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私を「おばさん」と呼んだ世界へ、愛を込めてさようなら

第1章:二十年目の定休日


 四十五歳の誕生日は、最悪の天気とともにやってきた。  窓を叩く激しい雨音が、私の心の中の嵐とシンクロしているようだ。目の前のダイニングテーブルには、私が朝から四時間かけて煮込んだビーフシチューが冷めかけている。


「……で、つまり、どういうこと?」


 私が絞り出した声は、驚くほど冷静だった。  対面に座る夫・修一は、視線を私の眉間あたりに固定したまま、まるで会社のプレゼンでもするように淡々と言った。


「だから、お互いのために『卒業』しようって言ってるんだ。真希、君は完璧な主婦だよ。家事は完璧、料理も美味い。でもね、君といると息が詰まるんだ。君には『君自身』がない。二十年間、僕と娘の影でしかなかっただろう?」


 影。  その言葉が、胸の奥に鋭く刺さった。  私は影だったのか。夫のワイシャツの襟汚れを落とし、娘の栄養バランスを考え、家計簿の十円のズレに目を光らせていたあの日々は、ただの「影」の作業だったのか。


 その時、リビングのドアが開き、大学二年の娘・愛理が入ってきた。彼女は重い空気を察しても、スマホから目を離さない。 「パパ、ママ、修羅場? 私、今日彼氏と泊まるから帰らないね」 「ちょっと愛理、今は大事な話が……」 「どうせパパの浮気か、ママの過干渉でしょ? どっちも重いんだよ。私、ママみたいに家の中に閉じこもって年取る人生、絶対嫌だから」


 バタン、とドアが閉まる音。  その乾いた音が、私の中で何かのスイッチを弾いた。  プツン。と、糸が切れる音がした。


 私は立ち上がった。 「……わかったわ」 「え?」  修一が驚いた顔をする。私が泣いてすがるとでも思ったのだろうか。


「卒業、受理します。ただし、退職金はいただきますよ」 「た、退職金?」 「二十年間の家事労働、時給換算して請求させていただきます。それと」


 私は冷めたビーフシチューの鍋を掴むと、流しにザバッと豪快に空けた。 「このシチュー、最高級の牛肉を使ったの。貴方の稼ぎじゃなくて、私が独身時代に貯めていたヘソクリで買ったお肉。だから、貴方が食べる権利はないわ」


 唖然とする夫を放置して、私は寝室へ向かった。クローゼットを開け、一番大きなスーツケースを取り出す。  服? いらない。今の私に似合う服なんて、ここには一着もない。  私が詰め込んだのは、通帳と印鑑、そして二十年前に封印した、一本の万年筆だけ。


「真希、どこへ行くんだ!」  慌てて追いかけてきた夫を、私は玄関で振り返って見据えた。四十五歳、人生の午後。雨はまだ降っているけれど、私の視界はかつてないほどクリアだった。


「定休日よ」 「は?」 「『お母さん』も『奥さん』も、今日で廃業。これからは、佐伯真希としての人生を開業します。探さないで。……いいえ、せいぜい後悔して探しなさい。その頃には私、貴方の手の届かない場所にいるから」


 傘もささず、私は雨の中へ飛び出した。  冷たい雨が頬を打つ。化粧が落ちていくのがわかる。でも、それは惨めな涙ではなく、私を覆っていた古い殻を洗い流す、浄化の雨のように感じられた。


 ポケットの中には、全財産五万円とスマホだけ。  行き先は決まっていない。  けれど、私の胸の奥では、二十年ぶりにマグマのような熱いものがフツフツと湧き上がっていた。


 見ていなさい。  この崖っぷちから、私がどうやって華麗に舞い上がってみせるか。  四十五歳、佐伯真希。逆襲のゴングは、今、鳴らされたのだ。



第2章:汚部屋の王様と、毒舌のシンデレラ


 勢いで家を飛び出したものの、現実は甘くなかった。  ビジネスホテルに三泊もしないうちに、私の虎の子の五万円は底をつきかけていた。


 四日目の昼下がり。私は都心にある洒落たコワーキングスペースの片隅にいた。フリードリンクのコーヒー一杯で粘りながら、スマホで「住み込み 求人 年齢不問」を検索し続けて、すでに二時間が経過している。  ヒットするのは怪しげな寮付きの工場か、さらに怪しげな介護施設ばかり。


