19.和解
誰かが話す声で目が覚めた。
聞き馴染みのある声。──いや。馴染みどころじゃない。忘れようにも忘れられない、心に刻まれた声だ。
俺はそこへガバリと起き上がる。
ソファに寝かされていたらしい。起き上がったと同時、肩から懐かしい香りと共にジャケットが滑り落ちた。白いそれはセルサスが身に着けていたものだ。
「──セト、怪我はないか?」
頭上で声がする。慌ててそちらに顔を向けた。
俺の眠っていたソファのひじ掛けに座り見下ろすのは──銀糸の髪に薄紫の瞳。Tシャツに迷彩柄のパンツスタイルのセルサスだった。
着ているものこそ、その辺の奴らとかわらないが、間違いなくセルサス本人で。
「セルサス…様」
思わず目の端に涙が滲む。
ぶ、無事だった…。
身支度を整えたのか、着衣は新しい物に取り替えられ、頬に多少の擦り傷はあるものの血の跡は何処にもなかった。
「セ、セルサス様こそ…。あんな状況で、怪我はなかったんですか? いや、打撲や切り傷はありましたよね? 手当ては?」
「たいしたことはない。──それより、この男に無体をされた様だが…」
セルサスの視線の先には、部屋の中央、置かれたテーブルの端に、腕を組み腰を預けているカラザがいた。不敵な笑みを浮かべこちらを見ている。
ここもどうやらカラザの隠れ家の一つらしい。綺麗に整えられたそこは、前に見た部屋と同じ匂いがした。
俺は必死になって首を振ると。
「あ、あんなの、どうでもいいですっ! ──それより、本当に何処にも怪我は?」
セルサスはそんな俺を、黙してただ見つめている。すると横から、
「手当ては済んでいる。俺の部下がした。あれだけ戦って、かすり傷程度だ。安心しろ」
カラザはそう言って苦笑してみせた。俺はセルサスを見つめたまま。
「…良かった」
ホッとして脱力すると、涙がぼろぼろとこぼれだした。
良かった。本当に無事で。
うう。アホみたいに涙が止まらない。
だって、生きていた──。
あんな別れ方をして。誰だって無事だとは思わないだろう。もちろん、戦いぶりも見ていた。勝ち残った姿も。
でも、心配で心配で仕方なかった。
俺にとってセルサスは守るべき立場の人間だった。たとえ守る必要がないくらい強くとも、それは変わらない。
セルサスはそんな俺に、手にしたハンカチを渡してくれた。
うう、お優しい…。
あとは何も言わずこちらを暫く見つめていたが、
「…カラザと今後について話はついた。具体的なことはこれからだが…。そこは安心していい」
「分かって貰えたんですね?」
俺はパッと表情を明るくして、セルサスを見上げる。
「そう思っている…」
セルサスが視線を再びカラザに向けた。
「ああ。この男はどうやら父親よりはまともらしい。──が、これからが肝心だ。もし、約束を違える様な事があれば──」
「そんな事はしない」
セルサスは強い口調で否定する。
「だといいがな。で、これからだが──勿論、無事に帰りたいだろう?」
「ああ」
「外にはテロリストが待ち構えている。どうやっても総帥を生かして帰すつもりはないらしい。俺と事をかまえてもいいと思うほどにな…。あんたが軍と合流する前に襲ってくるだろう」
「…だろうな。とにかく、中央に連絡を取りたい。なにか外と連絡がつく方法はあるのか?」
セルサスの問いにカラザは、
「──ある。妨害も関係ない敵にも傍受されない通信システムがな。それを使って連絡を取るといい」
「助かる」
それに応えるように、指示されたブラウが部屋の奥にある通信システムまで、セルサスを案内した。俺はそのセルサスの横顔を見つめながらカラザに声をかける。
「…ありがとう。助かった。──俺にキスした下りは許していないけどな…」
恨めしく睨みつけた。
「あれはあのお坊ちゃまを奮起させるためだろ? 現に勝ち切った」
「…あんなこと必要なかったろ? ていうか、俺が誰とキスしようがいちゃつこうが、セルサス様は気にしない。ちゃんと胸に思い人がいるんだ。…あんたの誤解だ」
「誤解、ね」
カラザは視線をセルサスへと送る。
「そうだ。そりゃあ、部下が無体な仕打ちを受けていれば、主人が怒るのは当たり前だろ? そんなところだ…」
「ま、そういうことにしておくが──」
そこで通信を終えたセルサスがこちらに顔を向けた。
「空港に迎えが来る。ついでにテロリストも一掃する。内部にいる反逆者はすでに捕らえた。すべて吐いたそうだ。他にもいる可能性はあるが、大物のはそいつだ」
「いったい、誰が?」
すると、俺の問いにセルサスは皮肉気な笑みを浮かべ。
「父の元秘書だ。やはり、と言うところだが…。俺が邪魔で仕方なかったのさ。俺がいなければ奴が継いだだろうからな…。奴を押さえれば少しは収まるはずだ。今回のテロでようやく尻尾を掴めた。よしとしなければな…」
「そう、ですか…」
結構危なかったけれど。
もし、セルサスが弱ければ、あの闘技場で命を落としていたはず。──しかし、気になる。
「あの…セルサス様」
「なんだ?」
「どうして、あんなにお強かったんですか?
