8.仕事
エルに案内された部屋は、執務室の奥のドアを入った先にあった。
実際、かなりドキドキしながらその扉をくぐる。だって、ここに入ると言うことは、セルサスの私室へと入ったも同然なのだ。
木目調の壁が続く廊下は広く奥まで続く。濃い赤の絨毯が床に敷かれていた。何か複雑な模様が織り込まれていて、重厚な雰囲気を醸し出している。
エルは勝手知ったる様につかつかと奥へ進みながら、
「ここがセルサス様のお部屋となります。完全なプライベート空間でして、掃除の為に人が入るのも許可がいります。出入りする人間の素性は調べ上げ、忠誠を誓う者だけが許可されています」
そう言って、美しい彫り物の施された木調のドアの前を通り過ぎ、暫く歩いた先で立ち止まった。
同じく木調のドアがある。セルサスの部屋のものよりシンプルではあったが、それでもかなり意匠が凝らされていた。エルはその扉を押し開くと。
「ここが、あなたの部屋となります。セルサス様のお部屋とは扉で繋がっておりますが、鍵はセルサス様のお部屋からのみかかる様になっています」
造りは洋風で。広さは十畳ほど。入ってすぐ正面に木調の机があり、となりに本棚。左奥にクローゼットとベッド。
二カ所にある窓からは午前の明るい光が差し込んできていた。そこは分厚い強化ガラスがはめられていて、上だけ押せば開けられるようになっている。木材をふんだんに使ったアンティーク調の部屋だった。
華美ではないが、いい素材が使われているのは分かる。俺には十分すぎる程だ。いままでのぼろレンガ造り小屋とは大きく違う。
「って、じゃあ、セルサス様は自由に出入りを?」
「…入ってきますね。きっと。あなたの部屋はセルサス様なら自由に施錠開錠できますから。あなたのプライベートはあってないものと思ってください。酷いと思うかもしれませんが、堪えてください」
「えっと、俺、護衛官と従者…でしたよね?」
「ええ、そうですが?」
「その、なんとなく、思っていたのと違うような…?」
プライベートがないのは不思議な気もした。勝手に行き来する──とは? まったく不服はないが、想像する護衛官と従者ではないきもした。するとエルはため息をつきつつ。
「…護衛官兼従者は形として仕方なく、です。話し相手として、あなたを傍に置きたいだけの様ですから。──先ほど本人から話しを聞いたのでは?」
「えっと、はい…。聞きました、けど、やっぱり信じられなくて…」
するとエルは笑みを浮かべ。
「セルサス様は人を見る目はあります。私もあなたを悪い人間だとは思わない。ちょっと特殊だなとは思いますが、それは私も一緒。あなたも私も、セルサス様に見込まれたのです。だから自信をもってください。それで、一緒にセルサス様を支えていただければありがたい限りです。──味方が少ない方なので…」
「ええっと! その、恐れ多いですが、俺なんかで良ければ…」
「ふふ。あなたはこう、くしゃくしゃに丸めて、膝の上でよしよししたくなるかわいさがあるんでしょうね…」
「は?」
「いいえ。こちらの話しです…。──持ち込まれた荷物は私が調べさせていただきました。一応、危険物がないか確認する必要がありましたので」
「って、その──見たんで?」
俺は必死になって、引っ越しのため、箱に詰め込んだ荷物を頭の中に思い浮かべていた。
衣類はそうない。ただ、雑貨と呼べるものが多かった。趣味のそれらだ。
セルサスが使っていると思われる香水をはじめ、セルサスのブロマイド、ポスター、素人が撮ったファンサイトで扱っている写真。それから、それから──。
捨てるには忍びない。それを箱の奥底、濡れないよう丁寧に梱包して入れた記憶がある。それを──。
「見ました」
にこりとエルは笑む。
「……」
俺は言葉を失くしてエルを見上げた。
は、恥ずかしい…。
しかし、エルは言葉を続ける。
「危険なものは何も入っていませんでした。皆、元通り締まってあります。安心してください。──あなたがどれだけセルサス様を応援しているかも、良くわかりました」
で、ですよね?
