霧の中の真実と絆(3)
二人は無言のまま、病院の長い廊下を歩いていた。
ガラス窓から差し込む朝の光が、真っ白な床に静かに広がる。
光と影が交差し、その中に二人の足音が溶け込んでいく。
カルマは伏し目がちに歩きながら、影幕の最後の言葉を反芻していた。
まるで、その低い囁きが今も耳元にこびりついているかのように。
彼女の脳裏に浮かぶのは、父アレスの声。
かつて彼が語った教え。
大切なはずの記憶。
だが、今となってはその輪郭すら曖昧になりつつあった。
まるで霧の中に消えゆく幻のように──
カルマは唇を噛む。
懐かしさと疑問が入り混じり、胸の奥を締めつけた。
「……エン。」
彼女の声は低く、わずかに震えていた。
「もし……もし父が、自分の信じたもののために殺されたのなら……それは、彼の行いが間違っていたという証拠なの?」
炎は足を止め、カルマを見つめた。
彼女の目には、葛藤と迷いが色濃く映っていた。
──彼女は父を誇りに思いたい。
だが、同時に、その誇りが崩れることを恐れている。
その気持ちは、炎にも痛いほど理解できた。
彼もまた、過去に囚われながら、それでも前に進もうとしている。
「カルマ……。」
炎は静かに口を開く。
「信念を貫くことは、間違いじゃない。」
その声は、穏やかでありながら、どこか強い芯を持っていた。
「人は、それぞれ何かを信じ、それを守るために戦う。」
炎はカルマを真っ直ぐに見つめながら続ける。
「その結果がどうであれ、信じたことの価値が失われるわけじゃない。」
カルマは戸惑いの色を浮かべながらも、炎の言葉に耳を傾けた。
「でも……その信念のために命を捨てるのは、本当に正しいの?」
囁くように問う彼女の声には、苦しみが滲んでいた。
炎は微かに目を細め、静かに言った。
「それが正しいかどうかは、本人にしか分からない。」
「だけど、アレスがその道を選んだのなら……彼にとっては、それが"生きた証"だったんだろう。」
その言葉は、まるで炎自身に向けたもののようでもあった。
カルマは炎を見つめる。
彼の言葉は、どこか彼自身の覚悟とも重なっている気がした。
──彼もまた、過去を背負って生きている。
だからこそ、彼の言葉は重く、そして優しい。
カルマは小さく息を吐いた。
彼女の心に渦巻いていた迷いは、まだ完全に消えたわけではない。
それでも……
ほんの少しだけ、光が見えた気がした。
「……そうね。」
そう呟いた彼女の声は、どこか前よりも落ち着いていた。
二人は再び歩き出す。
交錯する光と影の中で、
カルマの足取りは、ほんの少しだけ、確かなものになっていた。
◆ ◆ ◆
病院を後にし、炎とカルマは並んで歩き出した。
午後の陽光はまだ強く、長い影を地面に落とす。
二人の間には沈黙が漂い、それぞれが思考の中に沈んでいた。
カルマはふと顔を上げ、目の前の雑踏を見つめる。
人々は足早に行き交い、何事もなかったかのように日常を過ごしていた。
彼女の瞳が、わずかに曇る。
そこには、迷いと揺らぎが滲んでいた。
「エン……」
カルマの声は、風に溶けるように静かだった。
「この世界は……本当に、私たちが守るに値するものなの?」
彼女の問いには、深い疑問と戸惑いが込められていた。
炎はカルマを横目で見る。
彼女の表情は、いつになく揺らいでいた。
彼女は、ずっと人間の世界に対して複雑な感情を抱いていた。
そこには、冷酷な現実と、彼女が未だ理解しきれない「人の心」が入り混じっている。
彼女の父、アレスは信じていた。
魔物と人が共存する未来を──
だが、その信念は彼の命を奪った。
だからこそ、カルマは迷っていた。
父の信じたものが、本当に正しかったのか。
そのために命を賭ける価値があったのか。
彼女は俯き、声を落とす。
「私はずっと、父の足跡を追うためにここに来た。
