霧の中の真実と絆(9)
研究室の扉を押し開け、炎は静かに足を踏み入れた。
腕の中には、黒い毛並みを持つ小さな魔獣。
緑と金の瞳が、警戒するように周囲を見渡している。
その姿を目にした途端、
アイデンの表情が険しくなった。
「……エン、お前、まさか未登録の魔獣をそのまま本部に持ち込んだのか?」
低く鋭い声が研究室に響く。
「ここは公会の中枢だぞ。魔獣の持ち込みは厳禁だということは知っているはずだ。」
しかし、炎は微塵も動じなかった。
「誰か文句を言うか?」
そう言わんばかりに、軽く眉を上げる。
アイデンは一瞬言葉を詰まらせたが、
やがて、呆れたように深いため息をついた。
「……お前は本当に、規則というものを知らないな。」
だが、言葉とは裏腹に、
アイデンの目には諦めにも似た理解が滲んでいた。
だが、その緊張感を一瞬で破る出来事が起こる。
炎がカルマへと話しかけようとしたその時──
黒い影が、素早く動いた。
「……?」
小さな魔獣が、突然炎の肩へと跳び移る。
そして、背を丸め、尾をピンと立て、
低く「ゥゥ……」と喉を鳴らす。
まるで、敵を威嚇する猫のように。
その視線の先には──リアがいた。
「あら、怖がられてしまったわね。」
リアは苦笑しながら、
少しだけ手を差し出す。
しかし、その瞬間──
「シャアアッ!」
魔獣が鋭く威嚇の声を上げた。
リアの指先がわずかに止まり、
彼女は苦笑を深める。
「どうやら……本気で嫌われてるみたいね。」
「ははっ、リアがここまで警戒されるとはな。」
カルマは可笑しそうに笑い、
炎の肩をぽんぽんと叩く。
「この子、かなり用心深いみたいね。
もしかして、エンよりも慎重派かも?」
「……俺よりも?」
炎は片眉を上げたが、
その問いには答えず、小さく笑った。
そのやり取りを聞きながら、
アイデンは腕を組み、改めて魔獣を観察する。
「エン、お前、どこでこいつを見つけた?」
鋭い視線が炎に向けられる。
炎は一瞬の沈黙の後、
簡潔に答えた。
「廃倉庫で。……それと、この短剣に異常な執着を見せている。
恐らく、アレスと関係がある。」
一言一言を選ぶように、炎は静かに語った。
その言葉に、室内の空気がわずかに変わる。
リアの表情が僅かに強張り、
カルマの目が真剣な色を帯びた。
アイデンもまた、
深く考え込むように目を細める。
「……なるほどな。」
何かを掴みかけたようなアイデンの反応を見て、
炎はさらに言葉を継ぐ。
「こいつはただの魔獣じゃない。
普通の生物が持ち得ない、強い『感情』を示している。
それが何を意味するのかは、まだ分からないが……」
炎の目が、小さな魔獣を見つめる。
魔獣の金と緑の瞳が、
まるで何かを語るように揺れていた。
──この魔獣は、一体何者なのか?
それを解き明かすための手掛かりが、
今、彼らの目の前にあった。
カルマは、微かに眉をひそめながら、
静かに手を伸ばした。
黒い毛並みの魔獣が、警戒のまま肩をすくめる。
その小さな体は、まだ緊張していたが、
カルマの指先がふわりと毛皮に触れた瞬間──
「……っ!」
魔獣の体が淡く光を帯びた。
毛並みの間から、
薄い魔力の紋様が浮かび上がる。
それは、どこか懐かしい気配を含んだ、
温かく、それでいて強靭な魔力だった。
「この魔力……お父さんのものだわ。」
カルマは驚きに目を見開き、
かすかに震える声でそう呟いた。
「……ほう?」
アイデンの瞳が鋭く細められる。
興味深そうに魔獣の符紋を見つめ、
口元にわずかな笑みを浮かべた。
「どうやら、この魔獣はただの生き物ではないな。」
アイデンは腕を組み、
慎重に言葉を選びながら続ける。
「アレスと強く結びついている……
いや、もしかすると、アレスの研究そのものに
深く関わる存在なのかもしれない。」
魔獣はカルマの魔力に反応するように、
警戒心を和らげた。
小さな前足を動かし、
ゆっくりとカルマの手に顔を寄せる。
まるで、そこに懐かしい何かを感じ取ったかのように──
カルマは、その温もりを感じながら、
目を細め、そっと魔獣の背を撫でた。
心の奥に去来する、
遥か昔の記憶。
父の魔力。
それは、もう手が届かないはずのものだった。
しかし、今、この魔獣を通じて、
再び彼女のもとへと蘇る。
「これは、ただの偶然じゃないな。」
アイデンは、魔獣の体に浮かぶ紋様を指差し、
真剣な表情で続けた。
「この符紋……アレス自身が刻んだものだとすれば、