「は、はは…」
頭を掻きつつエルをみやる。そんな俺を微笑ましそうに見た後、
「では、早速ですが、明日からのあなたのお仕事ですが──」
そう言って説明されたのは、主にセルサスの後についてまわる、という仕事内容だった。
◇
朝起きてから朝食を取り執務につくまで、その身の回りの世話を焼き、執務中は別室または傍に待機し、呼ばれればすぐに対応できるようにしておくこと。その間、警護は怠らない。
一日の執務が終われば、帰宅し夕食を取り就寝するまでの間、再び世話係として傍につくこと。
とにかく、傍を離れないのが仕事らしい。俺としては恐ろしくありがたい内容なのだが。
「護衛と従者とは言え、こんなに傍にいたら、鬱陶しくはないんですか? セルサス様も自由時間が欲しいんじゃ…」
部屋にいる時は一人でいたいと思うだろう。
「いいえ。これでいいんです。何の問題もありません。本人の希望ですし、あなたはその為にいるんですから」
「傍に…いる為、ですか?」
「そうです。そのための『護衛官』および『従者』なのですから」
「は、はあ…」
「難しい仕事ではありません。ただ、紅茶やコーヒーの淹れかたは覚えていただきます。護衛以外にも従者として身の回りの簡単な家事などもしていただくことになりますから、それに必要なことも覚えていただきます。──それではこちらへ」
部屋の案内もそこそこに、別室へと連れて行かれる。
そこはセルサスの私室へも続くキッチンだった。白を基調として整えられている。壁面にはタイルが敷き詰められていた。まるでどこかの民家のよう。ここが高層ビルの一室だとは到底思えない。
「お茶の準備などはここで。紅茶やコーヒーを自分で入れたことは?」
「コーヒーなら。でも、自己流で…」
なんとなく、恰好つけて一丁前にバリスタのように淹れてみたりするが、形だけだ。
友人に淹れても「苦い」だの「すっぱい」だの言って、どかどか砂糖とミルクを入れるから、みんな同じ味になる。まずいか上手いかまったくわからないのだ。
「そうですか。後で一通りやってみましょう。それで、この先に浴室とオープンクローゼットがあります。着替えなどはすべてそこに。洗濯ものがあればそちらのかごに入れて置けば、係の者が回収します。ご自分でもできるように、洗濯機も乾燥機もおいてあるので、ご自由に。足りないものがあれば、私に端末で連絡を。あとで専用の端末を支給します。セルサス様が入浴した際は、着替えの準備をお願いします。朝の身支度もお手伝いをお願いします」
そう言って、簡単にものの場所や手順を教えてくれた。俺はとにかく後に続き必死に覚えていく。
「今まで私がやっていたんですが、流石に限界で。秘書の仕事も多忙ですから。それで、誰か雇って欲しいとお願いもしていたんです。けれど、やたらな人間は傍に置けないですし。そんなとき、例の誘拐事件です。あなたの死亡を知って、セルサス様はかなり気落ちしておられました。傍に置きたいと思っていたようで…。けれど、数週間後に生きていたと知って──。それで、あなたを雇うとおっしゃったんです」
「俺は…あの時、たまたま、傍にいたんです…。セルサス様の役に立てたのは偶然で。本当は俺より適任もいたんじゃないのかって…」
「確かに。もっと優秀で、秀でたものもいるでしょう。──けれど、あの時傍にいたのはあなただった」
「……」
「それが答えで、すべてです。──さあ、お茶の淹れ方を練習しましょうか? 多少失敗しても、セルサス様は怒ったりしませんから。逆に、淹れてやるだけありがたいと思え、そう言ってやりなさい」
「い、言えません…」
言えるわけがない。すると、恐縮する俺にエルは笑い。
「セルサス様は、ああみえて結構、俗人です。遠慮はいりませんが──そのうち、分かるでしょう」
