霧の中の真実と絆(12)
炎は静かに自宅の扉を開いた。
ここは、かつてエリヴィアが彼に託した場所──
淡い光の結界が張られた、穏やかな静寂に包まれた住処だった。
結界が発する柔らかな波動は、彼にとって安心できる唯一の場所。
それはまるで、エリヴィアの意思がそこに息づいているかのようだった。
炎が足を踏み入れると、結界は穏やかに反応し、
まるで彼の意識を察するかのように静かに波紋を広げた。
すると──
アルがちょこんと家の中へと入り込む。
その瞬間、結界が一瞬、微かに揺らいだ。
炎は警戒したが、アルが結界に拒まれることはなかった。
むしろ、結界はその存在を認めたかのように、静かに受け入れた。
「……俺が認めたものを、結界も認めるってことか?」
炎は小さく呟きながら、
エリヴィアの残した結界が、彼の意識に呼応していることを改めて実感した。
アルは家の中をくるくると見渡し、
好奇心たっぷりに動き回る。
その仕草は、まるで新しい縄張りを探索する猫のようだった。
「好きにしろよ。」
炎が苦笑しながらそう言うと、
アルは興味津々に室内を駆け回り、
最終的に部屋の隅の静かな場所に落ち着いた。
くるりと丸まり、翼を小さくたたみ、
目を閉じてすぐに休息状態に入る。
「……気ままなやつだな。」
炎は思わず小さく呟いた。
炎は室内を軽く整理し終えた後、
カウンターの隅に体をもたせかけ、カルマを見つめた。
「……今日の調査は、順調だったか?」
静かに問いかけると、カルマはわずかに肩をすくめ、
少し疲れた表情を浮かべた。
「順調とは言い難いね。」
「アイデンには色々と助言をもらったけど、
結局のところ、肝心の手がかりにはたどり着けなかった。」
「もっと深く掘り下げないと……本当に重要なものは見えてこない気がする。」
彼女の声には、ほんの少しの落胆が滲んでいた。
炎は黙って彼女の言葉を聞きながら、
その気持ちを少しでも和らげるように、静かに相槌を打った。
「そうか……」
カルマの父、アレスの真実を追い求める彼女。
そのために、彼女は公会に身を置き、
自ら危険に足を踏み入れる覚悟を決めた。
──それならば。
炎は、どんな結末になろうとも、
彼女が孤独にならないよう、傍にいようと決めていた。
少しの沈黙の後、炎はゆっくりと口を開いた。
「……カルマ。」
「もし……仮に、お前が"あの狩人"に出会ったら──」
「お前は、どうする?」
炎の問いに、カルマはふと動きを止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
彼女の瞳には、複雑な感情が映っていた。
「……正直、私にも分からない。」
彼女はそう呟き、目を伏せる。
「問い詰めるかもしれないし、怒るかもしれない。」
「でも……」
カルマの声が、少しだけ震えた。
「私にとって一番大切なのは……"理解すること"なのかもしれない。」
「復讐じゃなくて、真実を知ること。」
炎の胸に、一瞬、鋭い痛みが走る。
──もし、彼女が知ってしまったら?
その"狩人"が、自分だと気づいてしまったら?
その時、彼女は……?
炎は思考を振り払うように、拳を軽く握った。
カルマは、ふと笑みを浮かべた。
「まあ、もしその時が来たとしても……
あなたが私の代わりに戦うことは許さないよ?」
彼女は冗談めかして言ったが、
その言葉には、彼女の"覚悟"が滲んでいた。
炎が微笑み、口を開こうとした瞬間、
アルがふと動き出した。
「……?」
小さな黒い影は、
まるで何かを探し求めるかのように、
家具の隙間をすり抜けながら部屋を駆け回る。
次の瞬間──
アルの符紋が淡い光を放った。
その光は、ゆっくりと流れるように、
彼の全身を包み込みながら脈動する。
「これは……?」
炎とカルマが驚きの表情を浮かべる中、
光の粒子が空間に舞い上がり、
部屋の中央にぼんやりとした影が浮かび上がった。
──それは、アレスの姿だった。
魔力で構成された幻影のような存在。
だが、その佇まいはあまりにも鮮明で、
まるで今ここに実在しているかのようだった。
「カルマ、許してくれ。」
低く、けれどもどこか温かみを感じさせる声が響いた。
アレスの幻影は、
魔界の王たる威厳を備えた巨大な姿をしていた。
長い赤髪が燃え盛る炎のように肩に流れ、
その鋭くも深遠な眼差しが、カルマをまっすぐに見つめていた。
その視線には、
ただの恐怖や威圧ではなく──
"父親としての想い" が宿っていた。
アレスは、静かに言葉を紡ぐ。
「カルマ……
私があの日、何も告げずに去ったことを、どうか許してほしい。」
その声は、いつもの堂々たる響きとは違い、
どこか悔恨と愛情が滲んでいた。
カルマは、驚きと混乱の表情を浮かべながらも、
目の前の幻影を見つめる。
アレスの目が、どこか遠くを見つめるように揺れる。
