っ直ぐに真希を睨みつけた。  その強い眼差しを見た瞬間、真希の瞳の奥に、微かな光が宿ったことに愛理は気づかなかった。


「私がやる。パパの面倒なんか見ない。自分のことは自分でやる。……だから、見ててよ。ママなんかいなくても、私、絶対にかっこいい女になってやるんだから!」


 愛理は席を立った。 「二度と『帰ってきて』なんて言わない。さようなら、佐伯さん!」


 捨て台詞を残し、愛理は部屋を飛び出した。  ドアが閉まる音が響く。


 残された真希は、ふう、と深く息を吐き、ソファの背もたれに体を預けた。  その手は、わずかに震えていた。


「……合格よ、愛理」


 そこへ、奥の部屋からレンが顔を出した。 「いやー、厳しいねえ。実の娘にあそこまで言う?」 「甘やかしたら、あの子は一生『誰かの付属物』で終わるわ。今が変わり目なのよ」


 真希は愛理が口をつけなかった紅茶を見つめた。 「あの子、私に似て負けず嫌いだから。きっと化けるわよ」 「そりゃ楽しみだ。……で、旦那の方はどうする? こっちは全然化けそうにないけど」


 レンが見せたタブレットには、修一からのチャットが表示されていた。  『Sさん、ゴミの分別の仕方がわかりません。マニュアルを送ってください』


 真希の表情が、瞬時に「鬼軍曹」に戻った。 「……あの男は、まだまだしごきが足りないみたいね。よし、次のフェーズに移るわよ」



第8章:夫の卒業式


 その日、佐伯修一は三ヶ月ぶりにクリーニング仕立てのスーツに袖を通していた。  場所は、都内の高級ホテルのラウンジ。  彼はソワソワと腕時計を見ながら、ネクタイの結び目を直した。


「……よし、完璧だ」


 この一ヶ月、『総責任者・S』の指導は地獄だった。  毎朝、ゴミ箱の中身を写真で報告させられ、冷蔵庫の賞味期限切れドレッシングを捨てるたびに「決断力が向上しました」と褒められる。  まるで犬のしつけだ。  だが、不思議と悪い気はしなかった。Sの言葉は厳格だが、論理的で、自分のダメな部分を的確に言語化してくれる。    (妻の真希は、ただ不機嫌に黙るだけだった。だがSさんは違う。俺を導いてくれる)


 修一は勘違いをしていた。Sこそが、自分が求めていた「理想のパートナー」ではないかと。  だから今日、プログラム終了の報告にかこつけて、直接会う約束を取り付けたのだ。あわよくば、彼女を引き抜いて、我が家の家事全般、いや、人生のパートナーとして……。


「お待たせいたしました」


 背後から、凛とした声が聞こえた。  修一は満面の笑みを作って振り返った。 「いやいや、こちらこそ無理を言って……え?」


 言葉が、喉の奥で凍りついた。  そこに立っていたのは、見知らぬキャリアウーマンではなかった。  洗練されたベージュのセットアップを身に纏い、自信に満ちたオーラを放つ女性。  かつて自分が「影」と呼び、「つまらない」と言って切り捨てた妻。


「……ま、真希?」


 彼女は優雅に微笑み、対面の席に座った。 「こんにちは、修一さん。……いいえ、『会員番号0048番様』とお呼びした方がいいかしら?」


「は? な、なんで君が……。僕はSさんと待ち合わせを……」 「私がSよ。『Shadow Work Busterシャドウ・ワーク・バスター』の代表、Saeki。だからS」


 真希はウェイターにアイスティーを注文すると、修一を真っ直ぐに見据えた。 「修一さん、貴方がこの一ヶ月、毎日チャットで相談し、励まされ、そして高額な料金を支払っていた相手は、私よ」


「な……」  修一の顔が、赤から青、そして白へと変わっていく。  混乱が脳内を駆け巡る。  あの厳しいダメ出しも? あの優しい「よくできました」というスタンプも? 全部、真希が?


「ば、馬鹿にするな! 俺は三十万も払ったんだぞ! それが全部、君の懐に入っていたっていうのか!?」 「ええ、そうよ。おかげで会社の利益が出たわ。ありがとう」


 真希は悪びれもせず、涼しい顔で答えた。 「でも、貴方も得をしたはずよ。一ヶ月前、ゴミ屋敷で膝を抱えていた貴方はもういない。今の貴方は、自分でゴミを分別し、洗濯機を回せるようになった。……私が二十年かけて貴方に望んで、一度も叶わなかったことが、たった三十万のビジネス契約で実現した。皮肉なものね」


「ふざけるな! 詐欺だ! 金を返せ!」  周囲の客が振り返るほどの声で、修一は怒鳴った。  しかし、真希は動じない。むしろ、その瞳は氷のように冷ややかだった。


「詐欺? 契約書をよく読みなさい。サービス提供者の正体に関わらず、成果が出れば報酬は発生すると書いてあるわ。……それに」


 真希は、バッグから一枚の書類を取り出し、テーブルの上に滑らせた。  緑色の紙。  離婚届だった。こちらの署名欄には、すでに美しい文字で『佐伯真希』と書かれている。


「これは……」 「卒業証書よ、修一さん」  真希は穏やかに告げた。 「貴方はもう、一人で生きていける。靴下も洗えるし、コンビニ弁当のゴミも捨てられる。もう『お母さん役』の妻はいらないでしょう?」


