霧の中の真実と絆(4)
午後の街角。
陽光が舗道にまだらな影を落とし、人々の影がゆっくりと交差していく。
炎とカルマは、歩道橋の前で立ち止まった。
交通灯が赤に変わり、二人は無言のまま、信号が変わるのを待っていた。
カルマは視線を落とし、足元をじっと見つめる。
彼女の胸の奥では、言葉にできない感情が渦巻いていた。
──ずっと、炎と共に歩むつもりだった。
そう信じていた。
だが今、彼との間には見えない壁ができている。
まるで、彼女の存在そのものが拒まれているように。
それが、たまらなく寂しかった。
一方で、炎もまた静かに葛藤していた。
アレスの最期の言葉が、何度も頭の中で反響する。
「……俺の娘……カルマを……頼む……彼女を……巻き込まないでくれ……。」
カルマを、戦いの運命から遠ざけること。
それが、彼に託された願いだった。
──ならば、俺はこのまま彼女を巻き込んではいけない。
冷静な態度を装い、距離を置こうとする。
これが彼女を守るための最善の道なのだと、自分に言い聞かせながら。
だが。
彼女が見せる、あのわずかに翳った表情。
それを目にした瞬間、胸の奥にざわめくものがあった。
彼女を遠ざけることで、本当に守れるのか?
それとも、これはただの「逃げ」なのか?
信号が青に変わる。
歩行者たちが流れるように横断歩道を渡っていく。
その瞬間、カルマが一歩前に出た。
炎の前に立ち、彼をまっすぐ見つめる。
彼女の瞳は揺らぐことなく、確固たる意志を帯びていた。
「……私は行かない。」
その言葉は、静かに、しかしはっきりと響いた。
「たとえ父がいなくなっても……彼の理想はまだ終わっていない。」
カルマは深く息を吸い、炎を見上げる。
「私は帰らない。」
「どれほど危険でも、どんなに困難でも……私はここに残る。」
炎は言葉を失った。
彼女の言葉に、嘘はなかった。
その瞳に映るのは、迷いではなく、確固たる決意。
「……俺は、お前を守れないかもしれない。」
炎の声は、かすかに震えていた。
「この道の先には……何があるかも分からない。」
カルマは、一瞬だけ目を伏せた。
だが、次の瞬間、まっすぐ炎を見つめ、はっきりと言った。
「エン、私は……誰かに守られるためにここに来たんじゃない。」
「父の歩んだ道を知るため。
自分の答えを見つけるため。
それが、私がここにいる理由。」
炎は、無言のままカルマを見つめていた。
彼女の瞳に宿る確固たる意志。
それは、彼女自身のためだけではない。
父の信念、魔族の未来、そして彼女自身が見つけ出すべき答え──
その全てが、彼女をここに立たせている。
だからこそ、炎は分かっていた。
簡単に手放せる想いではないことを。
簡単に引き止められる決意ではないことを。
それでも、胸の奥に引っかかるものがあった。
──アレスの遺言。
それは、彼に託された最後の願いだった。
彼女をこの世界の闇から遠ざけること。
戦いの運命から解き放つこと。
それが、彼にできる「守る」という行為なのではないか──
信号が点滅し始め、歩行者たちは足早に横断歩道を渡っていく。
炎はふと顔を上げ、何も言わずにカルマの手を取った。
そして、そのまま強く引くように歩き出す。
「……行くぞ。」
彼の声は平静だったが、その手のひらには、迷いのない力強さがあった。
カルマは一瞬驚いたが、炎の手の温もりに包まれながら、無言のまま彼の後をついていく。
その掌に込められた力は、先ほどまでの冷たさとは違っていた。
まるで、彼の本心がそこに滲み出ているかのように。
──彼は、私を拒んでいるわけじゃない。
そのことが分かると、彼女の胸の奥に、静かな温かさが広がった。
二人が横断歩道を渡る間、炎の意識は別の場所にあった。
──あの夜。
アレスの瞳。
自ら振り下ろした短剣。
その全てが、今も彼の胸を締めつける。
カルマの存在は、あの過去をより鮮明にさせる。
彼が犯した罪の重みを、さらにのしかからせる。
──そして、もし彼女が真実を知ったら。
彼女の眼差しは、今と同じでいられるだろうか。
彼に向けられるその光は、果たして温かさを持ち続けるのだろうか。
それを思うと、炎の喉が強張る。
「……もしかしたら、ここで終わらせるべきだったのかもしれない。」
心の中で、そう呟く。
だが。
カルマの瞳が揺るぎなく彼を見つめているのを見た瞬間、
その考えが、かき消された。
炎の指が、わずかに彼女の手を強く握る。
それは、不安と恐れの表れだった。
彼女を失いたくないという、抑えきれない想い。
カルマは、それを感じ取った。
彼女はそっと炎を見上げる。
彼の目は、冷静さを装いながらも、どこか脆さを秘めていた。
それを見た瞬間、カルマの胸の奥で、何かがはっきりとした。
──炎にとって、自分はただの仲間じゃない。
彼にとって、私は大切な存在なんだ。
だからこそ、彼は私を遠ざけようとした。
私を守ろうとした。
その事実に気づいた瞬間、彼女はそっと手を握り返した。
「……大丈夫。私は、どこにも行かないよ。」
声には出さず、けれども、そう伝えるように。
炎は、一瞬驚いたように彼女を見た。
だが、それ以上何も言わなかった。
二人の手は、しっかりと繋がれたままだった。
そして、彼女は悟った。
──答えを急ぐ必要なんてない。
父の真実を知ることより、今はこの繋がりが何よりも大切なのだと。
嵐のような未来が待っていようとも。
私は、彼と共に歩いていく。
静寂の中、鋭い電子音が響いた。
炎のポケットの中で、スマートフォンが短く震える。
ふと視線を落とし、画面を確認すると──
そこには赤色の特別指令が表示されていた。
──緊急指令。
この信号が発せられるのは、よほどの異常事態が起こった時のみ。
炎の表情が、瞬時に引き締まる。
スマホを閉じ、カルマへと顔を向けた。
「急ぐぞ。状況が良くない。」
その声には、迷いはなかった。
カルマもまた、瞬時に緊迫感を察し、無言で頷く。
二人はすぐに足を速め、路肩へと向かった。
路上に止まっていたタクシーを一台、炎が手を挙げて止める。
「急いでくれ。」
行き先を告げると、運転手は一つ頷き、すぐに車を発進させた。
車内に流れるエンジン音。
窓の外では、都市の光景が目まぐるしく流れていく。
だが、二人ともそれを見る余裕はなかった。
炎は無言のまま、今回の情報について頭の中で整理を始める。
影幕の病状は不安定だったはず。
それなのに、今になって緊急会議──
つまり、何かが動き出したということだ。
カルマは、窓の外をじっと見つめながら沈黙していた。
だが、その瞳には鋭い光が宿っている。
影幕の口から語られるはずだった「真実」。
そして、闇紋会との決着。
この会議は、そのすべてを決定づけるものになる。
彼女の指が、無意識に拳を握る。
「……終わらせる時が来たのかもしれない。」
そう、心の中で呟く。
炎は、隣に座るカルマの気配を感じながら、
静かに視線を前へ向けた。
この会議は、すべての始まりになる。
そして──
もしかすると、すべての終わりになるかもしれない。
二人を乗せたタクシーは、
夜の帳が下り始める都市を、疾走していった。