霧の中の真実と絆(10)
アイデンは、廊下の向こうへと消えていく
炎とカルマの背中を見送りながら、
小さくため息をついた。
「……やれやれ。」
彼は内心で苦笑する。
本当なら炎には公会に宿泊してもらい、
常に支援と監視を行えるようにするつもりだった。
しかし、炎は頑なにそれを拒んだ。
カルマもまた、当然のように彼についていくと言い、
さらには、魔獣のアルまでが他者を寄せ付けないのだから、
アイデンに止める術はなかった。
アイデンは、
静かに二人の背中が闇へと消えていくのを見届けると、
無言のまま会議室へと戻った。
扉を開けた瞬間──
「……アイデン。」
マイルズが、書類を手にして立っていた。
その表情は、明らかにいつもと違う。
眉間に深い皺を刻み、慎重な声音で話し始める。
「新しい情報が入った。」
アイデンは、
差し出された書類を手に取りながら、
マイルズの言葉に耳を傾ける。
「……アレスのことか?」
マイルズは静かに頷き、
低く落ち着いた声で語り始めた。
「アレスの魔界での地位は、想像以上に高かった。
もし、かつての統治制度が今も機能していれば、
四天王クラスの扱いを受けていたはずだ。」
アイデンの指が、
わずかに書類の端を押し込むように力を込める。
「四天王、か……。」
彼は目を細め、
その言葉の重みを噛み締めた。
「しかし、今の魔界に、もはや統治という概念はない。」
マイルズは続ける。
「人魔通道が開いた後、
魔界の秩序は完全に崩壊した。」
「今では、魔物たちは各々の意思で動き、
人間界を選ぶ者もいれば、
魔界に留まる者もいる。」
アイデンは、その言葉を反芻しながら、
無言でページをめくる。
「……つまり、アレスは、
魔界に留まれば安泰な立場を得られたにもかかわらず、
それを捨てたということか。」
「そうだ。」
マイルズの声音が、さらに低くなる。
「アレスは、神族のエリヴィアを選んだ。」
アイデンの指が、わずかに止まる。
「……エリヴィア。」
彼はその名前を、
まるで噛み締めるように呟いた。
「……それが、最大の謎だ。」
マイルズは、書類を閉じながら言う。
「アレスとエリヴィアの関係は、
単なる友好ではなかった可能性が高い。」
「魔界にいた頃から、
アレスはエリヴィアの名を何度も口にしていたそうだ。」
「そして、人間界に来てからは……
彼は二度と魔界に戻らなかった。」
アイデンの瞳が、静かに揺れる。
「……魔界の魔物たちは、
アレスと連絡を取ろうとしたんだな?」
「ああ、だが、すべて拒絶された。」
「何があったのかは不明だが……
アレスは、人間界に来てから、
完全に魔界を断ち切った。」
アイデンは、しばらく沈黙した。
エリヴィア。
そして、アレス。
この二人を繋ぐ何かが、
まだ彼らの知らぬ場所に隠されている。
それが、今回の事件にどう関わってくるのか──
アイデンは考え込むように、
静かに目を閉じた。
「……お前、何か知っているのか?」
マイルズが、探るような視線を向ける。
アイデンは、ゆっくりと目を開け、
わずかに微笑んだ。
「さあ、どうかな?」
彼の言葉は、
まるで霧の中に消えるように、曖昧だった。
アイデンは、
マイルズの問いに静かに頷いた。
その目には、一瞬の回想がよぎる。
「……確かに、昔、悪魔に関する機密記録を調査したことがある。」
彼は低く呟いた。
「当時の記録のほとんどは断片的なものだったが……
その中に、『エリヴィア』という名の神族についての記述があった。」
アイデンは資料を指で軽く弾き、
過去の記録を思い出すように語る。
「彼女の信念は、非常に特異なものだった。」
「単に人間を守るだけではない。
彼女の目指すものは、三界の共存だったんだ。」
「……三界の共存、か。」
マイルズが低く呟く。
「しかし、それは実現不可能な理想だろう。」
「人間界と魔界の溝は深い。
神族は、長らく人間を導く存在として振る舞ってきた。
しかし、そのバランスを変えようとする者がいたとしたら……
それは、どの陣営にとっても危険因子になり得る。」
アイデンは、静かに目を細めた。
「だからこそ、彼女は記録から消されたのかもしれない。」
マイルズの表情が一瞬、険しくなる。
「……そして、アレスの名は、
その記録の中に何度も登場していた。」
アイデンは静かに続ける。
「彼は、魔界の勢力を捨て、
エリヴィアの信念に従ったとされている。」
「当時の公会は、
彼の動向をそこまで重視していなかった。」
「なぜなら──
エリヴィアに関する記録そのものが、ほぼ抹消されていたからだ。」
マイルズは、その言葉に息を呑んだ。
「つまり、アレスの行動を理解するには、
エリヴィアの存在を知る必要がある……
だが、その情報が意図的に消されている以上、
彼の選択の理由を追うことは、当時の公会にとって意味を成さなかったわけか。」
「そういうことだ。」
アイデンは静かに頷く。
「だが、今となっては、状況が違う。」
「エリヴィアが追い求めた『共存』という概念は、
いまやこの世界の危機に深く関わっている可能性がある。」
マイルズは、深く考え込むように眉を寄せた。
「……それにしても、エンは最近、
アレスのことをやけに気にしているように見える。」
「彼の行動には、何か隠された理由があるのか?」
アイデンの目が、微かに揺れる。
「……エンは、簡単に感情を表に出す男ではない。」
「だが、カルマとの件が関わると、
明らかに彼の動きが変わる。」
「まるで……アレスの存在が、彼にとって特別な意味を持っているかのように。」
アイデンは、
過去に自らが調査したエリヴィアの記録を思い返す。
『失踪』
『信念』
『抹消された情報』
そして──
『炎の異変』
彼の胸の奥に、ある疑問が浮かび上がる。
──炎は、一体何を知っている?
何を隠している?
エリヴィアと、アレスと、炎。
その三者の間にある繋がりを、
彼はどうしても無視できなかった。




