5.結末
そうして、暫く山に分け入った辺りで、下の方に灯りが見えた。どうやら嗅ぎつけられたらしい。
「──少し急ぎます。あと少しで沢を渡りますから。渡り終わって下りにはいれば、じきに平原です」
「追手か。──私に気を使わずスピードを上げていい」
セルサスも気づいたらしい。
「は、はい…!」
そうは言っても──とは思ったが、先ほどからつまずきもせずついてくる。俺も細心の注意を払っているが、まるで見えているかのようだ。薬の効果が切れて、幾分見えてきているのだろうか。──が、ふと思う。
こう言うの、慣れているのか?
言われてみれば、身のこなしが軽い。運動神経がいいだけでは済まされない気がした。それに、終始取り乱しもせず落ち着いている。場馴れしている感が否めない。
が、今はそんな事を考えている場合ではない。とにかく、遮る茂みや木々の低く垂れた枝、盛り上がる木の根を乗り越え先へ進むことが先決だった。
ガシガシと、でも慎重に進むと、ようやく視界が開けた。沢だ。岩の間を澄んだ水が飛沫を上げ流れ落ちている。闇の中、仄白く発光して見えた。
ここを越えれば、あとは下りに入る。川は浅いところで膝下くらい。ずぶぬれになることはなさそうだ。
えーと、この辺りだな…。
地形をよく確認して、渡れそうな箇所を選別した。大きな石が所々に出ていて、いい足場になる。そこにたどり着くまでは水に浸かることになるが、そう危険ではなさそうだった。
セルサスを振り返る。俺の着ている服は速乾性の制服だから多少濡れても構わないが、セルサスの着ている長衣は綿だ。水に浸かれば重くなるだろう。
ブーツが濡れるのは仕方ないにしても、服が濡れるのはあまりよろしくない。
「セルサス様、少し裾を上げますね? 水に濡れると動き辛くなるので──」
「いや、脱ごう。アンダーウエアだけなら、軍支給の制服と同じ素材だ」
言うが早いか、防弾チョッキを外し煽る様に長衣も揃いのパンツも脱いでしまう。
「ええっと、は、はいっ! じゃあ、脱いだのは濡れないようにこちらで預かっておきます──」
セルサスが脱いだ服を受け取り、常備している防水バッグパックに詰め込んだ。小型だが端末などを濡らさないために常備しているのだ。
受け取った所で、ふとセルサスに目を向ける。
銀色の髪はすっかり崩れ、額に垂れたラフな姿。下に着ていた黒の防弾素材のタンクトップと、スラックスだけになると、身体のラインが強調され嫌でも目が行く。
すげー。鍛えてる…。
腹筋の割れ具合が尋常じゃない。六個──いや八個くらいに割れている。無駄な筋肉もなくすらりとして見えた。
夜陰の中、月のわずかな光に浮かび上がる姿は、銀糸と相まって薄っすら燐光を帯びているよう。
まるで雪豹だな…。
白くけぶる様な毛並みと、しなやかな肢体をもつ油断ならない獣。思わず見惚れる。
「…どうした?」
「あ? い、いえ。さ、行きましょう!」
あー、ビックリした…。
慌てて携帯バッグを背負うと、セルサスの手を引いて沢を渡りだした。
セルサスの肢体は目の毒だ。気をつけないと、あの髭面男と同族になってしまう。
水に浸かっては岩に足をかけ、また水に浸かり、岩に足をかける、その繰り返しだった。沢の幅は四、五メートルほど。
あと二、三歩という所まできて、不意に乗せた足が滑った。どうやら苔が生えていたらしい。今日はよく苔にやられる。
「っ!」
「セト!」
背後に転倒しかけたが、それをセルサスがすかさず支えた。腕を掴み引き戻してくれる。
セ、セーフ。
「す、すみません!」
「大丈夫だ。ゆっくり行け。…支えている」
「有難う、ございます…」
おかしいな。さっきから、立場が逆になっている気がする…。
目も見えていないのに。助けられているのは俺ばかり。セルサスにしてみれば、自分の方こそ──なのかも知れないが、俺とセルサスでは立場が違う。セルサスは守られて当然の存在なのだ。それなのに。
おかしい。おかしいぞ! もっといい所を見せないと! せっかくこんな大役を任されているのに!
