10.オポッサム
その後、深夜にセルサスが帰宅した。
日もまたごうかという時刻だ。なぜ分かるのかと言えば、支給された端末がその帰宅を告げたからだ。電子音のアラームが小さな音を立てる。
そう言う設定になっているのだと、エルが言っていた。
が、世話を焼こうにも俺の方からこの隣へと続く扉は開けられない。本格的な仕事は明日からで、今日の俺の用務は終わっていたからだ。
賊が入ったり、異常があればすぐに感知し、ロックは解除されるらしいが、当の本人が出入りしている分には勝手に開かない設定と言う事だった。
俺は目を覚ましたが、開くことのないドアを見つめることしかできない。
ちなみに、セルサスの起床時間になると、こちらからも扉は開く。身の回りの世話をするためだ。一日の仕事を終えて俺が自室に戻ると、ロックされ俺の方からは入れなくなると言う。
耳を澄ませても物音は聞こえなかった。防音対策はばっちりだ。当たり前だろう。俺の住んでいた寮と違って、隣の話し声や物音が聞こえるような薄い壁で出来てはいない。
俺の出番はないな…。
ベッドの中、寝返りを打てば、突然ドアが音を立てた。ぎっときしんで木製のドアが確かにこちら側に開いたよう。
ん?
俺は思わず顔をあげた。
「…すまない。起こしたか?」
僅かに衣擦れの音がした。白い影がぼんやりと暗闇の中に浮かぶ。
「あ…いえ。起きていたんで…。なにか?」
「…いや。君が本当に隣にいるのか、確認したかった」
なんとも微笑ましい理由ではないか。
その言葉にふっと笑みを浮かべると、俺はベッドサイドのライトを灯す。アンティークなそれは淡い光を放って、暗闇の中に立つセルサスを照らし出した。
ジャケットは脱いだらしく、上はベストとシャツ姿だ。どことなく疲労が顔に浮かんで見える。というか、疲れて当然だろう。
セルサスからは微かにアルコールと煙草の匂いがした。スケジュールでは賓客の接待とあったが、会食後は招いた客の為に夜会が開かれていたらしい。さぞかし綺羅びやかで気を張る催しだったに違いない。
「何かご用意しますか?」
といっても、水か白湯か、紅茶かコーヒーくらい。セルサスは中央に置かれた椅子に腰かけると、テーブルの上に肘をつき、しばらく頭を支えるようにしていたが。
「…いや、いい。──それより、少しここで休んでも?」
「はい…。それは──」
「よかった」
そう言うと、セルサスは立ち上がってそのままベッドに近づいてくる。
ん?
てっきり、そこで休むかと思ったのだが。
俺は半身を起こしていたのを、近寄るセルサスに驚いて、さらに身体を起こした。
セルサスはそんな俺を見下ろすようにそこへ立ったかと思うと、唐突に腕を伸ばし抱きしめてきたのだ。
「?!」
ベッドに乗り上げた所為できしんだ音がする。思った以上にがっしりとした腕が俺の背中に回った。ほとんど抱きすくめられている。
な、なにが起こってる?
俺は硬直する。まるで敵に見つかって擬死するオポッサムのごとく、だ。
ちなみに死臭を放ったり汚物を排泄したりはしない。そんなことまですれば大ごとだ。
セルサスは構わずに更に抱き寄せると、首筋に頰を埋めてきた。
こ、これは──?!
エルの言葉が頭によぎる。まさかの事態が起こるのかと思ったが──。
「…生きている」
そう、つぶやく様に口にした。
「は、はい。もちろん」
そうだ。俺は生きているぞ。
セルサスは笑ったようだった。
「誰かの死を見るのは──もう、沢山だ…」
「?」
絞り出すように発せられた声は、ひどく切なげだった。
「──暫く、このままで」
「…は、はいっ」
そうして、セルサスは俺がつい、寝落ちするまでそうしていた──らしい。
◇
鳥のさえずる声で目が覚めた。
起床にはまだ早い。ここは郊外に立つ寮とは違う。それでもこんな高層ビルにまで鳥が遊びに来るらしい。
すげーな。どんな鳥だ?
俺は首を巡らせ、窓を見ようとしたが──。
「?!」
事態を知って再びオポッサムと化した。
昨晩を思い出す。セルサスから暫くここで休みたいと、そう申し出があったのだ。俺が拒否するはずもなく。
そうしたら抱きしめられて。
心臓をバクバクさせつつも、冷静を装い受け入れたのだが──。
俺は傍らに目を向ける。
セルサス様の顔が──ある。
それは、あるだろう。なかったら大騒ぎだ。違う。俺の隣にあるのだ。それが大問題だった。
あの後、どうした?
──記憶がない。抱きしめられた腕の中が温かく、人の温もりが心地よく。しかも、これはセルサスの腕の中で。思わずうっとり目を閉じた所までは覚えている。
そして、目が覚めると、セルサスが隣にいたのだ。
シャツ姿のままでなく、しっかり寝支度を整えている。ということは、俺が寝落ちした後、シャワーを浴びて着替えてここへ再び来たことになる。
ん。まてまて。ここは──俺の部屋か?
