暗流の幕開け(5)
炎とカルマは、互いに視線を交わした。
そこにあったのは、確かな決意。
言葉など不要だった。
目の前の夜行者は、狂気を纏いながら立っている。
黒き魔力が、底なしの深淵から溢れ出すように広がり、あらゆる光を飲み込もうとしていた。
炎は、ゆっくりと息を吸い込み――
そして、静かに吐き出す。
心音が、呼吸と共に一定のリズムを刻む。
あらゆる感情を、心の奥底へと沈める。
そこに残るのは、ただ冷静と決断のみ。
指に込めた力が、握る銃へと伝わる。
引き金を絞る準備は、すでに整っていた。
狙うべきは――ただ一人。
夜行者。
その隣で、カルマもまた、じっと闇の中で燃え続ける炎のように佇んでいた。
胸の前で交差した手のひらに、魔力が脈動する。
紅蓮の焔。
それは、まるで生きているかのように揺らめき、カルマの意思に呼応する。
紅い髪が、魔力の奔流に揺れた。
その瞳には、研ぎ澄まされた集中と、不屈の光が宿っている。
呼吸を整える。
炎と同じく、彼女もまた、すべての雑念を切り捨てる。
待つのは、一撃の好機。
――そして、夜行者が動いた。
しかし、その目は炎を見ていた。
まるで、飢えた獣のように。
「……やはり、か。」
その声は、執着に満ちていた。
「エリヴィアの贈り物……。
お前の中には……確かに、彼女の力が宿っている。」
夜行者の瞳に、狂気の光が宿る。
「この力を求めて、私はどれほどの時を費やしたか……。
だが、持っているのは貴様のような凡人だと?
ふざけるな……ッ!」
「この力は、本来ならば……この私のものだ!
私こそが、それを受け継ぐにふさわしい!!」
狂気に染まった声が、闇に響く。
その言葉を聞いたカルマは、背筋に一瞬寒気を覚えた。
「……完全に病気ね。」
低く呟きながら、そっと炎に目を向ける。
「あいつ、力に飢えすぎて、自分を見失ってる。」
炎は、僅かに眉をひそめた。
そして、冷ややかに告げる。
「……何の話だ?」
「何の話だと?」
夜行者の声が、狂熱に震える。
その双眸には、抑えきれぬ渇望と狂喜の色が浮かんでいた。
「彼女の力は、お前の中にある!
お前こそが、彼女の遺した意志そのもの!
なのに……なぜ、それを自覚すらしていない?!」
炎は、夜行者を冷たく見据えたまま、
握る符紋銃に、わずかに力を込める。
「……この力は、誰のものでもない。」
その言葉を聞いた瞬間――
夜行者の目が、狂気に染まる。
「違う……! 貴様にはわからない!」
激情に駆られたように叫びながら、夜行者はさらに一歩前へと踏み出した。
「彼女の力が、なぜ凡人であるお前の手に渡った!?
それは、断じて許されることではない!」
黒き魔力が、彼の手元に収束していく。
「この力を継ぐべきは、この私だ……!
そして、この世界を、彼女が望んだ理想へと創り変える……!!」
次の瞬間、
夜行者の手から、黒き奔流が溢れ出した。
――グゥゥゥゥ……!!
周囲の魔物が、狂気に取り憑かれたように咆哮する。
そして、炎とカルマへ向かって、一斉に襲いかかってきた。
「……この狂信者、力のためなら何でもするつもりか。」
炎は、静かに息を整える。
カルマと一瞬、視線を交わす。
言葉は不要だった。
彼らは、前へと踏み出す。
――迎え撃つために。
戦いが始まる。
夜行者の狂気は、戦闘の中でますます剥き出しになっていった。
彼が両腕を振るうたびに、黒き魔力が剣のように空を裂く。
鋭利な刃風となった闇が、一直線に炎を狙う。
その攻撃は、ただの一撃ではない。
「退路を断つ――か。」
炎は、夜行者の狙いを悟る。
それは、単なる攻撃ではなかった。
確実に、確実に、逃げ場を潰していく。
まるで、獲物を追い詰めるかのように。
カルマは即座に動いた。
迷いなく両手を振り上げ、指先から烈火の奔流を解き放つ。
ゴォッ!!