「くそっ、どこだ! どこにやったんだよ!」


 静かなフロアに、突然ヒステリックな男の声が響いた。  顔を上げると、ガラス張りの個室会議室で、二十代後半くらいの男が頭を抱えていた。パーカーにジーンズ、寝癖のついた髪。若くして成功したIT社長風情だが、その顔色は死人のように青白い。


 彼はデスクの上に書類、ガジェット、飲みかけのペットボトルをぶちまけ、何かを探して暴れている。 「契約書がない! 今日の三時までに捺印しなきゃ、三億の出資がパーだぞ!?」


 三億。  その言葉に、私の耳がピクリと反応した。  男はスマホで誰かに怒鳴り散らしている。「秘書はどうした!」「辞めただと?」「ふざけんな!」


 私はため息をつき、飲み干したコーヒーカップを置いた。  見ていられない。  あの男の探し方は、典型的な「散らかす人のそれ」だ。闇雲に物を動かし、雪崩を起こし、さらに状況を悪化させている。かつての夫と娘と同じ。


 気づけば、私はガラス戸を開けていた。 「ちょっと、うるさいんですけど」


 男がギロリと私を睨んだ。充血した目だ。 「あ? なんだおばさん。今忙しいんだ、出てけ!」 「おばさんじゃないわ。通りすがりの整理整頓コンサルタントよ」


 口から出任せが出た。  私はズカズカと部屋に入ると、彼がひっくり返した鞄の山を指差した。 「貴方が探しているのは、青いクリアファイルに入った書類じゃない?」 「は? なんで知って……」 「さっきから貴方、『青のファイルがない』って電話で三回叫んでたから。で、貴方は今、右手でペットボトルを持ちながら、左手だけで右側の山を探してる。人間の心理として、焦っている時は利き手側の死角を見落とすのよ」


 私は彼をどいて、デスクの右端、積み上がった雑誌と古い宅配ピザの空き箱の隙間に手を突っ込んだ。  指先に触れた冷たい感触。    スッ。  取り出したのは、まさに青いクリアファイルだった。


「……あ」  男が口を半開きにして固まった。 「あった。マジで……?」 「三億円、拾ったわよ。感謝しなさい」


 ファイルを押し付けると、私はさっさと立ち去ろうとした。関わってもろくなことがない。  しかし、男が私の腕を掴んだ。 「待ってくれ! あんた、整理整頓コンサルタントって言ったよな?」 「嘘よ。ただの家出中の主婦」 「なんでもいい! 頼む、俺を助けてくれ!」


 男の必死な形相に、私は足を止めた。 「助ける?」 「俺のオフィス……いや、自宅兼オフィスに来てくれ。このままだと俺、仕事で死ぬか、ゴミに埋もれて死ぬかのどっちかなんだ。金なら払う。言い値でいい!」


 五分後。  私は彼の高級外車(助手席にはマクドナルドの紙袋が散乱していた)に乗り込み、都心の一等地に立つタワーマンションの最上階へ向かっていた。


 男の名は、二階堂レン。二十八歳。  若手起業家としてメディアにも出る有名人らしいが、私はテレビを見ないので知らなかった。


「ここだ」  レンが重厚な扉を開けた瞬間。  むわっ、と異臭が漂ってきた。生ゴミと、高価な香水と、埃が混ざったような独特の匂い。


 広いリビングは、地獄絵図だった。  最高級のイタリア製ソファは服の山に埋もれ、床は大理石が見えないほど雑誌とガジェットのコードが這い回っている。キッチンシンクには、いつ食べたかわからない食器がタワーのように積み上がり、カビのコロニーを形成していた。


「……どうだ、ひどいもんたろ」  レンが自嘲気味に笑った。「何人もハウスキーパーを雇ったけど、みんな三日で逃げ出した。俺、ADHD気味でさ、片付けられない脳みそなんだよ」


 私はその惨状を見渡し、深く息を吸った。  普通なら逃げ出すだろう。  でも、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、私の体の奥底で、長年眠っていた「戦士」の血が騒ぎ出していたのだ。  これはただの汚れじゃない。  この男の「心の詰まり」だ。


「二階堂さん」 「レンでいい」 「じゃあレン君。貴方、今まで雇った人に何て言われた?」 「え? 『足の踏み場がない』とか『手に負えない』とか……」


「違うわね」  私はリビングの中央、唯一スペースのある場所に仁王立ちになり、彼を指差した。 「この部屋は、貴方の脳内そのものよ。情報過多、優先順位の欠如、そして自己愛と自己嫌悪のミックスジュース。貴方が探しているのは書類じゃない。自分自身を見失っているだけよ!」