何か重要なメッセージが込められている可能性がある。」
リアも興味深そうに覗き込み、
慎重に分析を加える。
「……確かに、これは単なる魔力の残留ではなく、
意図的に組み込まれたものね。」
アイデンは考え込みながら頷いた。
「魔力を符紋として刻むのは、特定の目的がある場合がほとんどだ。
この魔獣の存在自体が、アレスの意志を引き継いでいる可能性が高い。」
炎は沈黙したまま、
魔獣を抱え直し、軽く頷いた。
彼もまた、同じ考えに至っていた。
──こいつはただの生き物ではない。
それは、廃倉庫で一匹だけ取り残されていたことが、
何よりの証拠だった。
「……もし、この魔獣を通じて父の意思を知ることができるのなら。」
カルマの瞳に、希望の光が宿る。
「それなら、ここに来た意味があるわ。」
僅かに震える指で、
もう一度魔獣の背を優しく撫でる。
彼女のその想いに応えるように、
魔獣は静かに喉を鳴らした。
その姿に、炎は微かに口元を緩めた。
「連れてきてよかったな。」
カルマはゆっくりと炎を見上げ、
真剣な眼差しで言った。
「……ありがとう、エン。」
その言葉は、まっすぐな感謝だった。
炎は短く頷くだけだったが、
その視線にはどこか優しさが滲んでいた。
カルマは少し考え込み、
魔獣の頭を軽く撫でながら、ふと呟いた。
「……この子に名前をつけよう。」
魔獣の小さな耳がぴくりと動く。
「アレスが残したかもしれない最後のもの……
ただの魔獣じゃない。」
彼女の指が優しくその小さな額に触れる。
「……アル。」
微笑みながら、彼女はそう呼んだ。
小さな守護者 (リトル・ガーディアン)。
魔獣は、一瞬まばたきをして、
次の瞬間、満足そうに喉を鳴らした。
カルマの手のひらに、
小さな温もりがそっと寄り添った。
「……アル?」
新たに与えられた名を呼ぶと、
魔獣は微かに首をかしげるようにして、
くすぐるように彼女の手をすり寄せた。
柔らかな喉音が響き、
その仕草には、どこか満足げな色がある。
──まるで、自分の名前を気に入ったかのように。
カルマの唇が自然とほころび、
瞳の奥に、温かな光が宿る。
「ふふ……アル、よろしくね。」
彼女の声は、どこか優しく、
そして少しだけ、懐かしさを帯びていた。
まるで、この小さな存在を通じて、
失われた父の記憶と、
少しだけ繋がれたような気がしたから。
「……まったく、お前たちは本当に自由すぎるな。」
アイデンは苦笑し、
肩を軽くすくめる。
「名前をつけたなら、それで登録するしかないか。」
彼はため息をつきながらも、
どこか呆れたような、それでいて温かみのある目で、
カルマと炎を交互に見た。
しかし、アルは相変わらず慎重だった。
カルマと炎の側では安心している様子だったが、
アイデンや他の研究員が近づこうとすると、
素早くカルマの後ろへと身を隠す。
あるいは、炎の肩へと飛び乗り、
じっと相手を警戒するように睨みつける。
「……なかなか手強いな。」
リアが苦笑しながら言う。
アイデンも腕を組みながら、
興味深げにアルを観察していた。
「ただの魔獣なら、
ここまで特定の相手にだけ懐くことはない。」
「そうね……」
カルマはアルの頭をそっと撫でながら、
その言葉に小さく頷いた。
アルのこの反応は、単なる動物の本能ではない。
まるで──
「自分のいるべき場所」を理解しているかのようだった。
「……まぁ、少しずつ慣れてもらうしかないな。」
炎は静かに言いながら、
カルマがアルを撫でる様子を眺めていた。
その光景は、どこか穏やかで、
ここしばらくの緊張感を和らげるものだった。
──ほんの少し、
肩にのしかかっていた重みが、軽くなったような気がする。
「さて……」
アイデンが資料を手に取り、
軽く紙をめくりながら言った。
「今日はここまでにしておこう。」
「明日には、アルの符紋を詳しく解析する。
アレスが何を残そうとしたのか、解読する必要がある。」
そう言いながら、
彼は再びアルを一瞥し、
慎重な目を向けた。
「……少なくとも、
この魔獣は、俺たちが思っている以上に
重要な存在かもしれない。」
カルマと炎も、その言葉に静かに頷いた。
アルは、何かを知っている。
それはきっと、
アレスの過去と、この世界の真実に繋がっている。
炎の瞳が、アルの小さな姿を映す。
──この小さな魔獣が、
新たな扉を開く鍵になるかもしれない。