曖昧な鏡像 (4)
部屋へ戻ると、アイデンと炎は手に持っていた朝食の袋をそっとテーブルに置いた。
それを見たカルマとリアの表情が、一瞬だけ明るくなる。ほんの些細なことではあるが、空腹の状態で温かい食べ物を目の前にすると、人は自然と緊張を解くものだ。疲れの色が濃かった二人の顔にも、少しだけ安堵の気配が宿る。
部屋全体に、ふわりとした温もりが広がるような気がした。
アイデンはふと炎を見つめ、その顔色に違和感を覚えた。どことなく青白く、表情には微かに影が落ちている。普段なら気に留めない些細な変化かもしれないが、先ほどの出来事を思い返すと、放っておくわけにもいかない。
「本当に大丈夫か? なんか、まだ調子が悪そうだけど……」
炎はわずかに首を振り、アイデンの心配を制した。その動作は静かで、どこか強い意志が感じられた。
「……余計な心配はさせたくない。今は、みんなちゃんと飯を食ったほうがいい。」
そう低く呟き、炎は軽くアイデンの肩を叩く。
その仕草には「これ以上は聞くな」という無言の意思が込められていた。
アイデンはしばらく炎の目を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。
ただ、内心では彼の態度に疑念を抱きつつも、今は炎の気持ちを尊重することにした。
炎は何気ない様子で部屋の隅へと向かい、手にしたスマホの画面を指で滑らせる。
検索バーに、あるキーワードを入力した。
――数年前の交通事故。
夢の中で見た光景、突如として蘇った記憶。
あれは本当に過去の出来事だったのか、それともただの幻だったのか。
答えを知るために、俺はここまで来たんだ。
画面をスクロールするたびに、彼の心臓は嫌な鼓動を打った。
検索結果の一覧が映し出されるたびに、記憶の断片が疼くように蘇る。
――あの日、確かに俺は何かを失った。
冷たく重たい不安が、胸の奥底に沈んでいく。
そして、指を止めた瞬間、彼の視界に映ったのは――
そんな時、カルマがふと炎の様子に気づいた。
部屋の隅に座り込む彼の姿は、どこか沈んだ影を落としていた。
カルマは無言のまま、そっと朝食の包みを手に取り、静かに彼の前へと歩み寄る。
優しく微笑みながら、彼の目を覗き込むようにして言った。
「少しでも食べた方がいいわよ。このままだと、持たないわよ?」
炎はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、疲労の色が滲んでいる。
彼はかすかに微笑んだものの、その表情にはどこか影が落ちていた。
「……ありがとう。でも、今は正直、食欲がない。」
押し殺した声。無理に平静を装っていても、その奥底にあるものは隠しきれない。
カルマは少し眉を寄せたが、それ以上は何も言わず、静かに朝食を炎の隣に置いた。
そして、ただ「分かってるから」というような、優しくも包み込むような眼差しを彼に向けると、黙って背を向けた。
炎は無言のまま、手にしたスマホを閉じる。
しかし、部屋の空気はどこか重く、心の奥に渦巻く不安と記憶の残響は、波のように押し寄せてくる。
彼は深く息を吸い込み、それを押し殺すようにして立ち上がった。
「ちょっと外の空気を吸ってくる。……少し、整理したいことがある。」
そう言いながら、アイデンの肩を軽く叩き、低く囁くように告げた。
「闇紋会やシャドヴェルの情報が入ったら、すぐ知らせてくれ。」
アイデンは短く頷き、その背を見送る。
ドアが静かに閉じられると、室内の張り詰めた空気が少し和らいだ。
だが、それでも――炎の心にはなお、あの事故の記憶が影を落としていた。
それを振り払うには、あまりにも時間が足りない。
