夢幻の追憶 (8)
暗紅の光が揺らめく。
闇紋会の儀式場、その中心で符紋が脈動し、地を這うように広がっていく。まるで意思を持つ生き物のように蠢き、すべてを呑み込もうとしていた。
その中心に立つ男——アレス。
彼の身体は魔力の渦に包まれ、皮膚には無数の亀裂が走っていた。そこから滲み出る暗紅の血が符紋と混じり、狂気じみた光を放つ。
「アレス……」
低く震える声が、静寂を裂く。
エリヴィアは少年の身体を借り、ゆっくりと歩み寄った。
目の前の男は、かつての戦友だった者。
ともに戦い、理想を追い求めた者——
だが今、彼の姿はあまりにも変わり果てていた。
「やめて……!こんなことをしても、これは私たちの理想じゃない!」
悲痛な叫びが響く。
だが、アレスの瞳にはもう、迷いの色はなかった。
「エリヴィア……邪魔をするな。」
彼の声は低く、冷酷だった。
「俺は……この道しか選べない。」
「そんなはずない……!」
エリヴィアの胸が軋む。
「あなたは、こんな世界を望んでたわけじゃない……!」
必死に伸ばした手。
しかし、アレスはその手を振り払うように、一歩後ずさった。
「お前にはわからない。」
冷たく、突き放すような言葉。
「この世界に、憐れみは必要ない。」
その瞬間、エリヴィアの心が張り裂ける音がした。
——あぁ、もう、届かないんだ。
彼は、もう戻らない。
「……なら、私も引かない。」
エリヴィアの瞳に炎が宿る。
少年の体から、彼女の力が溢れ出す。
まるで赤く燃え盛る炎のように——
「アレス……あなたが何を選ぼうと、私はあなたを止める!」
光が、影を切り裂く。
二つの信念が、最後の衝突を迎えようとしていた——
背後で、紅蓮の翼が大きく広がった。
光が迸る。
それは炎のように燃え盛り、儀式場を真紅に染め上げた。
神力が奔流となり、アレスの魔力を押し返す。
二人の間に、赤い結界が張られ、外界との隔絶が生まれた。
その瞳は、紅蓮の熔岩のように深く、熱く、揺るぎない決意を宿している。
「——たとえすべてを燃やし尽くしても、私はあなたを止める。」
光の波動が、彼女の肉体を蝕む。
少年の髪が、力に耐えきれず白く染まり、顔色は雪のように蒼白へと変わる。
この力は、彼の身にはあまりにも強すぎる——
しかし、エリヴィアは止まらない。
この紅き翼に、最後の望みを託すように——
鼓動の音が、神力の脈動と混ざり合う。
今、この瞬間——彼女は、すべてを燃やしている。
神力も、そして、心の奥底に残るたった一つの願いも——
「アレス……!」
その名を呼ぶ声は、震えていた。
愛しき友への、届かぬ叫び。
だが、アレスの瞳には狂気の炎が灯る。
「邪魔をするな……エリヴィア……!」
低く、冷たい声。
しかし——
彼女の光に包まれる中で、アレスの目がわずかに揺れた。
混濁していた意識が、一瞬だけ、僅かに澄み渡る。
「……お前の言う通りなのかもしれない。」
掠れた声が、虚空に響く。
「だが……俺はもう、戻れない……。」
震える手が、エリヴィアへと伸ばされる。
だが、その指先は、触れることなく、空を掴むように止まった。
彼の顔には、深い悲哀が滲む。
「……俺の娘……カルマを……頼む……彼女を……巻き込まないでくれ……。」
光の中、言葉が溶けていく。
最後に浮かんだのは——
父としての、ただひとつの願い。
次の瞬間——
符紋の暴走するエネルギーが彼の体を包み込み、光の粒となって崩れ始めた。
無数の細かな輝きが宙に舞い、まるで夜空に消えていく星のように、一つ、また一つと消えていく。
「……アレス……!」
エリヴィアは崩れ落ちるように膝をついた。
力なく伸ばした指先が、掴むことすらできない光の残滓を求める。
だが、それは指の隙間をすり抜け、儚く散っていくばかりだった。
——もう、二度と届かない。
白き髪が夜風に舞い、少年の肩をなびく。
神力の余波に耐えきれず、彼の体は限界を迎えようとしていた。
燃え尽きるように、紅き翼はゆっくりと霧散し、最後に残った僅かな光が静かに消えていく。
彼の瞳もまた、燃え盛る紅から、いつもの翠へと戻っていった。
しかし——
その目には、決して消えることのない悲しみの影が刻まれていた。
夜風が吹く。
灰燼となった符紋の残骸が舞い上がり、光の粒とともに宙へ還る。
それはまるで、アレスの魂を見送るかのように——
少年はそっと手の中の短剣を撫でた。
まだ、そこに温もりが残っている気がした。
けれど、それもすぐに夜の冷気へと奪われ、ただの冷たい刃へと戻っていく。
少年の唇が微かに震え、搾り出すようにその名を呼ぶ。
「……アレス……」
声は夜闇に溶け、誰にも届くことはなかった。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは——
共に戦った日々、交わした言葉、そして最後に見た、狂気と後悔の入り混じった目。
かつての戦友は、もういない。
それでも——
彼の願いだけは、まだこの手の中に残っている。
少年はゆっくりと立ち上がった。
そして、深く息を吸い込む。
短剣を静かに納め、夜空を見上げる。
星の瞬きは、まるで問いかけるように、ただ静かにそこにあった。
「……俺は、行くよ。」
たとえ、この道がどれほど険しくとも。
アレスの遺した誓いと共に。