猛者相手に…」
すると、黙り込んだセルサスに代わって答えたのはカラザだった。
「…お前の顔にはどこか見覚えがあった。そうざらにある美形じゃねぇからな? あの時はもっと薄汚れて見えたが──。お前、ここにきたことがあるだろう?」
カラザはセルサスから視線を外さない。セルサスは視線を落すと、観念したように。
「…少しの間だ。学生の頃、仲間とここへもぐりこんだ。父の悪行を探るためにな」
「やっぱり…。潜り込んだネズミがいると報告を受けてな。ここに潜り込めるってことは、相応の腕がねぇと無理だ。闘技場で勝ち抜けても当然だな…」
そう、だったのか…。
確かに武装していなければ歩けない様な街だ。そこを学生の身で潜り込めたと言うことは──相当、できるのだろう。
カラザは声音を低くすると。
「その時──俺と会っているだろう?」
「ああ…。一度捕まった時。あの時もすぐに逃がされたが。…不思議には思った」
カラザは苦笑すると。
「お前の目的を知ってな。ラファガの行っていることを探っている、お前はそう言った。──で、逃がそうと思った。嘘をついているようにも見えなかったしな。──俺はラファガを何とかしたいと思っていたからな。多少なりとも動いている奴がいると知って嬉しかったんだ」
「あの時もお前に助けられたと言う事か…」
「すべて、ここを再興するためだ。頼んだぜ? 総帥」
「わかっている…」
俺はそんなセルサスとカラザのやり取りを黙って見つめていた。
少しづつ、本当に僅かだがセルサスの道が開けようとしているのだ。
俺は感慨深く二人をみやった。
◇
しかし、ここイムベルにいたことがあったとは──。
カラザと打ち合わせるセルサスを見つめる。俺の予想もあながち間違ってはいなかったのだ。だから、あんなに入り組んだ路地にも迷う様子がなかった。
改めてセルサスの能力の高さを知ることになる。けれど──。
「──ここから空港までは、軍の援軍は頼れない。自力で逃げるしかないだろう。俺たちが援護する。──準備するからしばらく待て」
テーブルに広げた地図を指し説明したあと、カラザは数名の部下を伴って別室へと向かった。ブラウも一緒だ。
部屋には俺とセルサスだけが残る。俺はソファ座ったまま、セルサスに向き直ると。
「セルサス様」
「なんだ?」
「あの、俺を川へ落とした時のことですけど…」
「済まなかった。ああするよりほか、手がなくてな」
「──違います。あの時、川へ飛び込むのはあなたで良かった。俺じゃないです。──というか、俺が隙を見せたからいけなかったんですけど…。俺が、あなたを川へ逃がすべきだった。盾になって敵から守るべきだったんです。──もう、あんなことは止めてください」
「だが…」
「だがも、でももありません!」
「……」
「──俺は、あなたに生きて欲しいんです。ただのサポーターだからって言うんじゃないんです…。この国に住む一人一人の幸せがあなたにかかってる…。俺にはどんなに逆立ちしたって、そんな力はない。けど、あなたにはそれがあって、しかも幸せに導ける。カラザみたいに力があっても、やっぱりそれは無理なんです…。セルサス様にしかできないことなんです」
そう。人には器があるのだ。どんなに逆立ちしても、自分の器以上のものは発揮できない。
セルサスは黙って、じっとこちらを見つめていた。
「とんでもない重責だとは思います…。けど、あなたにだけ、与えられた特権でもあるんです。あなたの選択で未来が変わる…。生きなきゃならないんです。──たとえ身近な誰かを犠牲にしても」
「…わかっている」
セルサスは苦しげな表情を見せた。
「なら、次こそは、俺を守るような行動は控えてください。俺はそんなことをされても嬉しくなんてありません。──それで、セルサス様に何かあるなら余計に…。俺は喜んで死ねるんです」
「……」
セルサスは黙ってこちらを見つめていたが。ふいと視線を逸らし。
「俺は…」
そう言いながら、無意識に白い指先が胸もとをまさぐる。件のロケットだ。
