暗流の幕開け(6)
「カルマッ!!」
炎は低く叫び、反射的にその前に飛び出した。
しかし――遅かった。
夜行者の手から放たれた黒き魔力が、猛然と炎の胸元へと叩きつけられる。
ゴッ!!
鈍い衝撃音と共に、全身を貫くような激痛が炸裂した。
次の瞬間――
炎の口から、鮮やかな紅が舞い散る。
赤く染まった血が、夜の闇に咲く一輪の紅蓮のように、地面へと散った。
「ハハッ……!」
それを見た夜行者の瞳が、異様な光を帯びる。
狂気じみた微笑を浮かべながら、低く呟いた。
「血……そうだ……この血だ……。
お前の血は、俺だけのもののはずなのに……!」
その声は、まるで飢えた獣の唸りのように、震えていた。
炎は、呼吸をするたびに、胸の奥が激しく焼けるような痛みに襲われる。
熱い。
傷口から滲み出る血が、衣服を濡らしながら冷たい夜風にさらされる。
意識が霞み始める――
だが、そんな状態でも、夜行者の視線だけは異様なほど鮮明に感じた。
ゾクリ……
それは、ただの殺意ではなかった。
まるで、獲物を手に入れた捕食者が、悦びに震えているかのような……
不気味で、執着に満ちた視線。
炎は、震える指で符紋銃を握り直そうとする。
しかし、力が入らない。
まるで、見えない鎖で縛られているような錯覚すら覚える。
「ククク……感じるだろう?」
夜行者は一歩、また一歩とゆっくり近づいてくる。
黒い靄のような魔力が、その周囲を渦巻きながら、じわじわと炎を蝕むかのように押し寄せていた。
「お前の中に眠る“あの力”が……俺を呼んでいるのを……!」
炎の視界が、ぼやける。
心臓の鼓動が、異常なほどの速度で鳴り響く。
夜行者の言葉が、まるで黒い霧のように炎の意識を覆い尽くそうとしていた。
(……違う。俺の力は……俺のものだ……)
炎は、痛みに耐えながら歯を食いしばる。
だが、確実に身体の自由が奪われつつあった――。
「エンッ!!」
炎が自分をかばい、夜行者の一撃をまともに受けた瞬間――
カルマの瞳が、大きく見開かれた。
一瞬、思考が真っ白になる。
驚愕、そして――
怒りと、耐えがたいほどの自責の念が、胸の奥から込み上げる。
(なんで……なんで、私なんかを守ったのよ……!)
カルマは、反射的に手を伸ばす。
倒れそうな炎を支えようとした――
だが、阻まれた。
夜行者が、一歩、一歩と、ゆっくりこちらへと歩み寄ってくる。
その存在だけで、周囲の空気が歪んでいくような圧力。
カルマは、奥歯を噛み締め、即座に魔力を練り上げた。
両手を広げ、炎と夜行者の間に、灼熱の炎壁を創り出す。
「エンッ!」
焦燥が滲む声で呼びかける。
しかし――
炎の返事は、ない。
カルマは、迷いなく炎の方を振り返った。
そして、目に映ったのは――
胸元を血で染めながら、微かに息をする炎の姿。
彼女の胸が、強く締めつけられた。
(私がもっと早く動いていれば……こんなことには……!)
後悔と苛立ちが混ざり合い、心がかき乱される。
しかし、今はそんなことを考えている暇はない。
カルマは、睨むように夜行者を見据えた。
彼の視線は――
完全に炎の血に釘付けになっていた。
「……ハァ……ハァ……血だ……彼女の血……お前の血も……すべて、俺のものだ……!」
夜行者の呟きは、まるで呪詛のように響いた。
彼の瞳に映るのは、もはや炎以外に何もない。
カルマの全身に、ぞくりとした悪寒が走る。
(この男……もう完全に正気を失っている……!)
カルマは、ギリッと奥歯を噛み締め、拳を強く握りしめた。
指先には、灼熱の魔力が集中していく。
――撃つか?
ここで、決着をつけるべきなのか?
だが――
傷ついた炎を、この状態のまま戦いに巻き込むのは、あまりにも危険だった。
(……どうする……!?)
