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潜意識の白い影 (2)

 そこは荒れ果てた裏路地だった。

  埃っぽく、ひどく静まり返っている。


 傷だらけのエリヴィアは、ふらつきながら逃げ続けていた。


 体力は限界に達し、

  追っ手の足音が急速に近づいてくるのを、耳の奥でかすかに感じていた。


 ──もう、逃げ場がない。


 傷口から血が滴り、視界がぼやける。

  その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。


 そして、最後の手段として、

  彼女は自らの姿を白猫へと変えた。


 細く華奢な身体、

  純白の毛並み。


 荒れ果てた巷の一角、

  積み上げられたゴミの陰に身を潜め、

  呼吸を殺しながら、気配を消した。


 ──そう、ここならば、見つからないはずだった。


 だが、その時。


 彼女の隠れ場所に、ひとりの少年が迷い込んできた。

 赤い髪、緑色の瞳を持つ、まだ幼い少年だった。

 彼は、偶然にも身を潜める白猫を見つけた。


 だが、驚くこともなく、

  ただじっと、静かに見つめていた。


 少年は、慎重な足取りでそっと近づく。

  まるで、目の前の白猫を傷つけまいとするかのように。


 彼の眼差しは、驚くほど穏やかで、強い意志を宿していた。


 それは単なる好奇心ではなく、

  哀れみでもない。


 ──どこか、決意のようなものを感じさせる瞳だった。


 少年は膝をつき、優しく手を伸ばす。

「……大丈夫。俺が助けてあげる。」


 その声は、驚くほど静かで、優しかった。


 ──なぜ?