そして、答えを求めるには、あまりにも過去が重すぎた。
炎が部屋を出ていった後、カルマはアイデンの方へと視線を向けた。
彼の表情には、かすかな疑念が滲んでいる。
「……さっき、外で何かあった?」
カルマは静かに問いかける。
「エンの様子が変だった。」
アイデンはしばらく沈黙した。
言葉を選んでいるような、その表情は曖昧だ。
やがて、彼は小さく息をつき、低い声で答えた。
「正直、俺にもよく分からない。」
アイデンは眉をひそめ、慎重に言葉を紡ぐ。
「さっき道を歩いてたら、急にトラックが急ブレーキをかけてな。それを見た瞬間……エンの様子が一変した。まるで、何かを思い出したかのように。」
カルマの視線が、閉ざされた扉へと向けられる。
彼女の胸の奥に、かすかな不安が広がるのを感じた。
炎は、普段どんな状況でも冷静で、まるで感情を乱されることなどないような男だ。
しかし——
彼の顔に浮かんだあの脆さと動揺は、間違いなく本物だった。
「……エンの過去、私たちが知らないことが多すぎるのかもしれない。」
カルマは静かに呟く。
それが彼との関係にどう影響するのかは分からない。
けれど——
彼女の心の奥底で、彼をもっと知りたいという感情が小さく芽生え始めていた。
◆ ◆ ◆
朝の気配が濃くなるにつれ、街は次第に活気を帯びていった。通勤や通学の人々が慌ただしく行き交い、それぞれの目的地を目指して足早に歩いている。
誰もが自分の進む先にしか目を向けず、すれ違う他人に気を留める者はいない。
炎もまた、その流れに溶け込むように静かに歩を進め、人混みの中へと紛れ込んでいった。
地下鉄の入口に辿り着くと、彼は迷うことなく構内へ降り、電車の到着を待つ。
やがて滑り込んできた車両に乗り込むと、ドアが静かに閉まり、外界との間に薄い壁ができたかのようだった。
ゴォォォォ——
電車が線路を滑る音が響き渡る。
車内は既に混雑しており、車輪の振動と人々の雑踏が一体となり、閉塞感をさらに強調する。
炎はドアのそばに立ち、スマホの画面に目を落とした。
——探し求める情報は、断片的なピースばかりだった。
記事を読み進めるが、点と点が繋がることはなく、霧のかかったパズルを解くようなもどかしさが募るばかり。
知らぬ間に何駅か過ぎ去った頃、不意に顔を上げる。
——危ない、降り損ねるところだった。
炎は素早くスマホをポケットにしまい、車両を降りる。
プラットホームに降り立つと、深く息を吸い込み、揺れ動く思考を落ち着かせるように静かに吐き出した。
(焦るな……冷静に。)
そう心の中で自らに言い聞かせながら、歩調を整える。
改札を抜け、大通りを渡ると——
目の前に広がったのは、都会の喧騒の中にある、数少ない緑豊かな場所。
広々とした公園の入り口から、木漏れ日が降り注ぐ並木道が奥へと続いている。
葉の隙間から差し込む朝の光が地面に淡い陰影を落とし、吹き抜ける風が微かに花と土の香りを運んできた。
炎は公園の小道をゆっくりと歩いた。
朝の静寂に包まれたこの場所では、ジョギングをする人、ゆったりと体を動かす老人たちの姿が見られる。時折、木々の合間から聞こえる鳥のさえずりが、遠くの車の喧騒とは対照的に穏やかな空気を作り出していた。
この都会の中に残された貴重な緑地は、彼の心をわずかに落ち着かせたが、それでも視線はただ前方へと向けられたままだった。
公園を抜けた先に現れたのは、威風堂々とした建築物——中央図書館。
炎は足を止め、その壮大な建物を見上げる。
静かに胸の奥に広がる、微かな懐かしさと、言葉にならない複雑な感情。
——この図書館には、この街の歴史と知識が詰まっている。
もしかすると、ここに来れば、自分の記憶の霧を晴らす何かが見つかるかもしれない。