暗流の幕開け(7)
戦場に、静寂が訪れる。
激闘の余韻すらも、夜の闇に吸い込まれ、まるで何もなかったかのように――。
炎は、小さく息をつく。
背に広がっていた紅の翼は、静かに霧散し、闇へと溶けていった。
彼は、微かに伏し目がちに、夜行者の消えた空間を見つめる。
その瞳に宿るのは、勝利の歓喜ではなかった。
「……ただの狂信者、か。」
独り言のように呟く。
だが、彼の表情にあるのは、憐れみではない。
理解と、断絶。
かつて何者かを崇め、盲信した男の末路。
そして、それは彼とは決して交わらぬ道だった。
炎は、静かに顔を上げる。
夜風が頬を撫でた。
紅蓮の戦場は、既にただの静寂へと変わっていた。
「エン、大丈夫……?」
カルマの声はかすかに震えていた。驚きと戸惑いが入り混じり、抑えきれない動揺が滲み出ている。
彼女は素早く炎のそばに膝をつき、慎重に彼の衣服をめくった。
しかし——
そこにあったのは、信じがたい光景だった。
つい先ほどまで鮮血に染まり、深々と刻まれていたはずの傷が、跡形もなく消えていたのだ。
「……嘘でしょう……?」
彼女の指先がかすかに震える。思わず小さく呟いたその言葉は、自分自身への確認のようでもあった。
これは普通の治癒ではない。
魔法か? それとも何か別の——
炎もまた、異変に気づいた。
彼はゆっくりと目を落とし、自身の胸元を見つめる。
まるで何事もなかったかのように、完全に修復された肌。
信じがたいものを見たかのように、彼の眉がわずかに寄せられる。
——だが、その困惑に浸る暇もなく、突如として襲いかかる激痛が、彼の理性を一瞬で飲み込んだ。
「……ッ!!」
炎の身体が大きく震え、胸を押さえながら膝をつく。
まるで体の奥底から何かが暴れ出すような感覚——
それは外傷の痛みとはまるで異なる、魂そのものを焼き尽くすような灼熱の痛みだった。
「ぐ……ッ!!!」
鋭い痛みが奔流のように全身を駆け巡り、炎は奥歯を噛みしめる。
全身の筋肉が硬直し、呼吸さえままならない。
まるで見えない鎖に縛られたかのように、彼の身体は強烈な力で締め付けられていく。
意識が朦朧とし、視界が揺らぐ——
その瞬間、炎は確かに「それ」を聞いた。
「……ごめんなさい……」
——誰だ?
その声は、どこか懐かしく、それでいて胸を締め付けるほど切ない響きを持っていた。
まるで優しく抱きしめるように、しかし同時に、深い悲しみを湛えている。
炎の心臓が微かに跳ねる。
これは……何だ?
その問いが頭をよぎった次の瞬間、痛みとは別の「重さ」が彼を押し潰しそうになる。
まるで、この力の背後には、まだ知り得ぬ「何か」が隠されているかのように——
「エン……ッ!!」
カルマの声が、その混乱を振り払うように響いた。
炎は必死に痛みを押さえ込み、意識を繋ぎ止める。
強引に身体を持ち上げ、苦しげに息を整えながら、力なく笑った。
「……カルマ……お前は……無事か……?」
カルマは一瞬、言葉を失った。
こんな状態になってなお、自分を気遣うのか——
彼のその姿に、感謝とも困惑ともつかぬ感情が胸に湧き上がる。
それはほんの一瞬の迷いだったが、彼女はすぐに表情を引き締め、力強く首を横に振った。
「私は大丈夫。でも……」
彼女の瞳が、炎の顔を真っ直ぐに見つめる。
そこには、今までにないほどの「不安」と「疑問」が浮かんでいた。
「——お前のほうこそ、本当に大丈夫なの?」
炎は深く息を吸い込み、意識を整えた。
先ほどの異変を抑え込み、何事もなかったかのように振る舞う。
静かにカルマに向かって頷くと、彼の視線は夜行者が消えた場所へと向かった。
敵の気配はもう感じられない。
炎はわずかに息を吐き、低い声で言った。
「……ここには長く留まれない。早く離れるぞ。」
カルマは一瞬、彼をじっと見つめた後、無言のまま頷いた。
ふたりはすぐに身を翻し、夜の闇へと紛れ込む。
未だに戦いの痕跡が残るその場所を後にし、沈黙の中、素早く撤退した。
◆ ◆ ◆
静寂に包まれた路地を、ふたりは迅速に駆け抜ける。
足元には砕けた石や割れたレンガが散乱していたが、炎は一歩も無駄にせず、着実に進んでいた。
しかし、彼の呼吸はまだ完全には整っておらず、先ほどまでの戦いの余韻が、身体の奥深くに重く残っていた。
力の奔流はすでに収まりつつあるが、消えない痛みが影のように神経を蝕んでいた。
彼の足取りが微かに乱れる。
カルマはそれに即座に気付き、何も言わずに並走した。
彼女の表情には普段の余裕はなく、ただ冷静に彼の状態を観察していた。
しばらくして、ふたりは安全圏へと到達した。
◆ ◆ ◆
炎が足を止めると、カルマも同じく歩みを緩めた。
彼女はじっと炎を見つめ、ついに口を開く。
「……さっきのは何だったの?」
その声は、単なる興味ではなく、確かな警戒と疑問が入り混じっていた。
あの異常な回復、そしてその後に襲いかかった苦しみ——
それはまるで奇跡と呪いが一体となったような、理解不能な現象だった。
