表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/166

霧の中の真実と絆(3)

  二人は無言のまま、病院の長い廊下を歩いていた。

 ガラス窓から差し込む朝の光が、真っ白な床に静かに広がる。

 光と影が交差し、その中に二人の足音が溶け込んでいく。


 カルマは伏し目がちに歩きながら、影幕シャドヴェルの最後の言葉を反芻していた。

 まるで、その低い囁きが今も耳元にこびりついているかのように。


 彼女の脳裏に浮かぶのは、父アレスの声。

 かつて彼が語った教え。


 大切なはずの記憶。

 だが、今となってはその輪郭すら曖昧になりつつあった。


 まるで霧の中に消えゆく幻のように──


 カルマは唇を噛む。


 懐かしさと疑問が入り混じり、胸の奥を締めつけた。


「……エン。」


 彼女の声は低く、わずかに震えていた。


「もし……もし父が、自分の信じたもののために殺されたのなら……それは、彼の行いが間違っていたという証拠なの?」


 エンは足を止め、カルマを見つめた。

 彼女の目には、葛藤と迷いが色濃く映っていた。


 ──彼女は父を誇りに思いたい。

 だが、同時に、その誇りが崩れることを恐れている。


 その気持ちは、エンにも痛いほど理解できた。


 彼もまた、過去に囚われながら、それでも前に進もうとしている。


「カルマ……。」


 エンは静かに口を開く。


「信念を貫くことは、間違いじゃない。」

 その声は、穏やかでありながら、どこか強い芯を持っていた。


「人は、それぞれ何かを信じ、それを守るために戦う。」

 エンはカルマを真っ直ぐに見つめながら続ける。


「その結果がどうであれ、信じたことの価値が失われるわけじゃない。」


 カルマは戸惑いの色を浮かべながらも、エンの言葉に耳を傾けた。


「でも……その信念のために命を捨てるのは、本当に正しいの?」

 囁くように問う彼女の声には、苦しみが滲んでいた。


 エンは微かに目を細め、静かに言った。

「それが正しいかどうかは、本人にしか分からない。」


「だけど、アレスがその道を選んだのなら……彼にとっては、それが"生きた証"だったんだろう。」

 その言葉は、まるでエン自身に向けたもののようでもあった。


 カルマはエンを見つめる。

 彼の言葉は、どこか彼自身の覚悟とも重なっている気がした。


 ──彼もまた、過去を背負って生きている。

 だからこそ、彼の言葉は重く、そして優しい。


 カルマは小さく息を吐いた。

 彼女の心に渦巻いていた迷いは、まだ完全に消えたわけではない。


 それでも……

 ほんの少しだけ、光が見えた気がした。


「……そうね。」


 そう呟いた彼女の声は、どこか前よりも落ち着いていた。


 二人は再び歩き出す。

 交錯する光と影の中で、

 カルマの足取りは、ほんの少しだけ、確かなものになっていた。


 ◆ ◆ ◆ 


 病院を後にし、エンとカルマは並んで歩き出した。


 午後の陽光はまだ強く、長い影を地面に落とす。

 二人の間には沈黙が漂い、それぞれが思考の中に沈んでいた。


 カルマはふと顔を上げ、目の前の雑踏を見つめる。

 人々は足早に行き交い、何事もなかったかのように日常を過ごしていた。


 彼女の瞳が、わずかに曇る。

 そこには、迷いと揺らぎが滲んでいた。


「エン……」


 カルマの声は、風に溶けるように静かだった。


「この世界は……本当に、私たちが守るに値するものなの?」

 彼女の問いには、深い疑問と戸惑いが込められていた。


 エンはカルマを横目で見る。

 彼女の表情は、いつになく揺らいでいた。


 彼女は、ずっと人間の世界に対して複雑な感情を抱いていた。

 そこには、冷酷な現実と、彼女が未だ理解しきれない「人の心」が入り混じっている。


 彼女の父、アレスは信じていた。

 魔物と人が共存する未来を──


 だが、その信念は彼の命を奪った。


 だからこそ、カルマは迷っていた。

 父の信じたものが、本当に正しかったのか。

 そのために命を賭ける価値があったのか。


 彼女は俯き、声を落とす。