そう言って、エルはキッチンに戻ると、早速コーヒーと紅茶の淹れ方を懇切丁寧に教えてくれた。
◇
エルが去って、ようやく一人となった。
俺は日の差し込むベッドの上にごろりと横になる。フカフカで、しかもしっかりスプリングの効いたベッドは天国以外の何ものでもない。
ちなみに窓の外に広がる景色は、大都会の街並みだ。けれど、きちんと緑もある。さらにその向こうに目を向けると、鈍色に光る海が見えた。
てか。本当にここで働くのか。
仕事内容は護衛官というより、従者に近い。両方できる人間を探していたのだろう。
ここは今までの俺にとって天国だ。なんせ、憧れのセルサスが隣にいるのだ。俺は一度死にかけて、おかげで天国に来られた、と言う事か。
天国の主は──セルサス様だ。
俺はごろりと身体を反転させて、隣の部屋へと続くドアに目を向けた。
今日はセルサスの傍についていなくていいと言う。そのセルサスの部屋への扉は、言われた通りしっかりロックされていた。
当たり前だ。そう言っていたし、流石に主のいない部屋に無断で入ることは許されないだろう。もちろん入るつもりはなかったが、念の為の確認だ。
というか、向こうは自由に出入りができるのか。ちょっとドキドキだな。
──いや、セルサスが間違っても俺の部屋にこんにちはと訪れることはないだろう。
話し相手とは言っていたけれど、俺がセルサスを満足させられるような知識を持っているとは到底思えない。せいぜい、サポーターとして、熱い思いを語るくらいだ。
と、そこでぐうと腹が鳴った。
部屋にある置時計に目を向けた。サイドボードには古めかしいアンティークな銀細工の時計が置かれている。じきに昼の時間だ。軽食が届くようになっているから受け取る様にと言われていた。
軽食か…。
いつも昼飯はカップラか、乾麺をゆでて食べるか。任務中なら食堂でやっぱり麺類を主に食べていた。消化もいいしすぐに食べ終わる。
って、そう言えば、俺一人なのか? セルサス様は帰ってくるのか?
それは言われていなかった。
今は執務中だ。さすがに食事は別だろう。先ほど渡された端末で、エルから今後のスケジュールを見せられた。
指紋や声紋、顔認識でロック解除されるそれには、事細かなスケジュールが確認できた。これをしっかり頭に叩き込んで、明日から行動を共にすることになる。
今日は午前中は国内の運営に関する会議に出席。午後は諸外国の客人の接待とあった。数か国の客人と会う予定だ。
分刻みで組まれているスケジュールにため息が漏れる。まだまだ、父親の後を継いだばかり。良好な関係を築くために必要なのだろう。
てか、大変だなぁ…。
俺たち兵士が懸命に懸垂や腕立て伏せ、ダッシュや長距離を走っている間、セルサスは様々な気苦労を抱え、この国を運営しているのだ。
せめてそんなセルサスにとって、息抜きとなる場を与えたい。俺はそう思った。
警護もさることながら、お茶やコーヒーを淹れる事で、僅かでも気を紛らわせてほしかった。
コーヒーの方は問題ないけど、紅茶がな。時間、間違えないようにしないとな…。
茶葉によって、待つ時間が異なる。大抵は一種類だが、たまに違うお茶も所望するらしい。きちんと時間を守らねば、苦いお茶が出来上がってしまうのだ。
コーヒーの方は、合格点をもらえた。なんちゃってバリスタが意外にいい経験となっていたらしい。
と、そうこうしていれば、軽いノックがあった。
「はい?」
「──ご昼食をお持ちしました」
ドア越しの声はややくぐもって聞こえた。若い男性とだけ分かる。
「はいはい!」
昼食に反応して、ぐうと再び腹が鳴る。慌ててベッドから飛び起きて、ドアへと向かった。
総帥府の昼食はいったいどんなものなのか。
食い意地も張っている俺は、少し小躍りする勢いで向かう。
ここへ入室できるのは許可がもらえたもののみ。安心してドアを開けた。