そうして、ようやく沢の向こう側へたどり着いた。足元はすっかり濡れていたが、それはセルサスも同じ。
俺は防水バッグからすぐにタオルと服を取り出し、セルサスに手渡す。流石に薄手のアンダーウエアだけでは寒い。見事に鍛え上げらえた身体を見られなくなるのは、ちょっとだけ──ちょっとだけ惜しかったが。
「ここを離れて、もう少し奥に行ったら、休憩を取りましょう。少しだけですけど…」
「私なら大丈夫だが──いや、少し休もう」
何か思う所があったのか、セルサスはそう言い直すと、僅かに口元を緩め。
「──震えてる…」
セルサスの手が俺の二の腕を掴んだ。確かにかすかにだが震えていた。足元から冷えが上ってくるのだ。セルサスはそれに気づいていたらしい。
てか、セルサス様は平気そうなのに…。
「お、俺は大丈夫です──」
そう言って、やせ我慢を突き通そうとするが。
「いや。私も休みたい。早く先に進もう」
そう言って軽く背を押してきた。俺は渋々頷くと。
「──分かりました。じゃあ、もう少し行った先で…」
明らかに俺に気を使ってくれたのが分かる。
優しい。ほんと。セルサス様って。
さらに惚れ直した俺は、その後もセルサスの手を引きながら奥へと向かった。
◇
沢を渡ったおかげで、先が見えてきた。あと少しで向こうの平原に抜ける。そうすれば、迎えが来る。一安心だった。
幾分平らになった茂みの中で休息をとる。とは言っても火など焚けるはずもなく。持っている水筒から温かい紅茶を飲み、もそもそするバー状の携帯食を口にしたくらいだ。
「目の方はどんな具合ですか?」
するとセルサスは軽く眉間を揉みながら。
「ものの形はぼんやりと分かる様になってきたな…。君の姿形も分かる。薬の効き目が切れてきたんだろう。じきに視界もはっきりするはずだ」
「良かったです…。このまま──なんて事があったら、一大事ですから。この先は下るだけです。命に代えても、無事にお連れしますから!」
胸を軽く叩くようにしてそう言えば、
「──命は無駄にするな。君の為のものだ」
存外、真面目な返答が返ってきた。その瞳は真摯な色を帯びている。しかし、それに怯まずセルサスを見返すと。
「でも…。俺たちはその為に日々訓練しているんです。セルサス様をいつでも抱えて走れるように、同じ重さの荷物を背負って、強行軍だってしてます。敵の狙撃の盾になる為、的になる訓練だってしています。セルサス様を守るために生きているようなものです。その為に使われるなら、無駄だとは思っていません!」
すると、セルサスは視線を落とし。
「私は──俺は君たちの顔さえ知らないんだ。そんな人間の為に命を張るなど、どうかしている…」
「でも、俺はそれで満足なんです。俺たちの顔なんて知らなくていい。ただ、あなたが無事ならそれで十分なんです! …だから──無駄なんて、言わないでください…」
最後はしょんぼりしてしまった。だって、俺はそれを支えにここまで頑張ってきたのだ。どんなに辛い訓練だって、セルサス様の役に立てるのだと思って。
それなのに、当の本人からいらないと言われてしまえば、どうしていいのか分からなくなる。
そんな俺の気持ちを察したのか、セルサスは、
「すまない…。俺は今までこうやって守られて来なかったから、この状況に慣れていないんだ。自分の身は自分で守る、それが普通だったからな…。君のような若者に命を張られると、どうしていいのか分からなくなる」
俺はその言葉に息を吹き返す。
──それなら。
「では、慣れてください! あなたは総帥です。アストルム帝国のトップです。あなたが無事でいることが、国民の幸せに繋がるんです。俺に何かあっても、国は滅びない。けれど、あなたに何かがあったら、国は混乱する。皆が困ります。何を犠牲にしても、生き残るのが先決です。だから、俺たちは喜んで踏み台になります。それを可哀そうだとは思わないでください。ありがとうと、おっしゃっていただければ、それで十分なんです!」
「セト…」
「俺は幸せです。あなたのように雲の上の人に会えて、あまつさえ名前を呼ばれて。身に余る光栄です。それだけでもう、俺には十分なんです」
えへと笑うが、その顔はセルサスには見えていないだろう。けれど、その視線は俺の顔に注がれている。ちょっと照れ臭い。
「さて、そろそろ行きますか。えーと、あと二十分ほどで迎えのヘリが到着予定です。援軍も来ますから安心ですよ。そこまで必ず、無事にお連れしますから!」
セルサスは笑みを浮かべると。
「──ありがとう。セト」
「どういたしまして!」
俺も胸を張って笑顔でこたえた。