「私はずっと、父の足跡を追うためにここに来た。

 でも……彼の最後を知った今、この世界に全てを捧げる意味があるのか、分からなくなった……。」


 カルマの問いは、エンの胸に鋭く突き刺さった。


 彼女は迷っている。

 父の信念に疑念を抱き、「守るべきもの」そのものを見失いかけている。


 エンは、彼女の孤独と苦悩を感じ取っていた。

 静かに息を吐き、彼は口を開く。


「たぶん……それが重要な問題じゃないんだ。」


 カルマが眉を寄せる。


「大事なのは……俺たちがどう向き合うか、じゃないか?」


 カルマは、困惑したようにエンを見つめた。


 その答えは、彼女が求めていたものではなかった。

 むしろ、より深い迷いを生じさせるものだった。


 エンの言葉は、ただの慰めではない。

 彼は本気でそう考えているのだろう。


 だが……

 カルマが口を開こうとしたその時。

 ──エンの脳裏に、ある言葉が蘇った。


「……俺の娘……カルマを……頼む……彼女を……巻き込まないでくれ……。」

 アレスの、最後の言葉。


 その掠れた声が、まるで今も耳元で響いているかのようだった。

 エンの心が、重く沈む。


 アレスは、カルマをこの世界から遠ざけたかった。

 彼女が争いに巻き込まれることを望まなかった。


 だが今、カルマはエンの隣で戦っている。

 彼女は、いつ命を落としてもおかしくない道を歩んでいる。


 ──このままでいいのか?


 エンはゆっくりと顔を上げた。

 遠くの景色を見つめるようにしながら、できるだけ感情を押し殺す。


「カルマ……」

 声は驚くほど冷静だった。


「お前は、もうアレスの行方を知った。それが、お前が探していた答えなんじゃないか?」


 カルマは目を見開いた。


「……何を言ってるの?」

 彼女の声には、かすかな動揺が滲んでいた。


 エンは目を伏せ、淡々と続ける。


「魔界に帰れ。もう、お前がここにいる理由はない。」

 その言葉は、彼自身の胸にも突き刺さるようだった。


「お前はもう、巻き込まれる必要はない。」


 エンの言葉は冷たく響く。

 それは、自分自身に言い聞かせるようでもあった。


 カルマはじっとエンを見つめる。


「……私に、帰れって言うの?」

 その声は、どこか震えていた。


「この先の道は、さらに危険になる。

 今ならまだ……戻れる。」

 エンは意識的に感情を抑え込みながら、そう言った。


 カルマは拳を握る。

「じゃあ……私にとって、ここにいる意味はなかったってこと?」


 エンは沈黙する。


「私が、ただ答えを探しに来ただけの……通りすがりの存在だったってこと?」

 彼女の言葉には、怒りでも悲しみでもない、ただ静かな痛みが滲んでいた。


 エンは、視線を落とした。

 何も言えなかった。


 彼女の言葉が、胸の奥を鋭くえぐる。


 だが、エンは知っている。

 本当は、これが「正しい選択」なのだ。


 彼が側にいる限り、カルマは戦いに巻き込まれる。

 それが、アレスの望んだ未来ではない。


「……これが、お前にとって一番いい選択だ。」


 絞り出すように、エンはそう言った。


 カルマはゆっくりと目を閉じた。


「……そう。」

 短く返す声は、驚くほど穏やかだった。


 エンは、彼女が何を考えているのか分からなかった。

 だが、その静けさが余計に痛々しく感じた。


 彼女は微かに頷き、もうそれ以上、何も言わなかった。

 その瞳に宿っていた感情が、消えたように見えた。


 二人の間に、沈黙が流れる。


 風が吹き抜ける。


 だが、その風の冷たさ以上に、二人の間には目に見えぬ隔たりが生まれていた。

 エンは、その距離を埋めようとはしなかった。


 カルマもまた、何も言わず、ただ前を向いた。

 彼女の影が、ほんのわずかに揺れる。


 そして、静かに歩き出した。

 エンは、その背中を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。


 ──これでよかったんだ。


 そう自分に言い聞かせながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