カルマは先ほどの出来事を思い返す。
彼の傷は瞬く間に癒えた。
しかし、同時に、それが何かを引き換えにしたような痛みを伴っていた。
彼が受けたものは、単なる治癒ではない。
もっと根深い、何か「代償」を伴う力——
そう感じずにはいられなかった。
炎は静かに首を振る。
彼の表情は冷静そのものだったが、その奥に見え隠れする迷いをカルマは見逃さなかった。
「……俺にも分からない。なぜ、こんな力が俺の中に……?」
カルマの眉がわずかに寄る。
彼の言葉は率直だった。
しかし、それがかえって彼女の不安を掻き立てた。
「この力……いったいどこから来たの?」
「そして——」
「お前の身体は、いつまで耐えられる?」
彼女の声には、普段の皮肉や軽口は一切なかった。
ただ、純粋な懸念が込められていた。
彼女は軽率に「気にするな」などとは言えなかった。
なぜなら、炎がさっきまで感じていた「痛み」は、確実に普通のものではなかったから。
炎は小さく息を吐き、わずかに目を伏せる。
彼はカルマの懸念がもっともだと理解していた。
しかし、答えは持ち合わせていない。
いや——
自分自身が知りたい。
自分の中にある、この「未知の力」は何なのか。
なぜ、あの声が響いたのか。
だからこそ、炎はただ静かに言った。
「……かもな。」
短く、それだけ。
カルマは炎の横顔を見つめたまま、何も言わなかった。
彼女の瞳には複雑な感情が揺れていたが、最後にはただ、黙って前を向いた。
二人が夜行者の消えた場所を後にすると、街は次第に静寂を取り戻していった。ただ、わずかな夜風だけが二人の間を吹き抜けていく。
しばらく沈黙が続いた後、炎はふとカルマに視線を向け、低く呟いた。
「……今回の件、礼を言う。お前がいなかったら、ここまでうまくいかなかったかもしれない」
カルマは肩をすくめ、口元にわずかに得意げな笑みを浮かべた。
「……どうやら、私と組むのも悪くないみたいね?」
二人は互いに微笑みを交わし、わずかながら空気が和らいだ。
——しかし、今夜の戦いが残した疑問は、夜明けと共に消えることはなかった。
炎の胸中には未だ解けぬ疑念が渦巻き、夜行者の狂気じみた言葉が、まるで意図的に残された謎のように思えた。その違和感が、彼の心をざわつかせる——。
◆ ◆ ◆
夜は更け、遠くの街のネオンが冷たく煌めいていた。
炎とカルマは高層ビルの影に佇み、夜風が肌をかすめる微かな冷たさを感じていた。
先ほどの激しい戦いは二人の体力を削り取っていたが、それと同時に、より深い何かを示唆しているようでもあった。
「……俺たちは一応、あいつを倒した。でも……あいつが手にしていた力は、俺たちが考えていたよりも、ずっと複雑なものかもしれない。」
炎は低く呟き、暗闇の中でその翡翠色の瞳が静かに輝いた。
「それに……俺の力も……」
カルマは小さく頷き、バッグからアイデンが渡した羊皮紙を取り出した。
慎重に広げ、眉を寄せながら目を走らせる。
「……やつらが言っていた『力の源』……この記述が何かの手がかりになるかもしれないわね。」
炎は羊皮紙に記された不鮮明な符紋をじっと見つめながら、思考を遠くへと巡らせた。
この力と自分の関係は、思った以上に深く、抗いようのないものになりつつある。
それを知ることは、自分自身の運命を知ることでもあり——ひいては、この世界の均衡を左右することに繋がるのかもしれない。
カルマは羊皮紙を丁寧に畳み、炎の方へと視線を向けた。
唇の端をわずかに上げ、軽く微笑む。
「それで……次はどうする?」
炎はしばし沈黙し、遠くの闇をじっと見据えた。
やがて、その眼差しに揺るぎない決意が灯る。
「行こう。どんな真実が待っていようと——俺たち自身の手で、それを暴く。」
二人が静かに踵を返す。
夜の帳の向こうから、低く冷たい風が吹き抜ける。
それはまるで、これから訪れる試練の予兆を囁くようだった。
彼らの背中は、やがて闇へと溶けていく。
新たな戦いへの、無言の一歩を踏み出しながら——。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます!✨
これで**第一章『暗流の幕開け』**はひとまず完結となります。
この章では、炎とカルマの関係が本格的に動き出し、
そして「力の源」や「夜行者」といった謎が物語の鍵となることが明らかになりました。
二人の戦いはまだ始まったばかりであり、彼らの前にはさらなる試練が待ち受けています。
次の章では……?
次なる舞台、そして新たな敵が登場し、炎の中に眠る「力」の真実に迫っていきます。
カルマとの関係性も、戦いの中で少しずつ変化していくかもしれません。
読んでくださる皆さんに楽しんでもらえるよう、
これからも丁寧に物語を紡いでいきたいと思います!
次章もお楽しみに!✨
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では、次回の更新でまたお会いしましょう!