 レンが目を丸くした。 「……は?」 「三日で逃げたハウスキーパーたちは、ただ掃除をしようとしたから失敗したの。私は掃除なんてしないわ」 「えっ、しないの?」


「私は『編集』をするの。貴方の人生の、不要なノイズをカットして、必要なシーンだけを残す。……やるなら徹底的にやるわよ。ただし」


 私はニヤリと笑った。それは、かつての「良妻賢母」の笑顔ではなく、夜叉のような凄みを含んでいたはずだ。


「私の指示は絶対。『捨てろ』と言ったら、たとえ百万円の壺でも捨てること。それと、報酬は前払いで一〇〇万円。さらに、私が家を見つけるまでの間、ここのゲストルームの使用を認めること。どう?」


 法外な要求だ。断られるならそれでもいい。  しかし、レンは私の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、震える手でスマホを取り出した。 「……今、振り込む。口座番号を教えてくれ」


 スマホの画面に「送金完了」の文字が出た瞬間。  私は着ていたトレンチコートを脱ぎ捨てた。下に着ていたのは、動きやすいシャツとパンツ。  髪を後ろで一つに束ね、私は宣言した。


「さあ、オペを開始するわ。まずはその窓を開けなさい! 腐った空気を入れ替えて、この部屋に酸素を送り込むのよ!」


 四十五歳、佐伯真希。  私の新しい仕事は、この「ゴミ屋敷の王様」の人生を、洗濯機で丸洗いすることから始まった。



第3章:一軍の服しか着るな


 七十リットルのゴミ袋が、すでに十個。  開始からわずか二時間で、タワーマンションのリビングには「過去の遺物」が入った黒い山が築かれていた。


「おい、待て待て! それは捨てるな! 高かったんだぞ!」


 クローゼットの前で、レンが悲鳴を上げた。  私が無造作にゴミ袋へ放り込んだのは、イタリア製の高級ブランドのタグがついたジャケットだ。ただし、肩にはホコリが積もり、袖口には何かのシミがついている。


「高かった? それがどうしたの」  私は手を止めずに言い放つ。 「貴方、これいつ着たの?」 「えっと……三年前の授賞式の時に一回だけ」 「じゃあ、ゴミよ」 「鬼かよ! 数十万したんだぞ!」


 私はため息をつき、そのジャケットをハンガーごと彼に見せつけた。 「いい? レン君。モノの価値は『いくらで買ったか』じゃない。『今の貴方を輝かせるか』で決まるの」


 私はクローゼットの中身をすべて床にぶちまけた。山のようなパーカー、ヨレヨレのTシャツ、サイズが合わなくなったパンツ。  その中から、私は一着の白いシャツだけを拾い上げた。パリッとしていて、仕立てが良い。


「貴方のクローゼットは、一軍、二軍、戦力外がごちゃ混ぜになってる。だから毎朝『着る服がない』ってイライラするのよ」 「……なんでわかるんだよ」


「顔に書いてあるわ。いいこと? 服は貴方の皮膚よ。ヨレヨレの二軍の服を着ている人間は、自分を『ヨレヨレの二軍の人間』として扱っているのと同じ。そんな男に、三億円の出資をする投資家がいると思う?」


 レンは口を閉ざした。  私は床の服の山を指差して、冷酷なルールを告げた。


「今から三分以内に仕分けなさい。基準は『明日、憧れの人に会う時に着ていけるか』。迷ったら捨てる。『高かった』は禁止。『いつか着る』はもっと禁止。その『いつか』は、永遠に来ないから」


 私の剣幕に押され、レンは渋々服を手に取り始めた。  最初は「これも、あれも」と惜しんでいた彼だが、私の「それ、襟が黄ばんでるわよ」「毛玉だらけの服でメディアに出る気?」という鋭いツッコミを受け続けるうちに、次第に目が覚めてきたらしい。


 一時間後。  クローゼットに残ったのは、仕立ての良いジャケット数着と、清潔なシャツ、質の良いデニムだけになった。スカスカだ。けれど、そこには凛とした空気が流れていた。


「……なんか、呼吸しやすくなった気がする」  レンが呆然と呟いた。 「でしょうね。貴方は今まで、数百着の『死んだ服』の重みを背負って生きていたのよ。これでやっと、今の貴方に見合う『一軍』だけが残った」


