暗影に結ばれるもの (10)
話している最中、カルマの視線がふと炎の肩に向けられた。
そこには、未だに癒えていない傷口――滲み出た血が赤く滲んでいた。
(……おかしい)
彼女は心の中で小さく呟く。
これまで何度も見てきた。炎の傷は異常なほど早く回復するはずなのに、今回に限って違う。
「エン、今回の傷……どうして、前みたいにすぐ治らないの?」
思わず口にしたカルマの問いに、炎は肩をすくめて軽く笑った。
「むしろ、すぐ治る方が普通じゃないんだよ。たかが小さな傷さ」
その言葉に、カルマは小さく頷いた。
納得はしたものの、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
彼の傷だけではない。
――先ほどの戦闘中、炎の短剣が放つ魔力に、どこか既視感があった。
ふとした衝動に駆られ、彼女は意を決して口を開く。
「エン、その短剣……ちょっと見せてくれない?」
炎は一瞬、訝しげに彼女を見たが、すぐに無造作に短剣を差し出した。
「……好きにしろ」
カルマは短剣を手に取り、符紋の刻まれた刃をじっと見つめた。
指先でそっと表面をなぞると、かすかに魔力の残響が感じられる。
――この紋様、間違いない。
胸の奥がざわめく。
この符紋の彫り方、魔力の流れ、その細やかな技術……
すべてが、彼女にとって見覚えのあるものだった。
「……この短剣の符紋、父のものよ」
低い声でそう告げると、カルマはゆっくりと顔を上げ、炎を見つめる。
その眼差しには、驚きと困惑、そして複雑な感情が入り混じっていた。
炎は微かに眉をひそめ、小さく息をつく。
「……俺が物心ついた時には、すでにこの短剣と銃を持っていた。」
「でも、どこで手に入れたのかは覚えていない。銃の方が使い慣れてるから、短剣はただ持ち歩いてるだけだ」
まるで当たり前のことを話すかのように、淡々とした口調で炎は言った。
「じゃあ、これがどこから来たのか考えたこともないの?」
カルマが疑問を投げかけると、炎は一瞬視線をそらし、静かに答える。
「……正直、俺にとっては重要なことじゃない」
その声音は冷静で、まるで短剣の来歴など些細な謎に過ぎないと言わんばかりだった。
炎は、カルマが短剣をじっと見つめているのを見て、ふと疑問を抱いた。
思案にふける彼女を見つめながら、静かに問いかける。
「……カルマ。アレスは、短剣を作ることが多かったのか?」
カルマはわずかに首を振り、低く呟くように答えた。
「父が符紋の研究をしていたのは知っている。でも……」
「こういう短剣を作っていたところを見たことはないわ。
少なくとも、父が私に手作りの武器をくれたことは一度もなかった……」
彼女は短剣を炎へと差し出す。
その瞳にはどこか寂しげな色が宿っていた。
この短剣の符紋が父の手によるものであることは疑いようもない。
だが、それがなぜ炎の手にあるのか――
その答えは、あまりに遠く、手を伸ばしても届かない。
炎は短剣を受け取りながら、ふと考え込むように呟いた。
「……この短剣の由来、どうやら単純なものじゃなさそうだな」
その声には、どこか探究心を滲ませた響きがあった。
カルマは彼の言葉を聞きながら、胸の奥に小さな波紋が広がっていくのを感じた。
父の刻んだ符紋、炎の手にある短剣――その繋がりは偶然なのか、それとも必然なのか。
本当なら、もっと聞きたいことが山ほどあった。
だが、言葉にならない感情が喉を塞ぎ、彼女は結局何も言わないまま、ただ黙っていた。
炎はカルマの沈黙に気付き、ふっと目を細める。
彼の表情は、いつものように淡々としていたが、その声はどこか柔らかさを帯びていた。
「……まあ、この短剣は今のところ俺の手元にある。それも悪くないだろう。
いずれもっと色々分かるようになった時には――きっと、今よりも意味を持つはずだ」
それ以上は何も言わず、炎は短剣を静かに鞘へと戻した。
炎の何気ない言葉を聞きながら、カルマの胸の奥にかすかな感情の揺らぎが広がっていった。
この短剣に対する自分の気持ち――それが何なのか、彼女自身もはっきりとは言えない。
もし今、炎が「お前にやる」と差し出してきたとしても、きっと彼女は拒んでしまうだろう。
それは、この短剣が父の手から直接渡されたものではないから。
そして、突然現れたこの「繋がり」に対し、どう向き合えばいいのか分からないから。
だが、炎の言葉の端々には、彼なりの配慮が込められていた。
彼女が迷うことを理解し、軽々しく短剣を渡すのではなく、その時が来るのを待つ――そんな意思を感じ取れた。
その優しさに気付いた瞬間、カルマはほんのわずかに息を吐き、心の奥に小さな温もりが生まれた。
炎とカルマの会話がひと段落すると、避難所の空気は次第に静まり返った。
しかし、その静寂の中にも、どこか張り詰めた気配が残っていた。
椅子の上で丸くなっているリアは、深い疲労に包まれたまま微動だにしない。
だが、カルマと炎の意識はすでに別の問題へと向かっていた。
アレスの行方、シャドヴェルの狙い、そして闇紋会の次なる動き――
それらこそが、彼らの前に立ちはだかる本当の脅威だった。
アイデンはしばらく黙考した後、低い声で呟いた。
「リアの置かれた状況は確かに危険だ……だが、シャドヴェルの動きがここまで深く絡んでいるとなると……彼女だけの問題では済まされない。」
炎はわずかに頷き、冷静な視線を向ける。
「シャドヴェルの執着は、決して彼女一人のためではない。
アレスの行方を突き止める必要がある……やつは何か重要な手がかりを握っているかもしれない。」
カルマはゆっくりと息を吸い、目を閉じると、再びまっすぐな視線を前に向けた。
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「父がどこにいるのか、それが分かれば、全ての謎が解けるはず……シャドヴェルの狙いを突き止めることが、突破口になる。」
その時、ずっと様子を見ていたマイルズが一歩前に出た。低く落ち着いた声で言う。
「闇紋会の活動範囲は広く、表立って動くことはほとんどない。
ただ……俺の持っている情報網なら、シャドヴェルの動向を探れるかもしれない。」
アイデンは静かに頷き、視線を仲間たちへと向けた。
「ひとまず休もう。リアの回復を待ってから、次の調査に取り掛かる。」
誰も反論することなく、それぞれ静かに頷いた。言葉にするまでもなく、全員が理解していた。
今は束の間の休息――
だが、それが終われば、待ち受けるのはさらなる混沌だろう。
どれほどの困難が待ち受けていようとも、もう後戻りはできない。
-第四章:暗影に結ばれるもの(完)-