でも……彼の最後を知った今、この世界に全てを捧げる意味があるのか、分からなくなった……。」
カルマの問いは、炎の胸に鋭く突き刺さった。
彼女は迷っている。
父の信念に疑念を抱き、「守るべきもの」そのものを見失いかけている。
炎は、彼女の孤独と苦悩を感じ取っていた。
静かに息を吐き、彼は口を開く。
「たぶん……それが重要な問題じゃないんだ。」
カルマが眉を寄せる。
「大事なのは……俺たちがどう向き合うか、じゃないか?」
カルマは、困惑したように炎を見つめた。
その答えは、彼女が求めていたものではなかった。
むしろ、より深い迷いを生じさせるものだった。
炎の言葉は、ただの慰めではない。
彼は本気でそう考えているのだろう。
だが……
カルマが口を開こうとしたその時。
──炎の脳裏に、ある言葉が蘇った。
「……俺の娘……カルマを……頼む……彼女を……巻き込まないでくれ……。」
アレスの、最後の言葉。
その掠れた声が、まるで今も耳元で響いているかのようだった。
炎の心が、重く沈む。
アレスは、カルマをこの世界から遠ざけたかった。
彼女が争いに巻き込まれることを望まなかった。
だが今、カルマは炎の隣で戦っている。
彼女は、いつ命を落としてもおかしくない道を歩んでいる。
──このままでいいのか?
炎はゆっくりと顔を上げた。
遠くの景色を見つめるようにしながら、できるだけ感情を押し殺す。
「カルマ……」
声は驚くほど冷静だった。
「お前は、もうアレスの行方を知った。それが、お前が探していた答えなんじゃないか?」
カルマは目を見開いた。
「……何を言ってるの?」
彼女の声には、かすかな動揺が滲んでいた。
炎は目を伏せ、淡々と続ける。
「魔界に帰れ。もう、お前がここにいる理由はない。」
その言葉は、彼自身の胸にも突き刺さるようだった。
「お前はもう、巻き込まれる必要はない。」
炎の言葉は冷たく響く。
それは、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
カルマはじっと炎を見つめる。
「……私に、帰れって言うの?」
その声は、どこか震えていた。
「この先の道は、さらに危険になる。
今ならまだ……戻れる。」
炎は意識的に感情を抑え込みながら、そう言った。
カルマは拳を握る。
「じゃあ……私にとって、ここにいる意味はなかったってこと?」
炎は沈黙する。
「私が、ただ答えを探しに来ただけの……通りすがりの存在だったってこと?」
彼女の言葉には、怒りでも悲しみでもない、ただ静かな痛みが滲んでいた。
炎は、視線を落とした。
何も言えなかった。
彼女の言葉が、胸の奥を鋭くえぐる。
だが、炎は知っている。
本当は、これが「正しい選択」なのだ。
彼が側にいる限り、カルマは戦いに巻き込まれる。
それが、アレスの望んだ未来ではない。
「……これが、お前にとって一番いい選択だ。」
絞り出すように、炎はそう言った。
カルマはゆっくりと目を閉じた。
「……そう。」
短く返す声は、驚くほど穏やかだった。
炎は、彼女が何を考えているのか分からなかった。
だが、その静けさが余計に痛々しく感じた。
彼女は微かに頷き、もうそれ以上、何も言わなかった。
その瞳に宿っていた感情が、消えたように見えた。
二人の間に、沈黙が流れる。
風が吹き抜ける。
だが、その風の冷たさ以上に、二人の間には目に見えぬ隔たりが生まれていた。
炎は、その距離を埋めようとはしなかった。
カルマもまた、何も言わず、ただ前を向いた。
彼女の影が、ほんのわずかに揺れる。
そして、静かに歩き出した。
炎は、その背中を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。
──これでよかったんだ。
そう自分に言い聞かせながら。