「……あの日、私は知ったのだ。」
「エリヴィアがまだ人間界にいるということを。」
「彼女が……
かつて私が信じ、追い求めた神が、
今もなお、この世界に存在していると。」
アレスの声には、
抑えきれない激情が滲んでいた。
「私は、それを確かめずにはいられなかった。」
「私の信念は、再び燃え上がり……
私は、どうしてもエリヴィアの元へ向かわねばならなかったのだ。」
カルマの指が、震える。
アレスの幻影は、
カルマに向かって一歩、踏み出すように揺れた。
「だが、お前のことを忘れたわけではない。」
「私にとって、お前は何よりも大切な存在だ。」
「だが、それでも……
私には、エリヴィアの行方を確かめるという、もう一つの使命があった。」
カルマの瞳が揺れる。
「……父さん……」
彼女の声は、かすれていた。
アレスは、静かに続ける。
「もし、この声が届いているのなら……
頼む、カルマ。私の結末を追うな。」
「私はお前がこの争いに巻き込まれることを望んでいない。」
「お前には、お前自身の未来がある。」
アレスの幻影が、徐々に薄れていく。
「どうか、自分の道を見つけてくれ。」
最後の一言は、
まるで微かな風のように、
空気に溶け込んでいった。
アルが、小さく「ニャア」と鳴いた。
まるで、アレスの言葉に応えるかのように。
カルマの瞳は、
なおもアレスの消えた空間を捉えていた。
──そこにはもう、何もない。
けれど、彼の温もりだけが、
確かに残っている気がした。
彼女の眼差しは揺れ、
その奥には、押し殺しきれない悲しみが滲んでいた。
父の遺した言葉。
それはカルマが長い間探し続けてきた"答え"であり、
同時に、予期せぬ"別れ"でもあった。
「……そうだったんだ。」
彼女は小さく、
震える声で呟く。
「父さんは……そのために私を残していったんだね……」
炎は何も言わず、
ただ静かにカルマを見守っていた。
その小さな背中から伝わるのは、
彼女がずっと押し殺してきた痛み。
普段は強気で気丈に振る舞うカルマも、
今この瞬間だけは、悲しみに揺れていた。
そんな彼女の姿に、
炎の胸の奥には、
言葉にできない感情が込み上げる。
「……カルマ。」
炎がそう呼びかける前に、
彼女はそっと目を閉じ、
深く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと炎へと視線を向ける。
「……ありがとう、エン。」
炎は少し驚いた表情を見せる。
「アルを連れてきてくれて……
父さんの言葉を聞かせてくれて……」
「もし、私がこのまま何も知らずにいたら……
私はずっと父さんを憎み続けていたかもしれない。」
カルマの瞳には、
悲しみと安堵、そして決意が入り混じっていた。
「……でも、これが本当の"父の願い"なんだね。」
彼女はそう呟くと、
そっとアルの毛並みを撫でた。
炎は小さく頷き、
落ち着いた声で言った。
「……アレスは、お前が過去に囚われることを望んではいなかった。」
「きっと、お前自身の未来を見つけてほしかったんだ。」
カルマはその言葉を噛みしめるように、
じっとアルを抱きしめた。
アルはまるで、
彼女の気持ちを理解しているかのように、
そっと彼女の手に顔をすり寄せる。
「……わかってる。」
カルマは微笑みながら、
だがどこか寂しそうにそう呟いた。
「父さんの言葉を聞いて、
少しだけ……自分を見つめ直せた気がする。」
炎は彼女を静かに見つめ、
そして優しく言った。
「どんな選択をしても、俺はお前の側にいる。」
カルマは驚いたように炎を見上げたが、
やがて、微笑を浮かべる。
その笑顔は、どこか穏やかで、少しだけ温かかった。
「……ありがとう。」
カルマは目を閉じ、
アレスの最後の言葉を思い返す。
「……父さんは、全てを見通していたのかもしれない。」
「だからこそ、私はもう過去に囚われるのではなく……
自分の未来を探さなきゃいけない。」
カルマは、そっと眉をひそめた。
父アレスの遺した言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
──彼はなぜ、そこまでしてエリヴィアを探したのか?
もし本当に見つけていたのなら、
その後、一体何が起こったのか?
そして、アレスの決断は、
エリヴィアの存在によってどこまで左右されたのか?
答えのない問いが、
次々と彼女の心に渦巻いていく。
ふと気づけば、
カルマの視線は自然と炎へと向いていた。
彼の力──
それはどこか、
彼女がかつて父から感じていたものと似ている。
以前から、薄々気づいていた違和感。
けれど、それを深く追求することはなかった。
それに触れれば、
自分の中の"何か"が揺らいでしまいそうだったから。
だが、もう逃げられない。