まず窓の大きさが違う。俺の部屋は腰位の高さまでの窓だ。だが、今目に映るのは、明らかにベランダのある間口の広い窓だ。
その手摺に鳥がさえずって餌をついばんでいる。どうやらバードウォッチング用に餌が置かれているらしい。だから鳥が来るのだ。
──てことは。
ベッドはキングサイズ。天蓋付きだ。壁は木目調で重厚な造り。
明らかに、俺の部屋ではない。
俺は首をもとに戻し、再度傍らを見る。こちらに顔を向けたセルサスは前髪が下り、さらに年若く見えた。すっかり熟睡している様で、俺が身動きしても起きる気配がない。
無防備だ…。
見れば俺の腰に腕が回っている。
距離が近いぞ。距離が。
信じがたい状況だが、昨晩、セルサスは俺を自分のベッドに運び込み、抱き枕よろしく添い寝したことになる。
しかし、なぜ?
どこか寂しげだったのは覚えている。誰かの死を見るのは沢山だと口にしていた。きっと俺の死と誰かを重ねているのだ。
それは誰なのか。
とにかく、身近なものが死亡したのだろう。それを思い出し、寂しくなって俺を訪ねた。──そんなところか。
俺で慰めになるならお安い御用だ。
「……?」
と、セルサスが身じろいだ。俺は慌てて距離をとる。
「セルサス様?」
「…まだ、起きるのには早いだろう…」
時刻は五時前。六時で十分間に合った。
「は、はい…、でも、その──」
「なら、もう少し寝ていろ…」
言って、距離をとった俺を引き寄せまた抱き込む。例のセルサスの香りが包み込んだ。温もりも心地いい。ぬくぬくだ。
って、いやいやいや。
落ち着いている場合じゃないぞ。俺。
エルは言った。嫌なら断固拒否しろと。しかし、断固拒否するほど、嫌ではない。むしろ嬉しいくらいで。
でも、明らかにこれは間違っていると思う。
だって、俺だぞ?
いくら寂しいとは言え、こんなかわいらしさのかけらもない俺を抱きしめて眠るって、どうかしている。幾らセルサスとは言え、これは間違っているだろう。
く、くそう。
ぐぐっと腕を押しやり、身体と腕の間に隙間を作ろうと試みるが──徒労に終わる。
セルサスの腕はびくともしないし、余計に抱きしめられたくらいで。
結局、俺は脱力して、すべて放棄すると、訪れる眠気に身を任せた。
もう、どうにでもなれ、だ。
◇
「セト、起きろ」
言われて目を覚ませば、すっかり身支度を整えたセルサスがこちらを見下ろしていた。
「へ…? うわっ! 寝過ごした!」
俺は慌てて飛び起きた。ベッドサイドに置かれたアンティークな時計を見れば、起床時刻をとっくに過ぎている。開け放たれた隣接する部屋からは、スープのいいにおいが漂ってきていた。コンソメだろうか。
しかし、焦る俺と裏腹に、セルサスは笑むと、
「俺が止めた」
「へ…?」
「アラームをな。君をぎりぎりまで寝かして置きたかったんだ。昨日の移動と慣れない環境で疲れたはずだ。それに、今日は朝から勤務だ。せめてもと思ってな。朝食の用意はできている。食べよう」
「あ、ああの! でも、俺の仕事では──」
身の回りの世話も食事の用意も、エルから伝えられた仕事内容だ。ちなみに、食事はセルサスのみであったはず。
昨日のランチは不意打ちだった所為でなんとなく一緒に取ってしまったが、実際は主人と使用人が一緒に取ることなどあり得ない。しかし、セルサスは笑うと。
「俺は自分の身の回りの事は自分でできる。エルはそうは言わなかっただろうが、本来、人にされるのは好きじゃない。君を身近に置くために、『護衛官』と『従者』の仕事を与えたが、形だけだ。君はここでは普通にしていていい。──自分の部屋に俺の写真を貼ってもかまわない」
最後は悪戯っぽく笑んだが。
う、美しい…。て、そうじゃなく。
「で、でも…。それは」
「俺がそうしろと言っている。もちろん、外に出たらそうはいかないが。ここでは普段の君でいてくれ。そうして欲しい。──ダメか?」
ぐふっ! 凶悪、上目遣い…。
ノックアウト。俺はガクリと頭を垂れた後、再びぐっと顔を起こし。
「いいえ…。それでいいなら…。でも、本当に?」
「ああ。そうしてくれた方が嬉しい」
「…なら」
不承不承頷く。
「それと──」
そう言って、セルサスは俺の右肩に手を置くと。
「これからもここで寝てもらえるか?」
「ここ…。って、俺、昨晩は──すみません! 寝落ちして…」
「いいんだ。ここへ運んだのは俺だ。できれば今後もここで一緒に寝て欲しい」
「でででも、それはさすがにっ」
俺の分際でそこまでしていいものか。いや、俺は大歓迎なのではあるけれど、さすがにそれはどうかと思うぞ。だって俺はただの護衛官であり、従者であり、話し相手…。
「なら、毎晩君が寝入ったあと、俺がここへ運ぶ──。それだけの話だ。君がはじめからここへ寝てくれれば手間が省ける」
「そんな…」
「…ひとりで寝ていると、毎晩、目が覚める。覚めてひとりだと思う…。この世で自分一人しかいないと思えてな…」
って、そんな辛そうな顔をしなくとも。
「──くっ。お、俺でいいなら…」
結局これも根負けして俯いた。
「そうか。良かった…」
セルサスの手が肩から後ろ頭へと滑っていく。それをぼんやりと意識しながら、
「どういたしまして──」
そう返せば、額と額が合わされていた。こつり、と。
「頼む…」
うは。なに。これ。
俺はオポッサム化さえ忘れ、一瞬、気を失った。