服の下に隠されたそれは、セルサスの大切な思いを詰め込んでいるはず。
亡くした恋人アレアシオンも、そんなセルサスに生きて欲しかったのだ。
彼が命を懸けて守ったものを、俺も守る。
俺が倒れればきっと誰かがまた現れて、セルサスを生かそうと奔走するだろう。そう言うふうに出来ているのだ。
「あなたは生きてください。犠牲にしたものの分だけ、もっと強く。──そうすれば、きっとこの国は幸せに満たされます。あなたたった一人の手によって、何万、何十万の人々が幸せになる──。それって、すごいことですよね?」
「…だな」
答えるセルサスの表情は打ち沈んでいた。
「そんな暗い顔、しないでください。とりあえず、俺はまだ生きていますし。これから先も、命ある限り、お仕えさせていただきますから!」
セルサスの指が、胸元のロケットを服の上から握り締めた。
「…ああ。頼んだ」
僅かに笑んで見せたが、その笑みが辛さも含んでいるように見えたのは──気のせいだと思うことにした。
◇
「おい、取り込み中悪いが、準備ができたぞ」
カラザが部屋に入ってきた。
俺たちの会話を聞いていたのだろうか。図ったように終えた頃に入ってくる。
油断ならないぞ。
俺は身構える。と、その背後に一人の青年を引き連れていた。ブラウではない。
俺とそう背丈の変わらない秀麗な面差しの、それでいて強い眼をした青年だった。金色の髪に緑の瞳。その瞳がひたとセルサスをとらえている。
「それで、どんな手で空港へ?」
俺は気になりつつも、カラザに予定を問う。
「乗り物はだめだ。ここは路地も入り組んで狭い。車はもちろん、バイクも小回りが利かないだろう。だから徒歩で向かう。ここから空港までは五キロメートルあるかないかだ。走ればそうかからない。──ただ、三組に分かれる」
「三組?」
「ああ。セルサスと俺と、俺の部下のグループの三つだ」
と、セルサスが口を挟む。
「他は囮か?」
「そうだ。奴らの力を分散させる。セルサスは少し遠回りだが、確実に空港へ向かう道だ。俺と部下のグループも遠回りするように見せかけ、奴らを引き付ける。セルサスが空港につけば、そこで地下にもぐる。──以上だ」
「それで、行けるのか?」
俺はカラザに詰め寄った。
「賭けだろうな…。どこまで奴らが俺たちをセルサスと勘違いして追ってくるか──。だが、ありがたいことに、俺は白髪、セルサスは銀髪だ。遠目じゃ区別がつかない。少し姿を見せれば大いに勘違いして追ってくるだろう。──それに俺の傍にはおまえがいる」
「は? 俺? なんで──」
俺は当然、セルサスについていくつもりでいた。カラザの言葉に思わず問い返す。
「でないと、敵は欺けんだろう? お前の顔は割れてる。従者が傍にいるとなれば、主はセルサスに違いないと思い込むに決まってる。なんせ、命を懸けて守った部下だからな?」
最後はどこかからかいを含んでいた。いつまでカラザは誤解しているのか。俺は盛大に憤慨しつつ。
「確かにそうかもしれない…。けど──」
言い返そうとする俺に、カラザはその指を鼻先につきつけ。
「お前が傍にいれば、セルサスはお前を守ろうとするだろう」
「そんなわけ──」
「いいや。するな。さっき、お前はセルサスに説教を垂れてたが、奴はきっとそうする。──だろ?」
やはり先ほどの会話を聞いていたのだ。
カラザはそう言って面白そうな顔をして、セルサスを振り返ったが、当のセルサスは無言で睨みつけるだけだった。
「反論をしない所をみると、そうらしい」
「セルサス様? だって今さっき──」
すると横からカラザがからかうように。
「誰だって、思う相手に死なれたくはないだろう?」
「だから、それはあんたの誤解だ! 俺は単なる従者で護衛官だ。セルサス様はちゃんと思い人がいるんだ!」
どこをどう見てそう思うのか。
全く理解できない。俺がカラザの胸元へ掴みかからんばかりに詰め寄れば、
「──思い人?」
当のセルサスの言葉に驚いて振り返る。
いやだって、いるでしょう?