そんな迷いが、一瞬でも生じた、その時だった。
――炎が、動いた。
カルマの目が、驚きに揺れる。
炎の指先が、微かに痙攣し、彼のまぶたが、ゆっくりと開く。
その双眸には――
今にも消えそうな意識の中、それでも決して折れない強い意志が宿っていた。
「……っ」
何か、言おうとしている。
だが、その声は、かすれていて、カルマには届かなかった。
――その瞬間。
炎の身体の奥底から――何かが、湧き上がるような感覚が広がった。
まるで、別の何者かが目覚めるように。
それは――
温かく、それでいて、計り知れないほどの力を秘めた何か。
ゴォッ……!
空気が震えた。
カルマの魔力とは異なる、純粋な力の波動が、炎の周囲に広がっていく。
「これは……!?」
カルマは、思わず息を呑んだ。
「……私に、委ねなさい。」
温かく、それでいて揺るぎない声が、炎の意識の奥底に響いた。
それは、まるで遥かなる時を超えてきた囁き。
どこか懐かしく、そして神聖な響きを持つ声だった。
その瞬間――
炎の瞳が、深紅に染まる。
まるで、宿命そのものが目を覚ましたかのように。
そして、同時に――
彼の背後に、鮮血で織られたような美しい羽が現れた。
それは、まるで神話の書物から抜け出してきたかのような光景だった。
羽は静かに揺れ、光を反射しながら柔らかく震える。
しかし、そこから放たれるのは、荘厳で神聖な気配。
夜行者の目が見開かれる。
その場に、釘付けになったように動けない。
「……っ!」
彼の表情が、狂喜と絶望の間を揺れ動く。
まるで、長年探し求めた宝を目の前にしながら、それを決して手に入れられないと悟ったかのように。
――膝が震え、今にも崩れ落ちそうになる。
それほどまでに、目の前の光景は圧倒的だった。
しかし――
それでも、夜行者の目には、嫉妬と憎悪の炎が燃えていた。
「この力……ッ!!」
彼は喉を震わせるように叫ぶ。
「この力は……俺のものだッ!!」
怒りと渇望の入り混じった、狂気の声。
――だが、その言葉に対する炎の返答は、ただ一言だった。
「欲しいなら、くれてやるよ。」
低く、静かな声。
だが、その声に宿るのは、圧倒的な威圧感。
次の瞬間――
紅の翼が、大きく広がった。
そして、それが灼熱の奔流となり、夜行者へと向かって襲いかかる。
「――グアァァアアッ!!」
夜行者の悲鳴が、闇の中に響き渡った。
紅の光が彼の全身を包み込み、燃え上がるように焼き尽くしていく。
まるで、その力が彼の精神の歪みすらも焼き払おうとしているかのように――
夜行者は、もがいた。
歯を食いしばり、抵抗しようと、両手に黒き魔力を宿す。
「まだだ……まだ、終わらない……ッ!!」
闇の波動を生み出し、紅の光を打ち消そうとする。
――だが、その闇は、まるで霧のように散った。
紅い光の前では、あまりにも脆い。
夜行者の顔が、絶望に歪む。
「バカな……!俺が……この俺が、負けるはずが……!!」
「……違う、こんなはずじゃない……!」
夜行者の叫びが、闇夜に虚しく響いた。
その声には、抑えきれぬ絶望と、狂気に満ちた執念が滲んでいた。
そして――
紅蓮の光が、再び燃え上がる。
奔流となり、夜行者の全身を呑み込んだ。
「……っ!?」
彼の身体は、烈火のような輝きの中で、少しずつ輪郭を失っていく。
まるで、その存在すらも、この世界から消え去ろうとしているかのように――。
だが、それでも。
彼の目には、なおも狂信者の輝きが宿っていた。
崇拝と執着。
そして、救いを求めるような、哀切な祈り。
最後に、彼の唇が微かに動く。
「……女神よ……我を、受け入れたまえ……」
――その願いが届くことは、永遠にない。
次の瞬間、紅蓮の光は最高潮に達し――
夜行者の姿は、塵となった。
煙のように掻き消え、風に流され、跡形もなく消え去る。