霧の中の真実と絆(7)
獵人公會の本部を後にし、
炎はゆっくりとした足取りで繁華な街を歩き出した。
その瞳には、確固たる決意の光が宿っている。
──俺自身の手で、真実を暴く。
そう覚悟を決めた以上、
もう誰にも頼るつもりはなかった。
大通りを抜け、人気の少ない裏路地へと入る。
ほどなくして、タクシーを拾った炎は、
運転手に対し、目的地から少し離れた地点を指定した。
「ここまででいい。」
車を降りると、彼は静かに夜の工業地帯へと歩き出す。
──アレスの姿を見た、あの倉庫へ。
夢の中で見たその場所は、
言葉にできない不吉な気配を孕んでいた。
もし、そこにアレスの最後の痕跡が残されているのなら……
この手で確かめるしかない。
工業地帯の境界に到達した頃、
すでに日は落ち、あたりには寂寥とした闇が広がっていた。
朽ちかけた建物が並び、
枯れ果てた雑草と錆びついた鉄条網が、
まるでこの地が忘れ去られたかのような印象を与える。
炎は深く息を吸い込み、慎重に歩みを進める。
やがて、夢で見た倉庫が姿を現した。
倉庫の鉄扉は、すでに錆に覆われていた。
長年の風雨に晒され、
わずかに触れただけで軋むような鈍い音を立てる。
炎は慎重に手を伸ばし、ゆっくりと扉を押した。
「……ッ。」
低く沈んだ音が静寂を破る。
扉の隙間から流れ出したのは、
湿った埃の匂いと、かすかに残る薬品の香りだった。
倉庫の内部は、ほとんど光が差し込まない。
天井の一部が崩れかけ、
そこから微かな月明かりが差し込んでいるが、
それでも空間全体は深い闇に沈んでいた。
炎は手を伸ばし、慎重に壁際をなぞる。
無造作に置かれた器具、
埃をかぶった書類の束。
そして、床には乾いた黒い染みが散らばっていた。
「……血痕か?」
膝をつき、指先で軽く触れる。
すでに時間が経ちすぎており、
その血が誰のものなのかは判別できない。
だが──
ここで、何かが起こったことは間違いない。
炎はゆっくりと立ち上がり、
倉庫の奥へと歩を進めた。
夢の中で見た景色と、現実が重なる。
ここには、まだ何かが残されているはずだ。
静寂の中、彼はそっと息を整え、
さらに深く、倉庫の闇へと踏み込んだ。
倉庫の中心部へと足を踏み入れた炎。
そこに刻まれた、かすかな痕跡が、
彼の視線を引きつけた。
──地面に残る、不気味な刻印。
それは長年の風化によって薄れつつあったが、
まだ明確にその形を留めていた。
まるで、かつてここで何か儀式が執り行われた証のように。
炎は跪き、慎重に指で刻印の一部をなぞる。
「……アレス。」
思わず、その名を口にする。
この痕跡が残っているということは、
ここが彼の最後の足跡の一つである可能性が高い。
何のための儀式だったのか?
アレスはここで何を求めていたのか?
その答えは、まだ霧の中にあった。
ふと、炎の周囲の空気がわずかに震えた。
彼は目を閉じ、静かに呼吸を整える。
微かに残る魔力の気配──
とても弱いが、確かに感じ取れる。
炎は、その波動を意識の奥へと探る。
──脳裏に、アレスの影が浮かぶ。
人と魔を繋ぐ道を求めた大悪魔。
そして、その果てに命を落とした男。
彼がこの場で最後に何を思ったのか、
それを知ることはできない。
だが、確かにここには、彼の意志が残されている。
炎はゆっくりと目を開き、深く息を吐く。
この魔力の痕跡は、時間とともに消えゆくものではない。
──つまり、最近になって何者かがここを訪れた可能性が高い。
炎は立ち上がり、周囲を改めて見渡す。
儀式の刻印を辿りながら、地面に残る微かな符文の欠片を拾い上げた。
「これは……」
見覚えのある紋様。
以前、アイデンの研究記録で見たものと酷似していた。
人界と魔界のエネルギーを結ぶ古代術式。
──まさか、アレスはその術式を完成させようとしていたのか?