俺はそれまで集めた情報を頭の中で反芻しながら。
「エルに聞きました…。亡くなった友人とは特別な関係だったって。──それ以上はここで言いませんけど…。セルサス様も大事な人だと認めましたよね?」
それが思い人でなくてなんなのだ。キスまでしていたのだ。とても大切な相手だったのは伺える。
「確かに、大切な存在ではあったが…」
俺とセルサスの間に微妙な沈黙が残るが。
それを終わらせるように、カラザは手を打つと。
「──今はそこまでだ。互いの思いの確認なんてしてる場合じゃねぇ。グループ割りは、こうだ。セルサスとブラウ、俺とセト。他に俺の部下のグループだ。セルサスの所にはこいつもつける」
そう言うとようやく後ろに控えていた青年が進み出た。
「アウラです。──よろしく」
そう言ってセルサスに白いほっそりした手を差し出してきた。セルサスがそれを握り返すと、
「──父はラファガに殺されました。セイブル・フォン・ビエントをご存じありませんか?」
「ビエント…。父の部下だったな。たしか貴族出身だった」
「父はラファガに反発していたため、処刑されました。…母もです。私はなんとか逃れここへ流れつきました」
「そうだったか…」
と、横からカラザが。
「そいつはセトの代わりだ。背格好も似ている。ダミーに連れて行け。遠目には分からんさ。──それに、こいつと違ってちゃんと腕も立つし頭も切れる。安心しろ」
ぐっう。俺は思わずカラザを睨みつけたが。
「──わかった」
セルサスはそれ以上、何も言わずアウラから視線を外し、こちらに目を向けてきた。紫の瞳がきらりと強く光って見える。
「それぞれに護衛がつく。だが、基本的に自分の身は自分で守れ。セルサスの心配はしていないが──」
そう言ってカラザが俺を見る。
「お、俺だって大丈夫だ! なめんなよ!」
「…ならいいが」
カラザはまるで威嚇する野良猫だと笑った後、
「装備は隣の部屋に用意してある。銃器も好きなのを使え。セルサスは頭をきっちり隠せよ? アウラも一緒に準備しろ。ブラウ、後を頼む」
「わかりました」
ブラウは表情も変えずにそう返すと、セルサスを隣へ案内した。それにアウラもついていく。
俺も続こうとするが、それをカラザが引き留める。
「なんだ?」
「セルサスが心配だろうが、あいつはその辺のテロリストより強い。それ以上だな。俺と肩を並べられるだろう。いい、マフィアにもテロリストにもなれる…」
「はぁ? セルサス様はそんなんじゃ──」
「お前がそのお花畑の頭でなんと思おうと、お前の主はそう言う奴だ。──だが、お前は違う。ケツに殻をつけたヒナみてぇなもんだ」
「…っ」
ぐっと言葉を飲み込んだ。
確かにそうなのだ。絶賛、鍛え中のいち下級兵士に過ぎなかったのだから。恐ろしく強いセルサスから見れば、特にそう見えるだろう。
「さっきも言ったが、奴はお前を守ろうとするだろう。結果、一緒に行動すれば、お前は奴の枷になっちまう。要は足手まといだ。そうなるのは望んでねぇだろ?」
「もちろん…」
「だったら、大人しく俺についてくることだ。わかったな?」
「わかった…」
異論はない。俺がここの連中を比べ、まだまだなのは良く分かっている。
護衛官になれたのだって、もとはただせば俺が強いからじゃない。単に縁があったからにすぎないのだ。
俺があの時、トラックに轢かれなければそもそも起きなかった出来事だ。
わかってるさ。
俺は盾になるくらいしか、役に立てないのだ。
「ブラウの腕は確かだ。そこは安心しろ。二人だけになっても確実に空港に送れる。それには俺たちの活躍が重要だ。せいぜい、お前は敵をひきつけろ」
そう言ってポンと頭に手を乗せてきた。
まるで子供扱いだ。でも、これが俺の現実だった。