そして俺たちは山を下り始めた。しかし、追手はすぐそばまで迫っていて。
丁度、山を降り切って、平地の林に出たとき、怒鳴る声が背後に聞こえた。
◇
「いたぞ! あそこだ」
おっと、見つかった。
「セルサス様、走ってください! この先、障害物はありません!」
俺はセルサスの腕を取って走り出す。
「わかった──!」
セルサスはためらいもなく全速力で走りだした。
もちろん、転ばせるような目には遭わせない。俺は背後を気にしつつも、懐から銃を取り出し駆ける。
遠くからヘリの音が聞こえてきた。迎えのヘリだ。数機が向かってきている。
俺は威嚇のため、数発を後ろから追ってくる奴らに向かって撃った。代わりに返事のように相手からも数発が返される。
それは肩先を掠めるが、あたることは無かった。と、ヘリからも援護の射撃が発せられた。それで追手の勢いが弱まる。
ヘリはすぐに飛び立つため着陸はしないのだろう。前方でホバリングする機体が見えた。兵士と共に梯子が下りてくるのが目に映る。セルサスの目が見えていないことは連絡済だ。上手く収容してくれるはず。俺はそちらへ駆けながら。
「セルサス様! そのまままっすぐ走ってください」
背中を押すようにして促すと、俺はそこに立ち止まって、まだ執拗に追ってくる奴らに銃口を向けた。
「セト! 君も来い!」
立ち止まった気配に気付いたセルサスに、ぐいと肩を引かれるが。
「俺はこのためにいるんです! 早く行ってください!」
その手を振り払うと、セルサスとは逆方向へ走った。そして、追手を撃って撃ちまくる。
これでも射撃の腕は上位に入る方だ。──とはいっても下級兵の仲間内の中で、だが。祭りの射的で負けたことはない。
そんな腕で、と思うだろう。けれど、人はしゃにむになれば、意外に能力以上の力が発揮でることもある。それが今だ。
「く、くそぅ!」
追ってきた奴らが数名倒れた。上手く肩や足に当たったらしい。ラッキー。
ちらと背後に目を向けると、セルサスが梯子から降りてきた兵に収容されるところ。
──良かった。
だが、最後まで気は抜けない。
気合を入れ直したところで、視界の端に何か光るものが映った気がした。
よく見ると、草葉の陰でライフル銃をかまえ何かを狙っている奴がいる。勿論、狙っているのはセルサスだ。
「!」
狙撃手だ。あれはまずい。
照準がセルサスに合う前になんとかしなければ──。
ここから走って奴に間に合うわけがない。かといって、俺の手にした銃では届かない。
くそ!
俺はここには記せない汚い言葉をはくと、一気にセルサスの元へ駆け戻った。
いちかばちか──。
セルサスが揺れる梯子に手をかけた所、そこへ俺は踊りでる。
次の瞬間、身体に衝撃を受けた。一発、いや二発? ──分からない。身体が揺さぶられ、背後に倒れそうになるが、必死にこらえた。自分が倒れればセルサスに当たってしまう。
防弾素材のアンダーシャツも狙撃銃には効かない。少し威力を弱める程度だ。最後にもう一発が当たって流石に立っていられなくなった。
伸ばされたセルサスの指が、俺の肩に微かに触れる。
「セト──!」
う。セルサス様…。
どうやら無事だったらしい。セルサスを狙ったテロリストらは、ヘリから狙撃され、それで一網打尽となった。
なんだか、身体が重いし、熱い。全身がドクドク音を立てているようだ。防弾素材のシャツを着ていたからこの程度ですんだのだ。でないと即死のはず。
「──セト…!」
俺を呼ぶセルサスの声が遠のく。ヘリが飛び上がったせいなのか、別の理由なのか。
仰向けに倒れた俺の目に、セルサスの白い顔が映る。それが遠くなっていく。ヘリが上昇したのだ。
良かった。無事で…。
草むらに倒れこんだ俺は、ぼんやりとそう思った。
うん、悪くないぞ。俺。
そのまま飛び去るヘリを見つめて、俺は笑う。
最後にセルサス様に名前を呼んでもらえた…。
なんて幸せなことだろう。
俺の死など、あまたある死の中の一つ。いつか忘れ去られる。けれど、それでも良かった。
だって、俺のセルサス様は無事だったのだから。
口から血がこぼれて咳き込んだ。
苦しい、な…。
苦しいけれど、嬉しかった。短い間だったが、セルサスとたった二人切り、共に手を携えて窮地を乗り越えたのだ。
──悪くない、人生だ。
短いと人は言うかも知れないが、人の言うことなど関係ない。最後に幸せがギュッと詰まった中身の濃い人生だったのだから。
俺はセルサスの顔を思い浮かべながらゆっくりと目を閉じる。目の端に涙が一筋、こぼれ落ちた。
そのうち訪れる死を感じながら──。