「ま、待てよ」  修一の手が震えた。  目の前の真希は、昔よりもずっと綺麗だった。生き生きとしていた。  自分が捨てたはずの女が、自分の知らない場所で輝き、そして自分を完全にコントロールしていた。  その事実に圧倒され、怒りよりも先に、強烈な喪失感が襲ってきた。


「やり直そう、真希。俺が悪かった。君の能力を認める。俺には君が必要だ。Sさんとしてでもいい、家に戻って……」


「お断りします」  食い気味に、真希は言った。  その声には、一ミリの未練もなかった。


「私、今が一番楽しいの。自分の能力が、正当な対価で評価される世界。貴方の『無料の家政婦』に戻るつもりは一切ないわ」


 真希は立ち上がった。  アイスティーには口もつけていない。


「その届、明日までに出しておいてね。もし出さなかったら、貴方が私に送ってきた『泣き言メッセージ』のログ、全てネットに公開するオプションを行使することになるから」


「……鬼か、君は」 「いいえ、プロの経営者よ」


 真希はニッコリと笑った。それは、かつて見せたことのない、最高に爽快で、残酷な笑顔だった。


「さようなら、修一さん。貴方のこれからの人生、セルフサービスで頑張ってね」


 ヒールの音を高く響かせて、真希はラウンジを出て行った。  一度も振り返らなかった。


 残された修一は、緑色の紙と、手付かずの伝票を見つめて呆然としていた。  広いラウンジの天井が、やけに高く、寒々しく感じられた。  彼は知ったのだ。  自分が捨てたものが、ただの「おばさん」ではなく、かけがえのない「パートナー」だったことを。  そして、それに気づいた時にはもう、彼女は遥か彼方へ飛び去ってしまった後だったことを。


最終章:人生の午後、快晴なり


 フラッシュの白い光が、連続して私の視界を染める。


「いいですね、佐伯社長。その『余裕』のある笑顔、最高です!」


 カメラマンの掛け声に合わせて、私は軽く顎を引いた。  都内のスタジオ。今日はビジネス誌『AERA』の表紙撮影だ。特集タイトルは『令和の働き方改革――シャドウ・ワークに革命を起こした女性たち』。


 メイクルームに戻り、鏡の中の自分と対面する。  四十八歳になった。  目尻には笑いジワが増えたし、白髪も少し混じっている。けれど、今の私は、二十代の頃のツルツルした顔よりも、この「戦ってきた証」が刻まれた顔の方が好きだ。


「お疲れ様、マダム。相変わらずカメラ映えするねえ」


 控え室のドアから、レンが顔を出した。手にはテイクアウトのコーヒーが二つ。  彼は相変わらずパーカー姿だが、その素材は少し上質なものになっている。   「『マダム』はやめてって言ってるでしょ、副社長。それに、貴方こそ昨日の会議でまたデスクを散らかしてたわね。私の目が届かないと思ったら大間違いよ」 「うげっ、バレてたか。……まあ、あんたがいないと俺の人生、またゴミ屋敷に逆戻りだからな。一生頼むよ、パートナー」


 レンが手渡してくれたコーヒーを受け取る。  彼とはあれから、恋人のような、弟のような、そして戦友のような、名前のつかない関係を続けている。  結婚という形にはこだわらない。お互いが一番輝ける距離感で、支え合う。それが今の私にとって一番心地よい「愛」の形だ。


 そこへ、ノックの音がして、スーツ姿の若い女性が入ってきた。 「社長、次のアポイントのお時間です。……あ、お母さん、リップずれてる」


 娘の愛理だ。  彼女は大学卒業後、大手商社に就職したが、一年で「やっぱりママの会社の方が面白そう」と言って転職してきた。今は私の会社の広報として、私以上に厳しくスケジュールを管理している。


「あら、ありがとう。……愛理、今の仕事は楽しい?」 「うん。大変だけどね。でも、誰かにやらされる『お手伝い』じゃなくて、自分で選んだ『仕事』だから」


 愛理はクリップボードを抱え、凛とした瞳で笑った。  かつて「ママみたいになりたくない」と言っていた娘は今、私の背中を追いかけ、そして追い越そうとしている。   「そういえば」と愛理が言いづらそうに口を開いた。 「パパから連絡あったよ。『雑誌、見たよ。元気そうでよかった。俺も最近、やっと自炊のレパートリーが増えた』だって」


「そう。……頑張ってるみたいね」  私の心は、さざ波ひとつ立たなかった。  憎しみも、未練もない。ただ、遠い親戚の近況を聞いたような、穏やかな無関心だけがあった。  彼は彼の人生を、私は私の人生を。それぞれの場所で、それぞれの責任を負って生きていく。それでいい。


 ***


 撮影を終え、私はオフィスのテラスに出た。  眼下には東京の街が広がっている。  三年前のあの日、雨の中で泣き濡れていた私が、今はこうして空を見上げている。


 四十五歳は、人生の「崖っぷち」なんかじゃなかった。  あれは、不要な荷物を捨てて、翼を広げるための「助走台」だったのだ。


 風が吹いた。  かつて私を縛り付けていた「妻」や「母」という役割の鎖はもうない。  もちろん、これからも大変なことはあるだろう。仕事のトラブルも、老いの悩みもやってくる。    でも、大丈夫。  私には、自分で選んだ服がある。  自分で稼いだお金がある。  そして、自分の足で立つ誇りがある。


 私は大きく息を吸い込み、青空に向かって心の声で語りかけた。


 ――さあ、次はどこへ行こうか。  人生の午後は、まだ始まったばかりだ。  天気は快晴。視界良好。


 私はヒールの音を高く鳴らし、新しい仕事が待つ会議室へと歩き出した。


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