夢幻の追憶 (4)
──その時。
公園の通りを歩いていた数人の学生たちが、偶然彼らの姿を目にした。
「エリ! こんな時間まで帰らないの? 隣の人は……?」
そう言って、クラスの女子生徒が明るく手を振りながら近づいてくる。
その声に少年はふと顔を上げ、自然な笑みを浮かべた。
「ああ、こいつ? 俺の叔父さんさ。海外から帰ってきて、様子を見に来たんだ。」
そう言いながら、少年はさりげなくアレスの肩をポンと叩く。
その仕草はどこか気楽で、親しげな雰囲気を醸し出していた。
「へぇ、エリの叔父さんか!」
クラスの男子がアレスをじっと見つめ、親しげに笑った。
「道理でカッコいいと思ったよ。なんか、俳優みたいじゃない?」
すると、別の生徒が首をかしげながら言った。
「いや、俳優っていうより……ほら、あの区議会議員の候補者に似てない? 」
「髪の色が違うし、眼鏡もかけてるけど。」
アレスは一瞬ぎこちなく瞬きをした。
見ず知らずの凡人たちから向けられる視線に、どう対処すべきか分からない様子だったが、それでも無言で小さく頷き、不自然な微笑みを浮かべる。
その様子を見た少年は、軽く咳払いをして、さりげなく場を収めるように手を振った。
「ほらほら、早く帰れよ。遅くなるとまた家で小言を言われるぞ?」
「はーい、はーい!」
クラスメイトたちは笑いながら手を振り、軽口を叩き合いながら去っていく。
彼らの背中が街角に消えていくのを見届けた後、アレスはゆっくりと少年に向き直り、興味深そうに尋ねた。
「……‘エリ’? それは何だ?」
少年は微笑みながら答えた。
「この街の人間は、よく自分の名前を略したり、英語風の呼び方にするんだ。
友達同士ではフルネームで呼び合うことは少ない。」
アレスは考え込むように頷いたが、その直後、ふと面白そうに目を細める。
「……つまり、こいつらはお前のことを‘エリ’と呼ぶ。」
「だが、それはもともと、お前の名前の略称でもあるんじゃないか?」
少年は口元をわずかに上げ、その偶然にどこか面白みを感じたように微笑んだ。
「そうだな。この少年の名前の略称も‘エリ’だ。最初に聞いたとき、どこか運命的なものを感じたよ。この世界での俺の‘身分’と、過去の俺が、何かしら繋がっているみたいでな。」
アレスはそんな少年の微笑みを見つめ、胸の奥でわずかな衝撃を覚えた。
しばし沈黙した後、静かに呟く。
「……これが、凡人の言う‘運命’というものなのかもしれんな。」
少年は長椅子に身を預け、遠くの景色を漫然と眺めながら、何気なく問いかけた。
「ところで、アレス。」
「お前、しばらくこっちで暮らすつもりなら……魔界に残してきた家族のこと、恋しくならないのか?」
「例えば……お前の妻と娘とか?」
アレスはその言葉に一瞬驚いたように目を伏せた。
そして、しばしの沈黙の後、何かを思い出したかのように目を細め、深い陰影を帯びた視線を落とす。
「……恋しい、か。どうだろうな。」
その声には言葉にできない複雑な感情が滲んでいた。
まるで、深い後悔と抑えきれない痛みが交錯しているかのように。
「俺の妻は……俺がエリヴィアと共に三界共存を目指すと決めた時点で、すでに俺とは距離を置いていた。俺の信念を、彼女は理解できなかった。むしろ、俺を責めてさえいた……。」
彼は一度言葉を切り、わずかに目を伏せる。その表情にはかすかに影が差していた。
「娘のことは……まだ幼い。俺の理想に巻き込まれるべきではない。」
「俺はただ、彼女が魔界の争いから遠ざかり、穏やかに成長してほしいと願っている。それだけだ。」
少年は静かに耳を傾け、わずかに目を細めた。
その瞳の奥に、一瞬だけアレスの内心に触れたかのような微かな光が揺らめく。
そして、彼はそっと頷き、これまでの戯けた口調とは違い、どこか穏やかな声音で問いかけた。
「だから、お前は人間界へ来た。」
「……逃げるためか? それとも、別の可能性を探すためか?」
アレスは深く息を吸い、遠くの街並みに視線を向ける。