沈黙が倉庫を支配する。
炎は、この場が持つ異様な空気に飲み込まれまいと、
ゆっくりと冷静さを取り戻す。
──アレスは、自分の運命を悟っていたのか?
もしかすると、彼はここに何かを遺しているのではないか?
死の先に、誰かがこの場を訪れることを予期し、
何らかのメッセージを残した可能性がある。
炎は、刻印の中心へと手を伸ばしかけた──その時。
カタン……
微かな物音が、倉庫の静寂を破った。
炎の指が、一瞬で武器の柄へと伸びる。
彼の目が鋭く細められ、
瞬時に周囲の空間を警戒する。
──誰か、いる。
気配は薄いが、確実に誰かがいる。
炎は視線を巡らせ、倉庫の隅を探った。
次の瞬間、闇の中に、かすかに揺れる黒い影が見えた。
それは、一瞬だけ光の下に映った後、
素早く奥の暗闇へと消えていく。
炎は息を殺し、慎重に動きを止める。
──敵か?
それとも、ただの野良動物か?
しかし、本能が告げていた。
あれは、ただの影ではない。
炎は足音を殺し、
慎重にその存在へと近づいた。
この気配──人間ではない。
かすかに感じ取れる魔力の波動。
それは、まるで魔族の残響のようだった。
だが、炎があと数歩というところで──
影が突然、動いた。
それは猛然と闇から飛び出し、
まるでこの場所を熟知しているかのように
倉庫の出口へ向かって駆け出した。
「待て!」
低く鋭い声が響く。
炎は即座に追跡を開始するも、
影の動きは素早く、しかも異様に滑らかだった。
まるで、生まれつきこの倉庫を縄張りにしているかのように、
迷いなく狭い隙間を駆け抜けていく。
炎は出口付近まで駆け寄るが、
影はすでに夜の闇の中へと紛れていた。
ただ、そこにはかすかに魔力の残滓が漂っている。
炎はしばし無言でその場に立ち尽くし、
影が消えた方向をじっと睨んだ。
──あれは何者だったのか?
なぜ、この倉庫にいた?
そして、アレスとの関係は?
闇紋会との繋がり?
それとも、ただの偶然か──
しかし、炎はすぐに冷静さを取り戻し、
影の痕跡を探るように再び倉庫の奥へと戻った。
すると──
彼の視界の端に、微かな揺らめきが映る。
「……逃げていなかった?」
物陰に、小さな影がうずくまっている。
炎は慎重に歩み寄り、
その正体を確かめようとした。
──そこにいたのは、魔物だった。
だが、それは人間を襲う獰猛な魔物ではなかった。
黒猫のようにしなやかな身体。
腰には小さな悪魔の翼。
そして、目は異様に透き通った
緑と金の交じり合う瞳──
それは、どこかカルマの瞳を思わせる輝きを宿していた。
炎は眉をひそめ、その魔物を観察した。
それは、炎の視線を感じると、
ゆっくりと彼を見上げた。
次の瞬間──
魔物が、飛びかかってきた。
炎の反射神経が反応し、
手は即座に武器へと伸びたが──
そこに、殺意はなかった。
襲いかかる衝動ではない。
それは、まるで悲しみに駆られた叫びのような──
そう感じた瞬間、
炎の手が一瞬、止まった。
魔物は、炎の胸元に飛び込み、
その腰に携えた短剣を抱きしめた。
「……?」
炎は驚愕しながらも、
その異様な行動に言葉を失った。
魔物は短剣を抱えたまま、
まるで何かを求めるように震えていた。
炎の目が、それをじっと見つめる。
──この短剣は、アレスのもの。
そして、この魔物は……?
炎は、静かに短剣を握りしめる。
この魔物の悲しみは、
単なる動物的な感情ではない。
もっと深く、
長い時間をかけて刻まれた哀しみだ。
──アレス。
彼はこの魔物と、
どんな関係を持っていたのか?
炎の手が、
震える魔物の背にそっと触れた──。