爆ぜる炎が、咆哮するように夜行者へと襲いかかった。
「……ッ!」
夜行者は反射的に数歩後退する。
しかし――
その口元には、なおも冷え冷えとした笑みが浮かんでいた。
そして、なおも執拗に炎を見据えながら、低く呟く。
「これはまだ始まりにすぎない……
本当の終焉は、私が彼女の力を手にした時に訪れるのだ!」
――次の瞬間。
夜行者が、再び炎へと襲いかかる。
その攻撃には、異様なまでの執着が込められていた。
心臓、喉、腹部――
殺意に満ちた一撃が、次々と繰り出される。
「……ッ!」
炎は最小限の動きで、素早く回避しながらも、胸中に疑念が過ぎる。
「……こいつが言っている『力』とは、一体?」
目の前の男の瞳には、狂気の光が宿っていた。
それは、常軌を逸した渇望。
貪欲で、病的なほどに執着した眼差し。
まるで、炎の中に彼が長年探し求めた至宝が眠っているかのように――。
だが、炎にとってはただの戯言でしかない。
深く息を吸い、冷静さを取り戻す。
「こんな言葉に、惑わされるな――」
そう、己に言い聞かせながら。
「……何の話をしている?」
炎は静かに問いかける。
だが、夜行者の目に映るのは、歪んだ光のみ。
「まだ……わからないのか?!」
怒声にも似た叫びが、戦場に響き渡る。
彼の手のひらに渦巻く黒き魔力が、さらに濃縮され、圧縮されていく。
その異様なまでの膨張により、空気が震え、空間が軋む。
「その瞳…… その力……
お前の中にある『彼女』の意志を……
私が手放すわけがないだろう!!」
――ドンッ!!
黒き刃のような魔力が、一瞬で炎へと振り下ろされた。
だが、炎は微塵も動揺しなかった。
無駄な迷いも、疑念もない。
彼の体が本能的に反応し、夜行者の猛攻を確実に回避していく。
「こいつの狂気…… 放置するわけにはいかない。」
それだけは、確かだった。
炎は、冷静に夜行者の狂気じみた猛攻をかわし続けていた。
だが――
その瞳に、一瞬の迷いがよぎる。
夜行者の言葉には、ただの執着とは違う、何か深いものがあった。
それは、炎の心の奥底に眠る、未だ目覚めぬ何かを揺り動かすような響き。
激しい攻撃の応酬の中、不意に――
ぼんやりとした、断片的な記憶が、ふっと脳裏をかすめた。
曖昧で、不確かで、まるで霧の向こうにあるかのような映像。
それでも――
なぜか、懐かしい感覚が胸を締めつけた。
優しく、それでいて力強い視線が、彼をじっと見つめているような――
そんな錯覚を覚えた。
「……わからないのか?」
夜行者の声が、嘲るように低く響く。
その瞳には、狂気の焰が燃え盛っていた。
「彼女の力は……俺のものだ。
本当の価値を理解できるのは、この俺だけだ!」
炎は、一瞬息をのむ。
だが――
すぐに頭を振り、迷いを断ち切る。
「……その力の本当の価値は、まだ俺にはわからない。
だが、一つだけ確かなことがある。」
炎の声は、静かに、しかし揺るぎなく響く。
「お前のような狂人のものには、決してならない。」
その言葉には、曖昧な迷いすらない。
炎の中に眠る「力」は、まだ彼自身にも理解できない。
だが、はっきりとわかることがある。
それは――
この力は、決して夜行者のような歪んだ執念に屈するものではない、ということ。
「貴様……ッ!!」
夜行者の目が、狂気に染まる。
ゴゴゴゴ……ッ!!
黒き魔力が、制御を失ったかのように溢れ出す。
その圧倒的な波動は、嵐のように吹き荒れ、戦場全体を揺るがした。
「……来るぞ!」
炎が警戒を強める。
次の瞬間――
「死ねぇぇぇッ!!」
夜行者の手から奔流のような魔力波が解き放たれる。
ドオォォォン!!
激震と共に、黒い衝撃波が空間を歪めながら炎とカルマへと襲いかかった。
「チッ……!」
カルマは瞬時に反応し、魔力を凝縮させる。
掌の中に燃え盛る橙紅色の火焰が、一瞬で防御障壁を形成する。
――ゴォォォ!!
夜行者の攻撃が、火焰の障壁に激突し、辺りに爆風を巻き起こした。
だが――
「……ッ!!」
魔力の圧が、予想以上に重い。
まるで空気そのものが黒く淀み、ねっとりと絡みついてくるかのような感覚。
カルマは、かつて感じたことのないほどの圧迫感に、無意識に喉を鳴らした。
(まずい……このままじゃ……)
思考がよぎる、その瞬間――
夜行者の狂気の眼光が、鋭く光る。
「……フフッ」
突如――
彼は攻撃の軌道を変えた。
「……ッ!」
ターゲットは――カルマ。
(しまった!)
カルマの思考が追いつく前に、夜行者の手が振り下ろされる。
「……カルマ!!」
炎の瞳孔が、一瞬で縮まる。
考えるよりも早く――
炎の身体が、反射的に動いた。
――ドンッ!!
カルマを、強引に突き飛ばす。