 私は腕まくりをして、次のターゲットであるデスク周りに目を向けた。 「さあ、次は書類と名刺の山よ。ここが一番の難関ね」


 デスクの引き出しからは、大量の名刺が出てきた。  レンの手が止まる。「これは……俺が起業したての頃、頭を下げて回った社長たちの名刺だ。いつか見返してやろうと思ってとっておいたんだ」


 名刺の束を握りしめる彼の手は、白く強張っていた。そこには執着と、過去の屈辱が染み付いている。  私はその手から、優しく、しかし強引に名刺の束を抜き取った。


「見返す必要なんてないわ」 「え?」 「貴方はもう、彼らが無視できない存在になりつつある。過去の亡霊にエネルギーを使うのはおよしなさい。貴方が見なきゃいけないのは、昔、貴方を馬鹿にしたおじさんたちじゃない。未来の貴方を待っているお客様たちでしょ?」


 シュレッダーの電源を入れる。  ガーッ、という音が静かな部屋に響いた。  レンは一瞬、止めようと手を伸ばしかけたが、やがて力を抜いて、名刺が裁断されていく様子を見つめた。  紙吹雪のように刻まれていく過去。  全てが終わった時、レンの顔から憑き物が落ちたように見えた。


 ***


 夕方。  西日が差し込むリビングは、見違えるように広くなっていた。  床の大理石が輝き、窓ガラスはクリアに街を見渡せる。コーヒーの香りが漂う空間は、もはやゴミ屋敷ではなく、成功者の隠れ家と呼ぶにふさわしい。


「すげえ……」  レンがソファに深く沈み込み、天井を見上げた。「俺の家、こんなに広かったんだ」


「広さは変わってないわ。貴方が余計なものを背負いすぎていただけ」  私はキッチンで淹れたコーヒーを彼に渡した。  レンはそれを一口飲み、不思議そうな顔で私を見た。


「あんたさ、何者? ただの主婦じゃないだろ」 「ただの主婦よ。二十年間、毎日毎日、家族のために家を磨き続けてきた、プロの主婦」 「……そうか。プロか」


 レンはニヤリと笑った。初めて見せる、少年のような屈託のない笑顔だった。 「認めるよ、真希さん。あんたは凄腕だ。……で、相談なんだけどさ」 「何? まだ掃除し足りない場所があるの?」


「いや、違う。俺の会社のアプリなんだけどさ……UIがゴチャゴチャしてて使いにくいって評判なんだ。あんたなら、どう『整理』する?」


 その言葉に、私はカップを置いた。  胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。  私の「家事スキル」が、「ビジネススキル」に変換された瞬間だった。


「見せてみなさい。主婦の目線で、バッサリ斬ってあげるから」



第4章:その機能、主婦には響きません


 翌日、私はレンに連れられて、渋谷にある彼の会社のオフィスへ足を踏み入れた。  ガラス張りの会議室には、青白い顔をしたエンジニアや、いかにも切れ者といった風情のマーケティング担当者が五人ほど集まっている。  彼らの視線が、一斉に私に突き刺さった。


「社長、その……女性は?」  眼鏡をかけた神経質そうな男が尋ねる。開発リーダーの木下だ。 「新しい顧問だ。佐伯真希さん」  レンがさらりと言った。「顧問」という言葉に、会議室がどよめく。無理もない。昨日の今日で、私はただの家出主婦から、IT企業の顧問(仮)に出世してしまったのだから。


「ええと、佐伯です。お茶汲み係だと思って気にしないでください」  私は愛想笑いを浮かべながら、ペットボトルの水を配った。しかし、目は笑っていない。テーブルの上に広げられた資料と、スクリーンに映し出されたアプリの画面を、私は鷹のような目で観察していた。


 議題は、レンの会社が社運を賭けて開発中の家計簿アプリ『スマート・ライフ・マネージャー』のリニューアルについて。  木下が熱弁を振るう。 「今回のアップデートでは、AIによる資産運用アドバイス機能を強化しました。さらに、レシート撮影時のOCR精度を向上させ、クラウド会計ソフトとのAPI連携も……」


 専門用語が飛び交う。高機能、多機能、ハイスペック。  彼らは自分たちが作った「凄い機能」に酔いしれていた。  しかし、私はあくびを噛み殺すのに必死だった。


「……で、どう思いますか、佐伯さん」  突然、レンが話を振ってきた。  全員の視線が私に集まる。「素人に何がわかる」という侮蔑の色が見え隠れする。


 私はため息をつき、スクリーンを指差した。 「あのさ、このアプリ、誰に使って欲しいの?」 「それはもちろん、家計を管理する主婦層や、共働きのビジネスパーソンです」 「じゃあ、ダメね。これじゃ誰も使わないわ」