 エリヴィアは、目の前の少年を見つめた。


 彼の言葉は、あまりにも自然で、

  まるで最初から彼女を助けることが「決まっていた」かのようだった。


 しかし──彼を巻き込んではいけない。


 追っ手は、すぐそこまで迫っている。

  この少年が、自分のせいで巻き込まれるわけにはいかない。


 エリヴィアは、本能的に少年の腕の中から抜け出そうとした。

 必死に逃れ、巷の奥へと跳び出す。


 ──だが、その先には、思わぬ危険が待ち受けていた。


 彼女は、気づかぬうちに「道路」へと飛び出してしまったのだ。

 ちょうどその時。


 大型トラックが猛スピードで走ってきていた。

 轟音を立てて、迫るヘッドライトの光。


 ──しまった。


 エリヴィアは、刹那の判断ミスを悟った。


 もう、止まれない。

   もう、間に合わない──


 そう思った、その瞬間だった。

 少年が、ためらうことなく飛び込んできた。


 その小さな身体が、白猫をかばうように覆いかぶさる。

 瞬く間に、彼の腕の中へと抱き寄せられた。


 強く、迷いなく。


 緑の瞳が、

  ヘッドライトの眩い光を反射していた。


 そこには、恐れの欠片すらなかった。


 少年は、ただ純粋に、

  目の前の小さな命を守ろうとしていた。


 ──例え、自らの命を犠牲にしてでも。


 ──エンの呼吸が、わずかに乱れる。


 脳裏の奥深くで、記憶の断片が揺れ動いた。

  それは、遠く、そして手の届かない光景。


 不完全でありながら、確かに存在する。

  曖昧でありながら、拭い去れない感覚。


 胸の奥に、じんわりとした温かさと、言葉にできない苦みが広がる。


「……あの時のお前は、ただ無謀な子供だった。」

  「自分の選択が、どんな結果をもたらすかなんて、考えてもいなかった。」


 エリヴィアが静かに呟く。

  彼女はエンの肩にそっと身を寄せた。


 紅い瞳には、どこか寂しげな光が揺れている。

  それはまるで、懐かしさと痛みが絡み合った、一つの記憶のようだった。


 ──彼女も、忘れてなどいなかったのだ。


 エンは、しばし沈黙する。


 目の前に広がるのは、あの夜の光景。


 荒れ果てた路地、

  ゴミの山、

  赤い髪の少年が、小さな白猫を抱きかかえていた。


 彼は、目を細めながら低く呟いた。


「……もう調べはついている。」

  「あの時のことも、お前が俺を選んだ理由も……全部、わかっている。」


 そう、彼は知っていた。


 ──なぜエリヴィアが、彼を選んだのか。

  ──なぜ彼の中に、その力が宿っているのか。


 しかし。


 エリヴィアは、そんなエンの言葉に微笑むことはなかった。


 むしろ、彼をまっすぐに見据え、

  静かに、しかし鋭く問いかける。


「なら、覚えている?」

  「──お前自身が、あの場所にいた理由を。」


 彼女の声は、刃のように鋭く、そして静かだった。


 一瞬、エンの動きが止まる。


 息が詰まる。


 脳裏の奥底で、何かがうごめいた。

  微かに、そして確実に、過去の亡霊が目を覚ます。


 ──なぜ、あの路地にいたのか。


 ──なぜ、ゴミの山のそばで独りだったのか。


 それは、思い出したくない記憶だった。

  長い間、意識の底へと押し込め、封じ込めてきた。


 だが、エリヴィアの言葉が、

  その封印を無情にも斬り裂いていく。


 途端に、胸の奥が苦しくなる。


「っ……!」


 断片的な記憶が、無理やり押し寄せる。


 冷たい母の視線。

  壁際にうずくまる、自分の幼い姿。

  罵声、痛み、嘲笑──


 あれは、彼が必死に逃げようとした「過去」だった。


 記憶が形を成し、場面が変わる。

  次の瞬間、彼らは病院の廊下に立っていた。


 清潔な白い壁、明るい照明が廊下を照らし、

  空気には消毒液の匂いが漂っている。


 エンは、無言のまま周囲を見回した。

  医療スタッフが忙しなく行き交い、その中の一人の医師が低い声で看護師に指示を出している。


「この子の状態は少し異常だ。交通事故による外傷だけでなく、全身に新旧の傷跡が見られる……それに、長期的な栄養不足による発育不全もある。」


 看護師が眉をひそめる。

「そんな状態で……まだ生きていられるんですか?」


 医師はため息をつき、首を振った。

「ここまで耐え抜いたのは、彼の生命力が異常なほど強いからだ。普通の子供なら、とっくに限界を迎えていてもおかしくない。」


 その言葉が、エンの胸に重くのしかかる。

 まるで、彼の内側にある何かを抉るように響いた。


「……そうか。」

 低く、しぼり出すような声で呟く。


「あの時の俺は、もう限界だったんだな……」

 拳を固く握りしめる。


 そうだ──あの頃の彼は、生き延びることすら奇跡だった。

  なのに、自分はそれを深く考えたこともなかった。


 肩の上の白猫が、静かに彼を見つめていた。


 赤い瞳はどこまでも穏やかで、

  まるで彼の痛みに寄り添うように、そっと寄り添っている。


 何も言わない。


 ただ、そこにいるだけ。


 しかし、その沈黙が何よりも優しく、エンにとっては息が詰まるほどの安堵をもたらした。

 彼はゆっくりと視線を落とし、低く問いかける。


「つまり……お前が言いたいのは……」

「俺は、お前がいなければ、とうに死んでいたってことか?」


 白猫の紅い瞳がかすかに光を宿しながら、じっとエンを見つめていた。

  しかし、不安げな彼の問いに対して、すぐには答えなかった。


 沈黙が流れる。


 そして、ようやく口を開く。

 その声には、言葉では言い表せないような深い意味が込められていた。


「私があなたを選んだわけではない。あなたが私を選んだわけでもない……」

「あの時、私たちには、選択肢がなかったのよ。」


 穏やかな語り口だが、その一言一言は鋭く、エンの心に深く突き刺さる。


「あの時、私たちはどちらも死の淵にいた。ただ、お互いを頼るしか、生き延びる方法がなかった。」


 エンの視線がわずかに揺れる。

 彼の指先がかすかに震えているのが、自分でも分かった。


 怒りとも、悔しさとも、無力感ともつかない感情が、胸の奥でじわじわと膨れ上がっていく。

 それを知ってか、エリヴィアはそっと尾を揺らし、静かに言葉を続けた。


「だから、これは自ら望んで手に入れたものではない。運命に追い詰められ、選ぶしかなかった唯一の道なのよ。」


 彼女の声には、どこか淡い優しさが滲んでいた。

 それは、理不尽な運命を受け入れながらも、寄り添おうとする者の声だった。


 エリヴィアは伏し目がちに視線を落とし、申し訳なさそうに静かに呟く。


「本当はね……あなたが目を覚ました時、普通の人生を歩んでほしかった。」

「もう戦わなくてもいい、混乱に巻き込まれることもない、平穏な生活を……」

「でも……アレスのこと、そして夜行者の脅威……あなたをこの戦いに引きずり込む結果になってしまった。」


 彼女の言葉には、深い後悔が込められていた。


 それはエンに対してだけではない。

  彼女自身が、変えられない運命に囚われていることへの自責でもあった。

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