霧の中の真実と絆(8)
「……お前は、この短剣のせいでここにいるのか?」
炎は低く囁くように問いかけた。
目の前の小さな魔物──
その身体は震えていたが、
短剣を抱きしめる力は弱まることなく、
まるで過去にしがみつくかのように離そうとしなかった。
炎はそっと手を伸ばし、
魔物の頭頂に指を添えた。
──驚いたことに、それは怯えず、拒まなかった。
炎はゆっくりと膝をつき、
魔物の瞳を覗き込んだ。
深い緑と金の混ざり合う瞳。
その色合いは、まるで──
カルマに似ている。
その瞬間、炎の胸の奥に、
一つの仮説が浮かび上がる。
──この魔物と、アレスの関係は?
ただの実験体か?
それとも……彼が残した何か?
炎は無理に短剣を奪おうとはしなかった。
魔物の小さな体は、
啜り泣くように微かに震えている。
静寂の中で、
炎の中に、かつての記憶が蘇る。
アレスの姿。
夢の中で見た、彼の決意。
そして、
その決意の果てに待っていたのは──
──死。
炎は視線を落とし、
魔物の指が短剣を強く握りしめる様子を見つめた。
まるで、それが唯一の拠り所であるかのように。
「もしかして……」
炎は低く呟く。
この魔物は、アレスの「実験の産物」ではなく──
「彼の何かを受け継いだ存在」なのではないか?
実験施設だった倉庫は、
すでにほぼ完全に破壊され、
過去の痕跡はほとんど残っていなかった。
それなのに、なぜこの魔物だけが生き残っていた?
この問いに答えが出ないまま、
炎の視線は再び魔物へと向かう。
炎と魔物、
二者の間には言葉はなかったが、
静かな時間が流れていた。
しばらくすると、魔物の震えがわずかに落ち着いた。
炎は静かに手を伸ばし、
魔物の背に優しく触れる。
「……お前を置いていくわけにはいかないな。」
考えるよりも早く、
炎はその言葉を口にしていた。
この魔物を置き去りにすれば、
きっと、またこの倉庫で独りになる。
それだけは、何となく許せなかった。
炎は魔物をそっと抱き上げた。
最初は少し身を固くしたが、
やがて魔物は抵抗をやめ、
小さく炎の腕の中で丸くなった。
その様子に、炎は微かに目を細める。
「カルマなら、お前のことを理解できるかもしれない。」
ぽつりと呟くと、
魔物はかすかに耳を動かした。
この魔物が何者なのか、
何を知っているのか。
今はまだ分からない。
だが、確かなことが一つある。
──この存在は、アレスの過去と繋がっている。
それを知ることこそ、
炎が進むべき道の一つだった。
静寂に包まれた倉庫の中で、
炎は小さな魔物を抱えながら、
闇の奥へと視線を向けた。
その瞳には、
まだ見ぬ真実への覚悟が宿っていた。
倉庫の暗闇の中を、炎は静かに歩いていた。
腕の中には、まだ怯えるように身を丸める小さな魔物。
その柔らかい体温を感じながら、
彼は夢で見た隠された実験室を探し続けていた。
だが、壁をなぞり、
床を慎重に踏みしめながら探索しても──
そこにあるのは、空っぽの空間だけだった。
──まるで、最初から何もなかったかのように。
壁の一部が破損し、
床には焼け焦げた痕跡が残っているが、
それ以外には、実験室を示す手がかりはどこにもない。
炎は歯を噛みしめ、
冷静に状況を整理する。
「……ここに何かがあったのは確かだ。」
目を細めながら、
炎は腕の中の魔物をちらりと見た。
「でも、跡形もなく消されている。」
まるで、誰かが意図的に証拠を隠蔽したかのように。
炎は無言のまま壁を叩き、
床の継ぎ目を確かめたが、
隠し扉や通路の痕跡すら見当たらなかった。
──実験室は、移されたか、完全に消された。
この倉庫に足を踏み入れた時、
心のどこかで、まだ何かが残っていると期待していた。
しかし、現実は冷酷だった。
炎は静かに息を吐いた。
その時、腕の中の魔物が微かに動いた。
「……?」
魔物は小さく鳴き、
抱えている短剣に顔を擦り寄せる。
その仕草は、何かを懐かしむかのようだった。
──まるで、大切な何かを失った者のように。
炎は、懐に抱いた小さな魔物を見下ろしながら、
ふと、一つの記憶が脳裏をよぎった。
──かつて、彼が出会った白猫の姿をした神。
エリヴィア。
彼女を助けた時、
その身はしなやかな白猫の姿を取っていた。
そして今、彼の腕の中には、黒い魔物──
同じ猫の姿を持ちながらも、
まるで対極の存在のように。
「……神も、魔も、猫が好きなのか?」
炎は小さく笑みを漏らす。
それは単なる冗談のようだったが、
同時に、どこか妙な符合を感じずにはいられなかった。
炎は改めて魔物の小さな身体を抱き直した。
この魔物が何者なのか、
なぜアレスと関係があるのか、
まだ何一つ分かっていない。
だが、ひとつだけ確信していることがある。
──この魔物は、単なる実験体ではない。
炎は魔物を抱きしめながら、
ゆっくりと倉庫を後にした。
彼には、今すべきことがあった。
カルマにこの魔物を見せ、
何か手がかりがないか、確かめること。
そして、アレスの真実に、
もう一歩近づくこと。
倉庫の扉が静かに軋み、
炎の姿が夜の闇へと消えていった。