 会議室が凍りついた。木下がムッとして反論する。 「な、何がダメなんですか! このアルゴリズムは最新の……」


「アルゴリズムなんてどうでもいいのよ」  私は立ち上がり、ホワイトボードの前に立った。 「いい? 主婦が家計簿をつける時って、どんな状況だと思う?」


 私はエアーでフライパンを振る動作をした。 「夕飯の支度をしながら、子供が『ママ、明日遠足だからお弁当箱出して!』って叫んでて、洗濯機が終わるブザーが鳴ってる。そんな戦場のようなキッチンで、片手でスマホを操作するの」


 私は彼らの自慢のUI画面を指差した。 「この『収入入力』ボタン、画面の左上にあるでしょ? 片手でスマホ持ったら、親指が届かないのよ。それに、起動してから入力画面まで三回もタップさせる気? こっちはね、レジ袋を提げて玄関に入った瞬間の、わずか十秒の隙間時間に入力したいの。一秒でも遅れたら、もうやる気なんて失せるわ」


 エンジニアたちがポカンとしている。 「それに、この『資産運用アドバイス』? 画面の半分も占領して邪魔くさいわ。私たちが知りたいのは『今月あといくら使えるか』。それだけ。結論が一番上に出てこない家計簿なんて、賞味期限切れの牛乳と同じくらい無意味よ」


 沈黙が落ちた。  数秒後、レンがプッと吹き出した。 「……賞味期限切れの牛乳か。最高だ」 「社長、笑い事じゃ……!」 「いや、木下。彼女の言う通りだ。俺たちは『技術』を見ていた。でも彼女は『生活』を見ている。……ユーザー体験(UX)ってのは、こういうことなんだよ」


 レンが私の肩を叩いた。 「採用だ。その『主婦目線』で、全画面の仕様書を赤入れしてくれ」 「えっ、全部? 別料金よ?」 「ああ、払うさ。会社の経費でな!」


 その瞬間、会議室の空気が変わった。  侮蔑の眼差しは消え、彼らはメモを取りながら、私の「生活の知恵」という名のダメ出しに食らいつき始めたのだ。


 ***


 その頃、佐伯家では。  夫の修一が、クローゼットの前で立ち尽くしていた。 「……ない。なんでないんだ」


 明日着ていくはずのワイシャツが見当たらない。いつもなら、ハンガーにかかって、プレスされた状態で「ここ」にあるはずなのに。  洗濯カゴの中には、洗い忘れたシャツが山になっている。


「おい、真希! ワイシャツどこだ……って、いないんだった」  修一は舌打ちをした。  妻が出て行ってから三日。最初は「せいぜい強がりだろう」と高をくくっていたが、家の中は急速に機能不全に陥り始めていた。  トイレットペーパーの予備がない。  麦茶のポットが空っぽだ。  そして何より、部屋の空気が淀んでいる。


「チッ、面倒くさいな。クリーニング出すか」  修一はイライラしながら、自分でシャツを引っ張り出した。  その背中には、まだ「後悔」という文字は浮かんでいない。ただの「不便」への苛立ちだけだ。  彼が本当の地獄を見るのは、もう少し先の話である。


 ***


 オフィスでの会議を終えた帰り道。  レンが興奮気味に私に言った。 「真希さん、あんた凄いよ。木下たちが目の色変えて修正作業に入ったぞ。こんなこと初めてだ」 「私はただ、文句を言っただけよ」 「その文句が金になるんだ。……なあ、真希さん」


 レンが真剣な顔で私を見た。 「俺の会社、今度『家事代行マッチングサービス』を立ち上げる予定なんだ。そのプロジェクトリーダー、あんたがやらないか?」 「はあ? 私はただの主婦よ。経営なんて……」


「ただの主婦だからこそ、できるんだ。あんたは『名もなき家事』の価値を知ってる。それをビジネスにするんだ。……人生、リベンジするんだろ?」


 リベンジ。  その言葉に、私の心が熱くなった。  専業主婦として見下されてきた二十年。その経験が、最先端のビジネスで武器になる?


「……悪くない話ね」  私は夜空を見上げた。  東京の空は明るすぎて星は見えない。でも、今の私には、確かな光が見えていた。


「やってやるわよ。ただし、私のやり方に口出し無用。いいわね?」 「了解、ボス」


 四十五歳。職歴なし。  私の本当のキャリアが、今ここから始まろうとしていた。


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