残影の中の手がかり (9)
炎の膝の上で、手がわずかに握り締められる。
アイデンとマイルズの言葉を否定できなかった。
だが、夜行者の圧倒的な力を目の当たりにしたあの瞬間が脳裏を離れない。
本当にこの責任を背負えるのか?
エリヴィアの力が宿っていても、それを操れる保証はない。
(この力は俺のものなのか、それとも押しつけられた幻想なのか……?)
沈黙の中、炎は思考の迷宮に囚われる。
アイデンとマイルズは無言で視線を交わした。
アイデンが静かに息を吐く。
「エンには休息が必要だ。今は無理をさせない方がいい。」
マイルズは腕を組み、眉をひそめるが、炎が口を開いた。
「……俺は自宅に戻りたい。」
一瞬、室内の空気が張り詰める。
マイルズが低く反論する。
「今の状況でギルドを離れるのは危険だ。夜行者の動向が掴めていない。」
「自宅が安全とは限らない。」
炎は眉を寄せる。確かにギルドなら支援がある。
だが同時に、エリヴィアの力への期待からも逃れられない。
アイデンが沈黙を破った。
「なら、帰る前にリアに治療してもらえ。少しでも回復すれば楽になる。」
マイルズはすぐには答えず、目を閉じて短く息を吐く。
かつて炎の自宅を追跡しようとしたが、強力な結界に阻まれたことを思い出す。
あの防壁があれば、確かに下手な場所より安全かもしれない。
「……今まで夜行者がそこに現れた形跡はない。
だが何かあれば即座に連絡しろ。我々は常に監視している。」
炎は静かに頷く。
自宅なら少し息がつける。
ギルドにいれば、否応なく力について問われ続ける。
その時、アイデンの視線が扉へ向く。
「……リア?」
そこにはリアが静かに立っていた。
いつからいたのか、彼女は会話を聞いていたらしい。
だがその瞳には明らかな動揺が宿る。
──エリヴィア。
その名を耳にした瞬間、彼女の表情が微かに歪んだ。
遠い記憶が呼び覚まされたかのように。
「リア?」
アイデンが問いかけると、彼女はハッとして目を伏せる。
動揺を隠しきれなかったが、言葉にはせず静かに息を整えた。
(彼女はエリヴィアについて何を知っているんだ?)
炎の中で新たな疑問が生まれる。
リアは扉を押し開け、室内へ踏み入れた。
三人に軽く会釈し、炎のもとへ向かう。
彼女の視線は彼の状態を見極め、そっと肩に手を置く。
温かな魔力が流れ出し、疲労と痛みを静かに鎮めた。
炎は全身が癒しの力に包まれるのを感じ、身を起こす。
「ありがとう、リア。」
穏やかに礼を述べ、彼はアイデンとマイルズへ視線を向ける。
瞳には迷いのない決意が宿っていた。
「どんな状況でも警戒は怠らない。夜行者の動きを意識しておく。」
アイデンは無言で頷き、マイルズが鋭く念を押す。
「何か異変があればすぐ報告しろ。」
こうして炎は一時的にギルドを離れ、自宅へ戻ることになった。
だが心には新たな疑念が芽生えていた。
(リアとエリヴィアの間に何がある?)
彼の知らない“真実”が、静かに動き出そうとしていた。
◆ ◆ ◆
マイルズは最後まで炎の身を案じ、彼を自宅近くまで送ることにした。
車内には重い沈黙が漂う。
カルマとアルが炎の隣に座り、カルマは時折彼の横顔を盗み見るが、何かを言いかけては言葉を飲み込んでいた。
アルは座席に丸まり、炎に寄り添うように身を寄せる。
小さく鳴いてその存在を伝え、彼の傷や疲労を感じ取っているようだった。
マイルズは無言でハンドルを握り、前方の道を険しい表情で見つめ続けていた。
夜行者の脅威が彼の胸に渦巻き、迫りくる戦いの重圧は決して軽いものではない。
カルマもまた、複雑な思いに沈んでいた。
炎の安否を気遣う一方で、彼の中に目覚めつつある「エリヴィアの力」への不安が心を揺さぶる。
あの強大な力を彼女は目撃したことがあり、それが公会と夜行者の対立の中心になれば、炎は否応なく戦場に引きずり込まれるだろう。
彼女は黙って隣の炎を見つめた。
彼の表情は感情を隠し、ただ静かだ。
だが、その背負うものの重さは痛いほど伝わってくる。
炎は車窓の外をぼんやり眺めていた。
夜行者の脅威は、まるで影のように彼の周囲を漂い続ける。
アレスが遺した謎は、鎖のように彼を縛る。
廃墟に残る魔力の残滓、アルの符紋、そして夜行者のエリヴィアへの執着――
それらが繋がっているはずなのに、欠けたピースが答えを遠ざける。
今はただ、家に帰りたかった。
肩の重圧は消えないが、それを口にしたところで何も変わらないと分かっている。
やがて車は炎の住処近くに停まった。
マイルズが短く頷き、簡潔に言う。
「しっかり休め。何かあったらすぐ連絡しろ。」
炎も無言で頷き、カルマの手を借りて車を降りる。
その手をそっと握ると、カルマが一瞬驚いたように目を瞬かせた。
最後にマイルズへ視線を向けると、彼の眼差しは何か言いたげだったが、言葉にはならず背を向けた。
そして、カルマの手を握ったまま、彼女とアルを連れて歩き出す。
指先に込めた僅かな力は、言葉にできない感謝の証だった。
カルマはその仕草に気づき、手元を見て小さく微笑む。
その笑みは穏やかで温かく、今までの葛藤や不安を包み込むような静かな光のようだった。
二人と一匹の足音が街路に淡く響き、炎はこのひとときを噛み締めるように歩いた。
過去の戦いも未来の危機も今は忘れ、カルマと共に家へ戻る──
その束の間の平穏に身を委ねて。