賑やかな人々の営みを眺めながら、その先に自らが追い求める理想の片鱗を探すように——。
「……たぶんな。俺はただ、本当に辿れる道を探しているのかもしれん。」
「たとえその道が茨に覆われていようと、たとえ痛みを伴おうと……」
「それでも、ほんの僅かでも希望があるのなら、俺はそれを見届けたい。」
少年はアレスの横顔を見つめながら、ふっと口角を上げる。
彼の声には、先ほどまでの軽やかさとは違う、どこか温かみのある響きが宿っていた。
「それもまた、一つの選択肢だよ。アレス。」
「どんなに代償が重かろうと……お前が信じ続ける限り、それがきっと、お前の力になる。」
アレスはゆっくりと少年へと視線を戻し、しばらく彼の言葉を噛み締めるように沈黙する。
そして、やがて小さく頷いた。
その瞳には、わずかではあるが、確かに何かを見出したような光が宿っていた。
アレスは沈黙のまま夕陽を見つめていた。
その琥珀色の光を映す瞳には、かつての揺るぎない信念と、今この瞬間の微かな温もりが交錯しているようだった。
そして、しばらくの沈黙の後——彼は低く呟く。
「エリヴィア……お前は、昔よりも……随分と優しくなったな。」
その低い声には、どこか複雑な響きが混ざっていた。
まるで、理解と困惑の狭間で揺れているかのように。
「昔のお前は、ただ冷静に状況を分析するだけだった。
誰かの内面の葛藤を、こんなふうに理解しようとすることなんてなかったはずだ。」
その言葉を聞いた少年は、一瞬だけ動きを止める。
その表情に、ほんの僅かだが、隠しきれない陰りが差した。
だが、それも束の間。すぐに彼はふっと微笑み、淡々とした口調で答える。
「……たぶんな。」
「人間の体に宿り、彼らの世界で生きているうちに、いつの間にか俺も……昔は気にも留めなかったものを、学んでしまったのかもしれない。」
彼の声には、どこか遠くを見つめるような儚げな響きがあった。
「人間の感情はな……あまりにも鮮やかで、生々しくて、無視することができないんだよ。」
アレスはそんな彼の横顔を静かに見つめた。
その深く澄んだ瞳の奥には、まるで過去の戦神エリヴィアの姿が重なっているかのような錯覚を覚えた。
だが、それは決して変わらぬ存在ではない。
かつての戦神が、少年の影に溶け込むようにして——少しずつ、確かに変わり始めていた。
夕陽の余韻が二人の影を地面に長く落とす。
その影は静かに重なり合い、まるで時間を超えたように、かつての記憶と今この瞬間を繋ぎ合わせていた。
「もしかすると、俺たちは皆……自分が歩み続ける理由を探しているのかもしれないな。」
アレスは低く呟きながら、隣に座る少年へと視線を向ける。
その瞳には、どこか敬意と微かな温もりが滲んでいた。
少年はアレスの目をじっと見つめ、ゆるりと口元を持ち上げる。
穏やかでありながら、どこか揺るぎない強さを秘めた声で、こう答えた。
「アレス……どんな道を選んだとしても、この凡人の世界では、俺たちはわずかでも希望を見出せる。
この世界は、俺たちが思い描いた理想には程遠いかもしれない。
だけど――人間の強さとしなやかさを知るうちに、俺は彼らに対して……不思議な信頼を抱くようになったんだ。」
アレスは静かに考え込み、ゆっくりと目を閉じた。
そして、再び少年へと視線を戻し、深く頷く。
「……お前の言う通りかもしれないな、エリヴィア。」
彼の声は、どこか遠くを見つめるような深みを帯びていた。
「この世界は、俺たちが知るものとはまるで違う。」
「だが……ここでなら、お前と共に見届けられる気がする。
俺たちの理想が、本当に実現できるものなのかどうかを。」
二人は向かい合いながら、互いの抱える想いを理解し合う。
ゆっくりと、夕陽が地平線の彼方へと沈んでいく。
伸びる影は徐々に重なり合い、やがて一つの線となって交わっていく。
まるで、それぞれが異なる道を歩みながらも、運命のどこかで繋がっているかのように――。